天国だろうと、地獄だろうと

 5.

 その日は夜にトラムの店に行くことにしていたが、昼間特に仕事の予定もなく、夜までの時間を持て余したおれはコックの働く店に行くことにした。もちろん、目当ては酒だ。
 普段なぜか目的地までまともに辿り着けないことの多い自分だが、何度も通った甲斐あって、家から店までは多少時間がかかりはするものの迷わず辿り着けるようになっていた。店は高台の方にあるので、低地にあるアパートからひたすらに坂道を登って通い慣れた道を行く。
 概ねいつも通りの時間で店まで辿り着くと、海のように真っ青な入り口の扉を開けた。カランとドアベルの涼やかな音が鳴る。
「ああゾロか。いらっしゃい」
 店に入るとすぐに熊のような大男が近寄ってきた。この店のオーナーのボブだ。何度も会ったので流石に名前を覚えた。
「いつもの席空いてるか?」
「空いてるよ、どうぞ」
 昼時を過ぎたというのもあって、店内に客はまばらだった。空いたテーブルの間を縫って、店の一番奥、厨房に近い側の席に着く。すると、ボブと入れ違いにコックがテーブルまでやって来た。
「おいマリモ、何しに来たんだよ」
「酒。あと適当につまみ」
「おまえなあ……」
「まだ昼メシ食ってねェ」
 はあ、とため息をつくと、ちょっと待ってろと言い置いてコックは厨房に姿を消した。
 その後ろ姿を何気なく目で追う。厨房に入ったコックは、この店のコックの一人に声をかけると自分は奥に引っ込んで皿洗いを始めた。手際よく次々に汚れた皿を洗っていき、全てを洗い終えると今度はトレーを取り出してきて水の入ったピッチャーにグラス、カトラリーを乗せる。そこでちょうど料理が出来上がったようで、コックは料理を受け取るとトレーを片手に厨房から出て来た。
「ほらよ」
 目の前に大盛りのパスタにサラダ、バゲットが置かれる。続けて置かれたピッチャーの中には、たっぷりの氷と水、そしてレモンの輪切り。レモン水だ。
「……酒は?」
「昼メシ食ってないんだろう。まずはメシを食え。酒はその後だ」
 思いきり仏頂面をしてみせて無言の抗議を試みたが「そんな顔しても酒は出さねェぞ」とすげなくあしらわれ、コックはさっさと厨房に消えてしまった。
 どうやら酒にありつくためにはまずこれを平らげる必要があるらしい。そう判断して、大人しく手を合わせる。
「いただきます」
 誰にでもなく言うと、湯気を立てるパスタに手を伸ばした。
 今日のパスタは、海鮮がたっぷり入ったペペロンチーノ。ニンニクの香りが空っぽの胃を刺激する。一口食べれば、赤唐辛子の辛味がピリリと効いていて文句なしに美味しかった。

 ——美味い。だがコックの味じゃない。

 黙々とパスタを口に運びながら、そんな当たり前の感想が頭を過ぎる。
 コックの作る料理が無性に恋しかった。生き生きと、心の底から楽しそうに料理をする姿が見たかった。
 自分の中のそんな感情に気づいたのは、船を降りて以降コックが一切料理をしなくなってからだった。
 だから、コックのためというよりは自分のために、料理を教えてもらうというていでコックをキッチンに引き摺り込んだ。その手に包丁を持たせた。
 一緒に、という形ではあったが、料理をするコックはやはりどこか生き生きとしていて、その姿を見ておれも満足した。
 けれど一方で満たされない部分もあった。
 一切のアレンジのない、必ずレシピ通りにしか作られない料理は美味いが何かが足りなかった。
 自分で料理をするようになってわかった事だが、同じ食材でも収穫の時期や鮮度、気候なんかで味が変わる。
 コックが食べさせる相手によって味付けを変えているのは知っていた。けれど、こうした食材の微妙な味の違いに応じて絶妙に調味料などの配分を変えていたのだろうということを、船で海を旅していた頃の自分は知りもしなかった。
 何も知らないままコックに与えられ、そうとも知らずに当たり前に享受していたこと。
 物足りないと感じるのは、それらが与えられなくなったからだろう。
 そんなことを考えつつ、厨房に目を向けた。この店のコック達が夜の仕込みを始める横で、コックは洗った皿を拭いて片付け、鍋を磨き、溜まったゴミをまとめている。
 雑用として雇われているので当然ではあるが、本当に雑用ばかりだ。

