願いごと、ひとつ

 ——ゾロが好きだ。

 自分の心を徐々に占めていくこの感情に気がついたのは、いつだっただろうか。
 だいたい、出会いからして強烈だった。
 己の野望と矜持のために命を捨てることも厭わないその姿に、理解できないと思うと同時にかつてない程の衝撃を受けた。あの瞬間に、ゾロはおれの心に深い爪痕を残したのだ。

 仲間として共に旅をするようになってからは、同い年なせいもあってか事あるごとに張り合うゾロのことを気に食わない、ムカつく野郎だと何度も思った。ただ、そんなムカつく野郎でもゾロの実力は認めていた。信頼しているからこそ戦闘では躊躇なく背中を預けたし、向こうもそれは同じであるようなのが嬉しかった。それに、年上に囲まれて育ったおれにとって、同い年で気兼ねせずにいられる関係というものは新鮮で、些細なことで絡んでは喧嘩をする日々を心のどこかでは楽しんでいたのだと思う。
 そんなだから、必然的にゾロとの関わりは増えていった。その中で、意外に綺麗にメシを食うところだとか、時々見せる子供っぽい笑顔だとか(これはおれにはほとんど向けられないけれど)、案外優しいところだとか、新たな一面を知る度にゾロという人間に少しずつ惹かれていった。
 そうして、仲間としてとは別の意味合いでゾロのことが好きなのだと気付いた時には、もう誤魔化すことができないほど、気持ちが育ってしまっていた。
 どうしようもなく膨らんだ感情を持て余しながら、おれは考えた。
 仲間、それも犬猿の仲であるおれがこんな気持ちを抱いているとゾロが知ったらどう思うだろうか。
 だいたいおれは男だ。上陸した時に花街へと向かう姿を何度か見たことがあるから、おそらくゾロにそっちの気はない。おれだってゾロが特別なだけで、野郎なんて真っ平御免だ。だから、野郎であるおれに好かれて嬉しいなんて思うことは、たとえ天地がひっくり返ってもないだろう。きっと、冗談じゃないとか、迷惑だとか思われるに違いない。でもそれ以上におれが恐れたのは、ゾロに軽蔑されるかもしれない、ということだった。
 仮にこの気持ちを伝えたとして、無下にされようが別に構わない。そもそも、受け止めてもらえるだなんて甘い期待は端から持っていない。
 けれど、肩を並べて立つ存在であるゾロから軽蔑されることだけは、とても耐えられそうになかった。そんなことになったら、おれはきっとこの船に乗っていられない。
 だからおれは、ようやく自覚した恋心を再び胸の奥底に沈め、この先何があっても隠し通すことに決めたのだ。

 一度芽生えた感情をなかったことにする、それはひどく痛みを伴うものだった。何しろ、嫌でも毎日顔を合わせるのだ。忘れる暇がない。それどころかおれの気持ちなんてお構いなしにゾロはしょっちゅう喧嘩を吹っ掛けてくるもんだからその度に体が触れ合うし、時には何の気まぐれか二人で飲む羽目になることもある。そんなだから、ゾロへの想いは日増しに膨れ上がり、今にも弾けてしまいそうだった。到底見て見ぬ振りなどできないほど育ったそれから、おれはひたすら目を背け続けた。ゾロだけじゃない、他の船員クルーの誰にもこんな想いを知られる訳にはいかないから。
 そんな血の滲むような努力の日々に、おれの心は端からじわりと蝕まれていった。辛くて辛くて、行き場のない苦痛に耐えられなくなりそうになった時。サニー号はあの島へと辿り着いたのだった。

 

 

 麦わらの一味は記録指針ログポースが指し示すとある秋島に辿り着いた。
 沖から見たその島は山がちで、季節は秋島の秋であるのだろうか、山肌を覆う木々は鮮やかな赤や黄色に染まりつつあり、島全体が錦を身に纏っているかのようだ。風光明媚なその島にはしかし、船から見る限り町らしいものは見当たらなかった。見えていない島の裏側にあるのかもしれないが、無人島の可能性もある。美しい紅葉に劣らず鮮麗なオレンジの髪をかきあげながら、ナミは困ったようにため息をついた。
「この次の島まで結構距離があるみたいだから、ここでしっかり物資の補給をしたかったんだけど……あまり期待出来なさそうね。サンジくん、食料の余裕はまだある?」
 問われ、この船の優秀な料理人はすぐに答えを返す。
「まだ備蓄はあるけどそんなに余裕がある訳じゃないから、この島で補給できないと厳しいな」
「分かったわ。とにかく上陸してみないことにはなんとも言えないわね。私とロビン、それにサンジくんで偵察に行きましょう」

