天国だろうと、地獄だろうと

 4.

 船を降りてから、おれとゾロはあちこちの島を転々とした。
 当面は生活できるようにとナミさんがある程度の金を持たせてくれてはいたが、果たしてこの二人旅がどれだけの間続くのかもわからず、合法・違法にかかわらず様々な手段で金を稼いではその金を使って情報を集めた。しかし血統因子に関しては何一つめぼしい情報は得られなかった。
 おれの味覚は失われたままだった。しかし幸いというべきか船を降りて以降新たな変化はなく、どうやらおれはまだマトモなままらしい。「らしい」というのは、自分のことを信用しきれないからだ。だって、マトモじゃない奴は自分のことをマトモじゃないだなんて言わない。けれど、ゾロがいつもと何ら変わらない様子なのを見るに、おそらくこの判断は正しいのだろう。
 一方、オールブルーに関してはぽつりぽつりと情報を得ることができた。中には明らかにガセだろうと思われるものもあったが、信頼できそうな情報を頼りに進んだ結果、おれ達はとある島へと辿り着いたのだった。
 ——カルテロ島。
 グランドラインに浮かぶその島は、比較的大きく栄えた島だ。島にはよく整備された大きな港があり、日々たくさんの商船がやってくる。商船で運ばれてくるのは外国の珍しい品から日用品、食料まで様々で、市場にはありとあらゆる品物が揃っていた。春島なので一年を通して気候がよく、農業や畜産業など自国の産業も盛んで市場には島の特産品もたくさん並んでいた。さらには島の近海には豊富な種類の魚が生息しているようで、図鑑でしか見たことのないような珍しい魚がたくさん売られており、料理人にとってはまるで天国のような場所だった。
 自由に交易をするためには海軍の存在が不都合なのか海軍の保護下にはなく、独自の治安部隊を組織して島の治安は保たれていた。人も物も、多くが集まるこの島にはもれなく海賊も多くやって来ていたが、何か問題を起こそうものなら治安部隊によって即刻排除される。しかし、問題さえ起こさなければたとえ海賊であろうが自由に島で過ごすことを許されていた。
 それは海賊王の船の元クルーである自分達も例外ではなく。
 おれ達は当面の間この島に腰を据えることに決めたのだった。

 

 *

 

「お疲れさん。今日はもう上がっていいぞ」
「いいのか? 洗い物、まだ残ってるだろ」
「いいから早く帰ってやんなって。——そうだこれ、余ったから持って帰んな」
 あいつと一緒に食えよ、と渡されたローストポークと豆の煮込み、それにバゲットを苦笑いしながら受け取った。
「あいつも子どもじゃないんだから、別におれの帰りが遅くなっても構わねェよ」
「でもきっと寂しがってるぞ」
「あいつがそんなキャラかよ。大体、おれとあいつはそんなんじゃ——」
「いいから。ほらさっさと帰った」
 追い立てられるようにして裏口からレストランの外へと出る。パタンとドアが閉まると、厨房の喧騒がふっと遠くなった。振り返り、夜の闇に浮かぶレストランのシルエットを眺める。
「ったくボブの野郎、この誤解さえなきゃいい奴なんだがなぁ」
 おれとゾロのことを恋人同士か何かだと勘違いしている男——ボブは、ここレストラン「マーレ」のオーナーだ。年の頃は四十後半、熊のようにがっしりとした体躯で、見た目の通り頼りになる上に気配りも一流なので従業員みんなから慕われている。そしておれはこの店で、コックではなく雑用として働いている。
 しばらくこの島に住むと決めて仕事を探そうという話になった時、料理に関わる仕事以外は考えられなかった。だっておれはコックだ。けれど味覚がない以上、コックとしては勿論、ウェイターとしても働くことはできない。それでも皿洗いなどの雑用ならできると、自分を売り込んだおれを雇ってくれたのがボブだった。
「マーレ」で働きたいと思ったのは、単純に店の雰囲気が気に入ったからだ。高台にあるその店には海を望むテラス席があり、真っ白な屋根と壁、そして色鮮やかな青の扉とのコントラストが目を引く。外観だけでなく内装も洒落ており、細かいところまでセンスとこだわりが感じられるのも良かった。ボブをはじめとして従業員は皆気さくで感じがよく、厨房は活気に溢れている。料理の味は残念ながらわからないが、ゾロが美味いと言っていたのできっと美味しいのだろう。値段がリーズナブルなこともあって昼も夜も常に客でいっぱいで、店内はいつも賑やかな喧騒に包まれていた。その賑やかさはどこかバラティエを彷彿とさせ、それもまたおれがこの店で働きたいと思う理由の一つだった。
 ボブは、おれとゾロが麦わらの一味だったことを知っている。ゾロに関しては、世界一の大剣豪という知名度に加え、隻眼、胸に走る袈裟懸けの太刀傷、三本刀に左耳の三連ピアスと一目見てわかる特徴を隠しもしないものだから、この島に住み始めてすぐに素性が知れ渡った。一方で、おれのことを「黒足のサンジ」だと知っている人間は、おそらくこの島に半分もいなかっただろう。ボブはそのうちの一人で、おれの手配書と一致する数少ない身体的特徴(金髪、巻き眉)からもしかして、と勘付いたらしい。