「勿体ないと思ってるんだろう?」

 ふいに耳元で声がして我に返る。一体誰だと目を向ければ、茶目っけたっぷりにパチリとウインクをするボブと目が合った。
「……何の話だ」
「サンジが雑用ばっかりで料理を作らないのは勿体ないって話だよ」
「……」
「図星みたいだな」
 質問には答えずにまだ温かなバゲットに手を伸ばすと、ボブがそう言ってどこか寂しそうに笑った。
「おれもそう思うよ。自分で雇っといてなんだけど、海賊王の船のコックだった男が雑用係だなんて……。なあゾロ、サンジの作る料理は美味かったかい?」
 おれは隣に立つボブを真っ直ぐに見上げた。
「ああ。あいつの作るメシは美味い」
「うちの店で出すものよりも?」
 黙り込むことで答えの代わりにすると、ボブは今度は声をあげて笑った。
「ゾロは嘘がつけないな。でもそんなに美味いなら、おれも一度くらい食べてみたいもんだ」
 それからふっと真顔に戻ると、内緒話をするかのように顔を寄せてきた。
「そういえば、どうもよくない連中が上陸してるようだ」
「海賊か?」
「ああ。あまりいい噂は聞かない奴らだな。ゾロもサンジも強いんだろうから心配ないとは思うが、気をつけといた方がいい。トラムの店のあたりはああいった輩の溜まり場になってるから特にな」
「わかった。忠告ありがとよ」
 ボブが立ち去って少しすると、トレーを手にしたコックがやって来た。
「ほらよ、酒とつまみ。残りのメシ食い終わってからな」
「おう」
「そういやボブと何話してたんだ?」
 ようやく酒にありつけるといそいと残りの食事をかきこんでいると、ついでのようにコックが聞いてきた。
「よくない連中が上陸してるから気をつけろ、だと」
「ふーん。海賊が上陸してるって噂は本当ってことか」
「そうみたいだな——ご馳走さん」
 食べ終えるやいなや酒瓶を掴んで呷る。
「っとにテメェはアル中かよ」
 空になった皿を下げながら、コックが呆れた声を出した。
「いいか、酒は二本までだからな。おれの仕事が終わるまでここにいるんだろ? 大事に飲みやがれ」
「……三本」
「ダメだ。却下」
「チッ」
「どうせ夜も飲むんだから今は我慢しろ」
 再び雑用に戻っていく背中を眺めつつ、おれは小さくため息をついた。
 酒も欲しいが、今はとにかく情報が欲しい。オールブルーに関する情報は少しずつ集まっているものの、血統因子とやらに関する情報は空振りどころかほとんど手に入らないのが現状だった。これじゃあいつになればコックの味覚が戻るのかわかったものじゃない。そもそも、情報がなければ味覚が戻るのかどうかすらわからないのだが。
 ——果たして今夜は何か手掛かりが得られるかどうか。
 おれはもう一度ため息をつくと、酒瓶からちびりと一口酒を飲んだ。

 

 