 サニー号を目立たないところに停泊すると、三人は島へと足を踏み入れた。
「こっち側には何もなさそうだから、まずは島の裏側に行ってみましょう」
 島の中央は山なので、海岸線に沿って島の裏側へと歩いて行く。
 先ほど沖から見ても十分綺麗だったが、間近で見る色付き始めた木々はまた格別の美しさだ。そんな景色を見ながら、日頃から女神と崇める美女二人と一緒というシチュエーションに、サンジは目をハートにして体をくねらせた。
「近くで見るとまた一段と綺麗だね〜!こんな景色の中ナミすゎんとロビンちゅわんとデートできるなんて、おれはなんて幸せ者なんだ〜〜!!」
「デートじゃなくて偵察だけどね」
 ナミがさりげなく訂正する。
「でも本当に綺麗ね。それに、よく見ると木の実や果実がたくさんなっているわ。仮に無人島でも、食料はある程度調達できそうね」
 ロビンが微笑んで言うと、
「そうだね。獣の気配もするから、肉も調達できそうだ」
 料理人の顔に戻ったサンジが答えた。
「それに、見聞色であっちの方に人の気配を感じるんだ」
 どうやら無人島ではないらしいという事実に期待を抱き、三人は足を速めた。

 しばらく行くと少し開けた場所に出た。山の斜面を利用した階段状の畑は黄金色に輝き、その合間にポツリポツリと人家が数軒建っている。
「やっぱり人が住んでるのね。見て、あそこに小さいけれど人影が見えるわ」
 ロビンが指差す方を見ると、上の方の畑に確かに誰かいるようだ。
「きっとこの島の人ね。話を聞いてみましょう」
 斜面を登って行くと、よく日に焼けた青年が一心に稲を刈っていた。
 すみません、と声をかけるまでこちらの存在に気付いていなかったようで、驚いた表情がそのことを物語っていた。
「驚かせてごめんなさい。この島について少し聞いてもいいかしら」
「あ、ああ、いいよ。君達はどうしてこの島に?」
「航海の途中で食糧が乏しくなってきた時にこの島の近くを通りかかったものだから、食料の調達ができないかと思って」
 ナミの答えに危険はないと判断したのか、青年が安堵の笑みを浮かべる。海賊であることは伏せたが、手配書を見ていない限り、この三人を海賊だと思う人はまずいないだろう。青年の反応を見るに、この島で手配書は出回っていないようだ。
「そういうことなら、この先をもう少し行ったところに村があるんだ。規模は小さいけれど市場もあるから、行ってみるといいよ」
「わかったわ、ありがとう。ちなみに記録ログはどのくらいでたまるのかしら。この島についてももう少し教えてもらえると助かるんだけど」
記録ログは一週間でたまるよ。この島はカムイ島と言って、島に村は一つだけ。住民が少ないから他の島との交易はほとんどなくて、基本的には自給自足で暮らしてる。気候がいいから農作物がよく育つし、食べるものにはあまり困らないんだ」
 どうやら海軍はおらず、治安も良さそうだ。おまけに小さいながらも市場があるときた。これなら冒険したがりの船長に冒険させてもあまり問題なさそうだし、記録ログがたまるまでに食糧の調達も十分にできそうねとナミが胸を撫で下ろしていると、それまで黙って話を聞いていたサンジがスッと前に出た。
「なあ、あんたが今収穫してるそれ……もしかして米か?」
「ああそうさ。お兄さん、よく知ってるね」
「おれは料理人だからな。その米も市場で買えるのか?」
「ちょうど収穫を始めたばかりだから、まだ市場には出回ってないんだ。もし買ってくれるなら、記録ログがたまるまでの間に準備しておくよ」
「そりゃ助かる。頼むよ」
 青年と値段と量の交渉をしながら、サンジはゾロのことを思い浮かべていた。
(米はアイツの好物だからな。たくさん手に入りそうでよかった)
 米があるなら米の酒もあるかもしれない。ゾロが一等好きな酒。
 辛くて辛くて限界のくせに、真っ先にゾロのことを考えてしまう自分に心の中でそっと苦笑いをする。
 でも、好物を前にほんのわずか頬を緩めるゾロを想像すると、今にも泣き出しそうな心に優しく沁みて、ほんの一瞬だけでも痛みを忘れられそうな気がした。