 

『雑用って、アンタその……黒足のサンジ、だろ? 海賊王の船のコックだったアンタが、どうしてうちで雑用なんか……』
 この店で働かせて欲しいと頼み込んだ時、人気のない所に連れて行かれそう耳打ちされて驚いた。
『おれのこと知ってたのか』
『確証があったわけじゃないが、ロロノア・ゾロと一緒にいるし、その目立つ金髪と渦巻きみたいな眉毛が手配書と同じだからもしかして、ってな。でも多分、この店で気付いてるのはおれだけだ』
『そうか。賞金首は流石に雇っちゃもらえねェかな』
『それは別に構わないさ。あんた、悪い人じゃなさそうだし、海賊王の船のコックと働けるなんてむしろ光栄だ。でもなんでコックじゃなくて雑用なんだ?』
 別にいくらでも誤魔化すことはできた。でも敢えて真実を話す気になったのは、この男は信用できる人間だと思えたのと、一人くらい事情を知っている人間がいた方が何かと便利だと考えたからだった。
『実は、少し前から味覚がない。だからメシが作れねェんだ』
『味覚がないって……そりゃ、料理人にとっちゃ命を失うも同じだろう。なのにこんなところで働くのは、その……つらいんじゃないか?』
『いや、おれには料理これしかねェから。どんな形でも料理に関われればそれでいい』
 ボブはハッとしたようにおれを見た。
『そうか……そうだよな。おれ、あんたのこと尊敬するよ。あんたみたいな人には、ぜひうちの店で働いてほしい』
 よろしく頼む、と差し出された大きな手。その手を躊躇うことなく握り返した。
『こっちこそ、よろしく頼む』

 

 そうして働き始めたボブの店で、おれは掃除に皿洗い、食材の運び込みに下処理、電話対応や時には会計などあらゆる雑用に勤しんだ。雑用といえども店が変われば学ぶことも多く、仕事は楽しかった。おれの名前から元海賊王のクルーだと気付いた奴もいたようだが、店の人間は皆気のいい奴ばかりで、元海賊だからといって邪険にされることもなく、店にはすぐに馴染んだ。ボブがさりげなく気を配ってくれるおかげで、おれに味覚がないことが周囲にバレることもなかった。
 そんな恵まれた職場で唯一困ること——それは、ボブを筆頭に従業員みんながおれとゾロのことを恋人同士だと勘違いしていることだった。
 一緒に住んでいるという事実に加え、時々ふらりとやって来ては飲んだくれるゾロの世話を焼くおれの姿を見てそう思ったらしい。別に勝手に勘違いする分には構わないが、客まで一緒になって揶揄ってきたり変に気を回したりするものだから閉口した。
(別にそういうんじゃ、ねェんだけど)
 直接聞いてみたことなどないが、少なくともゾロはおれにそういった特別な感情を抱いていない。今こうして二人一緒に暮らしているのだって、約束を守るためでしかない。
 でも、おれは——?
 二階建てのこじんまりとしたアパートの前で立ち止まる。
 一階の左端の部屋、その窓に明かりが灯っていた。おれとゾロの暮らす部屋だ。明かりが灯っているということは、ゾロが部屋にいるのだろう。
 寂しがってはいないだろうが、おれの帰りを待ってくれているのだろうか。そう思ったら、胸がきゅっと締め付けられた。
 この痛みが示す感情の正体に、おれは薄々気が付いている。