 コックの仕事が終わるとすぐにトラムの店へと向かった。二人並んで坂道を下りつつしばらく行くと、段々と周囲がうらぶれた雰囲気へと変わっていく。うらぶれたと言ってもスラムというほど荒廃してはいないが、娼館や連れ込み宿、飲み屋が雑多に立ち並び、客引きがあちこちで声をかけている。通りを行き交うのは大抵が柄の悪そうな人間だ。
 時々顔見知りの客引きに声をかけられるのを適当にあしらいながら入り組んだ路地を奥の方へと進み、ともすれば見落としそうな、看板もなくひっそりと佇む一軒のバーの古びた木製の扉を開けた。
「いらっしゃい」
 カウンターの中から、落ち着いた低い声がかかる。
「やあトラム、久しぶりだな。ここいいか?」
 コックがカウンター席を指し示すと、カウンターの中にいる眼鏡をかけた細身の初老の男、この店の店主であるトラムが頷いた。コックと隣り合って席に座る。カウンターにはまだ他に誰もいなかった。
「今日は何にするかい?」
「とりあえずビールで。ゾロ、おまえは?」
「おれもビールでいい」
「はいよ」
 続けてコックが料理をいくつか頼んでいる間に、おれはざっと店内を見渡した。夜にはまだ少し早い時間だからか、テーブル席をまばらに埋めるのは常連ばかりだ。その中にはこの島の情報屋の顔もある。
「最近景気はどうだ」
 視線を戻すと、料理の注文を終えたコックがジョッキにビールを注ぐトラムに話しかけていた。
「おかげさまで、ここ数日は賑わってるよ」
「そりゃ何より」
「今日ももう少しすれば客が入るはずだ」
 はいよ、と目の前にジョッキが置かれる。
 どうやら上陸している海賊達がこの店にやってくるのはもう少し後らしい。それまではのんびり酒でも飲むかとジョッキを手に取り、一気に半分ほどを喉に流し込んだ。ビールは程よく冷えていて泡もきめ細かく、文句なしに美味かった。
「美味ェ」
「ああ。ここのビールは格別だ」
 隣で同じくジョッキを傾けていたコックが満足そうに笑うと、カウンターに身を乗り出すようにした。
「ところで、なんかいい情報ネタあるか?」
「『海』ならあるよ」
 海、つまりはオールブルーに関する情報があるということだ。
「へえ、もう少し詳しく聞きてェな」
 コックは懐から数枚の紙幣を取り出し、カウンターテーブルの上に無造作に置いた。トラムはそれをちらりと眺めた後、さりげなく手を伸ばしてポケットに仕舞い込んだ。
「まあいいだろう」
 交渉成立だ。
「それで、どんな情報ネタなんだ?」
「それは情報ネタを持ってる奴に聞きな」
「そいつの名前は?」
「情報屋ビリー」
「ビリーか。それなら情報ネタもそれなりに信用できそうだな」
「噂をすれば、ほら」
 ちょうどその時入り口の扉がキイと音を立てて開き、浅黒い肌をした男が店に入ってきた。タンクトップの右肩からトレードマークのカモメの刺青が覗いている。ビリーだ。
「いらっしゃい」
 声をかけるトラムに軽く手を挙げて応えると、ビリーは空いているテーブル席の一つに腰をかけた。
「トラム、もう一杯ビールくれ」
「はいよ、ほら」
「どうも」
 コックは新しいジョッキを受け取り、もう数枚紙幣を取り出すとカウンターに置いた。それから、飲みかけの自分のジョッキも持って席を立った。ビリーの席に行くのだ。
 背後でコックがビリーに声をかけるのを聞きながら、おれはカウンターに座ったまま残りのビールを一気に呷った。
「次はどうする?」
 空になったジョッキを受け取りながらトラムが尋ねてくる。
「ウイスキー。こないだ飲んだやつあるか?」
「あるよ。飲み方はロックでいいかい?」
「ああ、それでいい」
 コックが頼んだ料理を適当につまみながら、喉を焼くウイスキーを堪能する。
 大抵の場合、情報収集はコックの役目だ。あいつはアホだがバカじゃないし、口も回るのでこういう役目には向いている。実際、船に乗っていた時はロビンやブルックと同様に隠密行動を担うことが多かった。
 おれも別に酒場での情報収集くらいはできるが、より得意な人間が動いた方がいいに決まっている。そういうわけで、この店に来るとおれは大抵酒を飲んで過ごし、隣に座る奴がいれば世間話から情報を得た。
 情報屋との話はコックに任せてカウンターで一人のんびり酒を飲んでいるのは、そういう事情からだった。
 酒を飲みながら適当にトラムと話をしている間に、少しずつ店に客が増えてきていた。あまり見かけない顔ばかりなので、おそらくはこの島の人間ではないのだろう。