 

 青年と別れ教えられた通りに進んで行くと、山の麓の開けた場所にある小さな村に辿り着いた。
 間隔をあけてポツポツと立ち並ぶ茅葺き屋根の民家に赤や黄色に染まった木々が彩を添え、囲いの中では羊や山羊などの家畜がのんびりと草を食んでいる。人口はおそらく五百にも満たないであろうが、のどかで美しい村だ。
 少し歩くと、中心部に小規模ながらも活気のある市場があった。ざっと見渡した感じでは肉や魚、穀物、野菜など一通りのものはありそうだが、自給自足が基本というだけあって店先に並ぶ物の量自体はあまり多くなく、買い出しのみで備蓄分まで賄うのは難しそうだった。なんせ船には尋常じゃない食欲の持ち主である船長がいるため、食材も大量に必要なのだ。さてどうするかと思案して市場を眺めていたサンジは、あることに気付き手近にある店の店主に声をかけた。
「こんにちは、マダム。ちょっといいかな」
「おや、あんた達ここじゃ見かけない顔だね。よそから来たのかい?」
「ああ、航海の途中で食糧補給のために立ち寄らせてもらったんだ。ところで、この市場にはほとんど女性しかいないみたいだけど……」
 そうなのだ。どの店を見ても店主は女性。買い物客も女性や子供ばかり。男といえば、飲み屋兼食堂と思しき店のテラス席で老人が数人酒を片手に座談に興じているだけで、働き盛りの年代の姿がない。
「この島は基本的に自給自足だからね。日中男は畑や漁や山仕事なんかに精を出し、女が市場や内職なんかの仕事をするって昔から決まってるんだよ」
「なるほどな、それで男がいないのか」
「そういうことさ」
「買える食材はここに出てる物で全部なのか?」
「そうさね。備蓄があるにはあるけど、あれは非常時の蓄えだからねぇ。売るわけにはいかないんだ。——そうだ、大巫女様に挨拶しといでよ。許可がもらえれば、山や海で食材が採れるよ」
 大巫女様とやらの家の場所を教えてくれた気のいい店主にお礼を言い、サンジはナミとロビンと共に村の奥の方へと歩を進めた
 しばらく歩いて行くと、目の前に一際大きな茅葺き屋根の家が現れた。
 敷地の入り口には、向かい合うようにして犬を模したと思われる像が鎮座している。建物の中央に位置し、開け放たれた玄関にはしめ縄が飾られ、その家の周りだけ他とは違って荘厳な雰囲気に満ちていた。
「ここかしら」
「間違いなさそうね。中に誰かいるかしら……すみません」
 ロビンが家の奥に向かって声をかけると、少ししてパタパタと駆けてくる足音が聞こえ、巫女装束を身につけた若い女が現れた。
「ああ!なんて清楚で素敵なレディなんだ!」
 途端に目をハートにして体をくねらせ始めたサンジに女はギョッとした表情を浮かべたが、すぐに気を取り直しナミとロビンの方を向くと声をかけた。
「見慣れない顔ですね……旅のお方でしょうか」
「ええ。食糧補給のために先ほど上陸したので、大巫女様にご挨拶をと思って」
「大巫女様のことをご存知なのですか?」
「知らないわ。さっき村の市場で親切な人にこの島で食材を採るなら大巫女様に挨拶するよう教えてもらってきたの」
「そういうことだったのですね。分かりました、ご案内しましょう」
 踵を返す若い女に続いてロビンが歩き出す。
「ちょっとサンジ君、しっかりしなさいよ」
 まだメロリンしていたサンジをナミが小声で小突き、ロビンの後に続く。
 それでようやく我に返ったサンジも、慌てて二人の後を追いかけた。