 店内が徐々に喧騒で満ちていく。何杯目かのウイスキーを飲もうとしたところで、ふいに入り口のあたりが一際騒がしくなった。直後、乱暴に開けられた扉から見るからに柄の悪い男達が入ってきた。
「いらっしゃい」
 トラムの声などまるで聞こえていない風で、こちらを見もせずに店内をぐるりと見回している。
 と、そのうちの一人がヒュウと短く口笛を吹いた。
「おい見ろよあれ」
「あ? どれだ?」
「ほらあそこの金髪。なかなかの上玉じゃねェか」
「へえ、確かにありゃ男でもイケるな」
 男達の下卑た笑い声を後ろに聞きながら、おれは胸の内で小さくため息をついた。
 どうしてだかコックは男にモテる——コックが情報収集に長けているのは、そのためでもあった。
 もっと若い頃なら問答無用で蹴り飛ばして情報収集どころではなかっただろうが、少し大人になり、自分の容姿の価値を自覚したコックはそれを存分に利用するようになった。
 もちろん実際に体を許すようなことなどしないが、あの女好きが、一体どこでそんな真似を身につけたんだと呆れるくらいに思わせぶりな態度で、寄ってきた男達をその気にさせる。下心ゆえに口を滑らせれば、搾り取れるだけ情報を搾り取って手のひらを返したように冷たくあしらって終わりだ。逆上して襲いかかってくる者、騙されたとわからずにしつこく言い寄ってくる者もいたが、そんな輩は文字通り一蹴、容赦なくコックに蹴り飛ばされた。
 コックとおれは体を重ねこそすれ別に恋人同士というわけではないので、そんなやり方に文句を言う筋合いもなければ言うつもりもなかったが、正直見ていて面白い光景ではなかった。自分には見せたことのない表情や仕草をして見せるのも、普段抱いている体が名も知らぬ男にベタベタと触られるのも。
 どうやら今日も、そんな不愉快な光景を見ることになりそうだ。
 男達はコックとビリーのすぐ近くの席に腰を下ろしたようだった。わざわざ後ろを振り向かなくても、気配と会話だけでニヤニヤと笑いながら値踏みをするような視線でコックを舐め回すように見ているのがわかった。もちろんコック自身も、自分にそういう目が向けられていることにとっくに気づいているだろう。
 それから間もなくして、ビリーと話を終えたらしいコックが立ち上がる音が聞こえた。さっきの男達の下卑た笑い声を思い出し、どうせすぐに戻っては来ないのだろうと思えば、予想通り「よう、そこの兄ちゃん」とコックを呼び止める声がした。
「もしかして、おれ?」
 声を掛けられることなどわかっていただろうに、すっとぼけたようにコックが言う。
「そう、アンタだよ。おれ達とここで一緒に飲もうぜ」
 兄ちゃんキレイだからよ、と別の誰かが言い、どっと下品な笑い声が上がる。
「どうすっかなあ」
 思わせぶりに言うコックは、どうやらチラリとビリーの方を見たらしい。次に聞こえてきた男の言葉でそうわかった。
「アンタ、この兄ちゃんの連れか?」
「いいや。少し話してただけだ」
 ビリーが素っ気なく答える。
「だとよ。兄ちゃん、フラれちゃったんじゃねえの」
「そうかも」
「かわいそうに。おれ達が慰めてやらあ」
「んー、じゃあお願いしちゃおうかな」
 コックがそう答えた途端、歓声が上がった。
 やっぱりな、と湧き上がる不快感を飲み下すように、グラスに残った酒を一気に呷る。黙って空のグラスをカウンターに突き出すと、トラムが呆れたような同情するような視線を向けてきた。
「サンジは本当にモテるなあ」
「あのアホのどこがいいんだか」
「……あんたも大変だね」
「だから何でそうなるんだ」
 トラムはおれだけでなく、コックの素性も知っている人間の一人だ。そして、何度違うと否定してもボブと同じくおれとコックの関係を何やら誤解し続けている。ちなみに、この店の常連達の中にも誤解している人間は多くいて、おれが居るにも関わらずコックが男を引っ掛けるような真似をしていることを半分面白がりながらも黙って見守ってくれていた。ビリーもその例に漏れず、先程は茶番と知っていて協力してくれたのだろう。
 背後では、コックの媚びるような声と興奮した男達の声がしている。視線だけを後ろに向けて様子を盗み見れば、隣に座る男にしなだれかかったコックが物欲しそうな目をして男を見ていた。
 思わず小さく舌打ちをする。無性にイラついて漏れ出しかけた殺気を慌てて抑え、気配を消すよう努めた。
 幸いなことに、あいつらはどうやらおれがこの店にいることに気づいていないようだった。自惚れではなく、世界一の大剣豪として有名である自覚はあるので、気づかれると何かと面倒だ。当然このまま気づかれない方がいいに決まっている。
 かと言って、正直もう後ろの会話は聞きたくなかった。いっそのこと店を出ようかと考えている間にも、狭い店内で大声で話すものだから嫌でも会話が耳に入ってくる。
「なあ、おれ達とイイコトしようぜ。そしたらフラれたこともすぐに忘れちまえるさ」
「ふうん。忘れられるくらいイイ思いさせてくれるんだ」
「そりゃあモチロン!」
「でも、残念ながらおれタダじゃないんだよね」
「あん?」
「おれのことを好きにしたいなら、対価がなくちゃ」
 上目遣いで、艶のある笑みを浮かべて、人差し指で男の太腿をなぞって。きっとネクタイを緩めて、開いた胸元から白い肌を覗かせてもいる——姿は見えずとも、それくらいは容易に想像がついた。コックの胸元に釘付けになっているであろう、男達のアホみたいに惚けた顔も。
 その予想が正しいとでも言うかのように、男達が生唾を飲む音が聞こえた。
「対価——金か?」
「いいや、金はいらない」
「じゃあいったい何だ?」
「おれが欲しいのは、情報だ」
「情報?」
「そう。おれ、オールブルーに憧れてるんだけどさ、何か知ってたら教えてくれよ」
 一瞬の沈黙の後、男達の馬鹿笑いが響き渡った。
「おいおい兄ちゃん、そりゃ無理な話だぜ」
「オールブルーなんて御伽噺を信じてんのか。残念ながらそんなものは存在しねェよ」
「情報くれってんなら、『そんなものは実在しない』ってのが答えだな」
「そうなのか? 絶対どこかにあるって聞いたんだけどなあ」
「そりゃあ兄ちゃん、かわいそうに騙されたんだよ」
「えー、傷つくなあ……じゃあさ、実はおれもう一つ知りたいことがあるんだけど。『血統因子』って知ってるか?」
「血統因子ィ?」
「やっぱり知らないか」
 じゃあ残念だけど、と立ち上がったコックを一人の男が慌てて引き留めた。
「ちょっと待て、も、もちろん知ってるぜ?」
「ホントに? なんか怪しいなあ」
「ホントだ、嘘じゃねえ」
「それなら知ってることの一部でいいから今教えてよ」
「それは……できねェ」
「なんで」
「そりゃあ、おれ達も兄ちゃんに騙されてタダで情報を渡す羽目になるのはごめんだからな」
「つまり?」
「前金が必要だ。なあに、ちょっとしゃぶってくれりゃあそれでいい」
 呆れた。こんな見え透いた嘘を誰が信じるというのだろうか。こいつらは情報を持ってないどころか、血統因子という言葉すら聞いた事がないだろう。なんとかしてコックとヤりたいが為に情報を持っているフリをしているだけだ。コックも当然そのことに気がついているはずだが——。
「それで情報くれるんなら、まあいいよ」
 思わず、持っているグラスを握り潰しそうになった。
(あンのバカ、何考えてやがる)
 適当にあしらって、何か問題があればいつものように蹴り飛ばせばいいものを。
 今回は相手が複数だし、店の中でトラブルになると何かと面倒なので穏便な形で外に連れ出すつもりなのだろうか。コックの思考回路は相変わらずよくわからない。
 さすがにここでこのまま公開ショーをおっ始めるつもりはないのか、男達はコックを囲むようにして足早に店から出て行った。行き先はおそらくこの近くの連れ込み宿か。あるいは路地裏で適当に、というのもあり得るかもしれない。
「追いかけなくていいのかい?」
 悶々とした気持ちを抱えていると、カウンター越しにトラムが声をかけてきた。
「別にあいつ一人で問題ねェよ」
「まあ、確かにサンジは強いからね」
「下手したらもうケリがついてるかもな」
 あの程度の輩なら何人いようが瞬殺だろう。そう思った時、店の外に禍々しい気配が生じた。それと同時にコックの気配が消える。
 嫌な予感が足元からぞわりと這い上がってきた。
「ご馳走さん」
 急に立ち上がったおれに、何を勘違いしたのかトラムが揶揄うような眼差しを向けてきたが、無視して店の外へと飛び出した。
 気配を探ると、少し離れた路地の奥に複数の気配を感じた。先ほどの禍々しい気配もそこからしているようだ。
「あっちか」
 気配を頼りに夜の色を纏った通りをひた走る。気配が近づくにつれ、鈍い打撃音と呻き声が聞こえてきた。やはりコックの気配はしない。膨れ上がる不安に背中を押されるようにして、おれは更に走るスピードを上げた。