「しばしここでお待ちください」
 奥の間の手前まで三人を案内すると、若い女は部屋の中へと入って行った。扉は開け放たれたままなので、中の様子がよく見える。
「何かの祭壇か……?」
「そのようね。ここでは犬が神様なのかしら……興味深いわ」
 仄暗い部屋の奥、中央には犬が寝そべったような巨大な銅像が位置していた。その周囲を囲むように蝋燭が置かれ、橙色の炎がゆらゆらと妖しく揺れている。正面には供物だろうと思われる米俵や三方にのった餅、野菜、果物、酒、魚なんかが並べて置かれ、さらにその手前には平伏して祈りを捧げる白髪の女性がいた。ここまで案内してくれた若い女とは違って浅葱色の千早を羽織っている。この人が大巫女様と呼ばれる人だろうかと眺めていると、隣に座った若い女が祈りを捧げる女性に何かを耳打ちした。それを聞いた女性は祈りをやめ、ゆっくりと体を起こすとこちらに体を向けた。
「おやおや。この島に客人が来るのは久しいですね。どうぞ、お入りなさい」
 皺だらけの顔が優しく微笑む。
 一見穏やかな老女は、さすが大巫女様というだけあって静かに、しかし圧倒的な威厳を放っており、三人は自然と背筋を正すと一礼してから部屋の中へと入った。大巫女様と向かい合うようにして横一列に並んで正座をすると、ナミが口火を切った。
「初めまして、私はナミ。隣がロビンで、その向こうがサンジよ。船にあと六人仲間が残ってるわ。私達、航海の途中で食糧の補給をするためにこの島に立ち寄らせてもらったの。次の島まで結構距離があるみたいだからできるだけ多くの食糧を補給したいんだけど、市場で買える分じゃ足りなそうで。この島の食材を少し採らせてもらえないかしら」
 大巫女様はすぐには答えず、柔らかな笑みを崩さぬまま三人を順に見遣った。底の見えない黒い瞳にまるで心の奥底まで見透かされているようで、サンジはどこか落ち着かない気持ちになり、無意識に胸ポケットのタバコに手を伸ばそうとして慌てて戻す。その様子を見てより一層目を細めてから、大巫女様は視線を正面に戻した。
「私はレイサ。この島の大巫女だよ。そなた達、どうやら根は悪い者じゃなさそうだねえ。いいでしょう、この島の食材を採ることを認めます」
「ありがとうございます!」
「ただし、」
 思わず前のめりになってナミが告げた感謝の言葉を、凛とした声が遮った。
「採るのは必要な分だけです。決して余分に採ることのないように」
「あー、失礼。喋っても?」
 ナミと大巫女様の会話に、横からサンジが割って入った。大巫女様が軽く頷いて続きを促す。
「どうぞ、お話しなさい」
「まず、貴重な食糧を快く分けてくれる事に礼を言う。ありがとう。それからおれは船のコックだ。食糧を扱うものとして、おれが責任を持って必要な分しか採らないよう手配する。この島の人達が困るようなことには絶対にならねェから安心してくれ」
 大巫女様は、サンジを見て柔らかく微笑んだ。
「あなたはいい料理人のようね。ただ、採りすぎてはいけないというのは、何も私達島民が困るからという理由だけじゃないんだよ」
「他に何か理由があるのか?」
「この島にある山にはね、おいぬ様という神様がおられるんだよ。普段はこの島を守り豊かな恵みを与えてくださるが、欲にまみれ余剰に奪おうとすれば神の怒りに触れ、山も田畑も荒れ果ててしまう。だからこの島のものは皆、決して採りすぎるということはしないのさ」
「やはりこの島の神様は犬なのね」
 その銅像も神様を模したものかしら、とそれまで黙っていたロビンが口にする。考古学者である彼女にとってはひどく興味を唆られる話のようで、目が少女のようにキラキラと輝いている。
「正確には犬ではないけれど、運が良ければそなた達もおいぬ様のお姿を見ることができるかもしれないねえ。本当にごく稀に、人前にお姿を現しになることがあるから……まだ若い頃に一度だけ、ほんの僅かお見かけしたことがあるけれど、それはそれは美しく気高いお姿だった……」
「それは是非お目にかかってみたいものだわ」
 頬に手を当ててにっこりと笑うロビンに骨抜きになりながらも、神様ねェ……とサンジは心の中で呟いた。
 おいぬ様とかいう神様の話には懐疑的だが、どんな理由があるにせよ無駄に自然の恵みをとり過ぎてはいけないというのは常日頃から心に刻んでいることであり、異論はない。
 ふと、どこぞの誰かが聞こうものなら「おれは神なんて信じねェ」と一蹴しそうだな、と思いまた少し胸がチクリと痛んだ。なるべく考えないようにと思うのに、どうしたって頭は勝手にゾロのことを考えてしまう。
「じゃあ私達はいったん船に戻るから失礼するわ」
 ぼんやりと考え込んでいたら、耳にナミの声が飛び込んできた。次いで立ち上がる気配がしたのでサンジも慌てて立ち上がり、ナミとロビンと共に屋敷を後にする。
「あなた方においぬ様の御加護がありますように」
 玄関先まで見送ってくれた若い女の祈りにお礼を言うと、三人は船へと戻って行った。