 

 

 音の出所にたどり着いた時、まず目に入ったのは薄暗い路地に浮かび上がる見慣れた金髪の後ろ姿だった。無事かと安堵したのも束の間、目の前の光景に目を疑った。
 コックの前には、先ほどコックと店を出たはずの海賊達が積み重なって倒れていた。血を流し、骨があらぬ方向に曲がっている者もいてそのほとんどが虫の息だ。いや、中にはもう生き絶えている者もいる。もはや抵抗できる者など一人もいないというのに、コックは積み重なった海賊達の上にその長い足を躊躇なく振り下ろした。骨の砕ける音と、蛙の潰れたような醜い声が狭い路地に響く。
 ヒッと短く息を吸う音に視線を巡らせると、壁に張り付くようにして女が一人へたり込んでいた。
「まだまだこんなモンじゃ足りねェよなあ?」
 普段なら女の気配に人一倍敏いはずのコックが、女の方を振り向きもしなかった。冷たく光るナイフの刃のような、残忍で冷え切った声。獲物を甚振る肉食獣のように、一番上のピクリとも動かなくなった男の髪を掴んで顔を上げさせる。

 ——誰だ、あいつは。

 全身の毛がぶわりと逆立ち、思わず一歩後ろに下がる。無意識に手が刀の柄を握っていた。
 見た目は紛うことなくコックなのに、その体から発するのは先ほどから感じている禍々しい気配そのものだ。 こいつはコックじゃない。本能がそう告げている。
 その証拠に、コックの見た目をした男は掴んでいた海賊の髪を無造作に放すと、そいつの腰に差してあった剣をスラリと抜き取った。更には、その鈍く光る刃を物言わぬ海賊の首にぴたりと押し当てる。
 コックは戦闘において手を使わない。刃物も使わない。それに、すでに死んでいる人間を更に痛めつけるような真似もしない。
「誰だ、テメェ」
 刀を抜いて構える。殺気に気づいたのか、コックの見た目をした男がわずかに振り向いた。
 その姿がふっと掻き消えたと思ったら、次の瞬間、視界の隅で振り下ろされる剣が見えた。
 咄嗟に防御の姿勢をとって斬撃を防ぐ。そのまま力任せに弾き飛ばすと、キインと鋭い音がして男の剣が真っ二つに折れた。折れた刃先が地面に落ちると同時、華麗な宙返りを決めた男が音もなく軽やかに着地する。そのまま、予備動作なしに折れた剣を投げ飛ばしてきた。
 高速で宙を切って進む剣は、なぜかあさっての方向に軌道を描いている。一体何のつもりで、と剣の向かう先に目を向けると、先程の女が逃げ出そうとしているのが目に入った。反射的に手を伸ばし、刀に当てて弾く。
 間一髪だ。あと一瞬反応が遅れていれば防ぎきれなかった。
「テメェ……一般人、しかも女だぞ!」
「それがどうした?」
 大して興味もなさそうな、無感情な声だった。
「目撃者は消す、そんなの殺しの常識だろう。なのに邪魔しやがって。おまえのせいで逃げられたじゃないか」
 こちらを向いた顔が、表通りからうっすらと差し込む光に照らされた。
 見間違いようのない顔。目の前の男はたしかにコックの見た目をしている。けれど、何かが違う。
 微かに感じる違和感の正体を探ろうとしたところで、再び男がふっと姿を消した。途端、風を切る音がして強烈な蹴りが眼前に迫る。すんでのところで刀で防ぐと、その重さに耐えかねて腕がミシリと音を立てた。
 ——重たい。いつもの比じゃねェ。
 防いだ先から次々と繰り出される蹴りは、一切の手加減が感じられないものだった。こいつは本気だ、おれを殺す気でいやがる。
「上等だァ!!」
 わずかな隙をついて斬撃を繰り出すと、手のひらに確かな感触があった。けれどもそれは肉を切り裂くような軟らかな感触ではなく、まるで鉄を切るかのような硬い感触だった。それを証明するかのように、ガキンと鈍い金属音が耳に届く。
 後方に着地した男の、脇腹あたりのスーツが切り裂かれて白い肌が露出していた。しかし、そこには血の一滴すら見当たらない。わずかに赤くミミズ腫れのような跡が見えるだけだ。
 確かに斬ったのに切り傷一つない——つまりは、体が異様に硬いのか。
「その硬い体……やっぱり体はコックだな」
「おれの名前はコックじゃねえよ。おまえはたしか……ゾロ、か」
「なんでおれの名前を知っている」
「知ってるも何も、記憶は引き継がれるからな」
「そりゃどういう意味だ」
「そのまんまだよ。おれは元のサンジの記憶はそのままに、余計な感情ものだけを取り除いた存在だ」
「余計な感情もの?」
「優しさ、愛情、慈悲。そういった、戦いに勝つために不要な感情ものは全て余計だ。そんな感情ものがあるせいで、元のおれは女を庇ってこんなゴミみたいな奴らに好き勝手されそうになってたんだぜ? どうしようもないバカだ。我ながらあまりの出来損ないっぷりに虫唾が走る」
 吐き捨てるように言う姿は、どう見てもコックだった。ただし、見た目だけ。精神は全くの別物だ。
 コックが「正気じゃなかったら」と言った意味を。今になってようやく理解した。そして、自分を殺せと言った理由わけも。
 それと同時に、先程から感じていた違和感の正体に気がついた。
 眉毛だ。こちらを向いたコックの顔の、眉毛の向きがいつもと違う。いつもは眉頭がぐるぐると巻いているはずの眉毛は、今は眉尻がくるりと巻いていた。
 正気じゃなくなったら眉毛の向きが変わるなんて、そんなふざけた事が起こるのがどこまでもこのアホらしい。もし正気に戻ったら絶対に揶揄ってやる——そう、問題なのはコックが正気に戻る可能性があるのかどうかだ。
「おい、一つ聞く。テメェはもう元には戻らねェのか」
「さあ。ただおれはあんな出来損ないに戻るつもりはないね」
「それからもう一つ。記憶があるんなら、『約束』って言やァわかるよな」
「約束? ああ、アレか。おまえがおれを殺すってやつ」
 男の口が歪んだ弧を描いた。
「おまえには出来ねぇよ。おまえはおれを殺せない」
「テメェこそわかってねェな。おれは一度した約束は必ず守るんだ」
 不敵に笑い、再び刀を構える。
 とにかく全力でやり合ってみるしかない。その結果コックが正気にもどればそれでよし。戻らなければ……約束を果たすまでだ。
「いくぞ」
「来いよ。返り討ちに、し、て……や…………」
 一歩前に踏み出そうとした時だった。ふいに言葉が途切れたと思ったら、男の体がぐらりと傾いだ。受け身を取る様子もなく、目の前でスローモーションのように頭から倒れ込んでいく。今し方まで感じていた禍々しい気配が消え去り、入れ替わるようにして現れた気配、それは——
「コック!!」
 気づけば、刀を捨てて走り寄っていた。金色の小さな頭が地面に激突するよりもほんの少し早く、両の腕で抱き止める。ぐにゃりと力の抜けたままの体を表に向ければ首が軽く仰け反り、その拍子に顔を覆っていた金糸がさらりと流れ落ちた。

 露わになった眉毛は、眉頭の巻いた、元通りの向きに戻っていた。