 

 おれにとって、最初からゾロは特別だった。
 光を放って夜空を駆け抜けていく彗星のように、自らの命を燃やし、野望という一本道をひたすらに前へと進むその姿が眩しくて仕方がなかった。
 体を重ねるようになったのも、ゾロが特別だったからだ。何がきっかけだったかはもう忘れたが、ゾロが手を伸ばしてきた時、自分が特別に思うこの男ならいいと思った。
 隣に並び立つ喜び、自分を殺せと口にできるほどの信頼。旅を続けるうちにゾロに抱く思いは増えていった。
 けれどおれ達は海賊、明日をも知れぬ命だ。そこに、好きだとか愛してるだとかいった感情ものが込む隙間などなかった。なかったはずだった。
 それが変わったのは船を降りてからだ。船を降り、敵襲も急な嵐も海軍に追いかけられることもほとんどなくなった。働いて金を稼ぎ、二人で一つ屋根の下に暮らし、気まぐれに手を伸ばしては体を重ね合う。そんな、穏やかでぬるま湯のような日々。そこには余白があった。——胸に芽生えたほんの小さな感情が育ってしまうだけの。
 すくすくと育ちつつある感情に名前をつけるとすれば、おそらく「愛しい」とか、そういったたぐいのものになるのだろう。もしかすると、ただ一緒に穏やかに暮らすだけでは、体を重ねるだけでは、ここまで大きく育たなかったかもしれない。
 けれど、と玄関のドアを開けて目に飛び込んできた光景に自分の胸がたまらなく疼くのを自覚した。

 家の中に漂う美味しそうな匂い。台所に立つ、広い背中。

 船を降りてから一切台所に立たなくなったおれの代わりに、ゾロは時々台所に立つようになった。『テメェがそんなだし、自分のメシの世話くらい自分でする』ともっともらしい理由をつけて、『作り方教えるくらいできんだろ』とおれに料理を教えるよう迫った。
 まあ教えるくらいなら、とゾロと一緒に台所に立つようになった。調理器具や食材の扱い方から基本的なレシピまで、何かにつけてゾロがおまえがやって見せろというので、手を動かしては手本を見せた。
 教えるという形でありながらこれはもう料理をしているのと一緒だと気づいたのが教え始めて数回目の時。それでもおれはゾロに料理を教え続けた。今さらやめると言い出せなかったというのもあるが、何よりも再び料理ができることが嬉しかった。
 それからさらに回数を重ねるうちに、おれはふと気がついた。一通りの手技が身についたにも関わらず、相変わらず料理を教えろとおれを台所に引っ張ってくる、その理由。
 ——ゾロは、他でもないおれの為に台所に立っている。
 そう言われた訳ではないし、ゾロに聞けば否と答えるだろうが、それでもおれには確信があった。一緒に料理をしていれば、言葉にしなくても伝わるものがある。
 そんな不器用なゾロの優しさが素直に嬉しかった。
 ほんの少し背を丸めて、慣れない料理に奮闘するゾロが愛しかった。
 そんな日々を重ねていく中で、おれの中に芽生えた気持ちがぐんぐんと大きく育つのを止めることなどできなかった。

 

「おう、帰ったか」
 振り向いたゾロが、鍋をかき混ぜる手はそのままに言う。
「ただいま。ローストポークと豆の煮込み貰ってきた。バゲットもあるからサンドイッチにするか?」
「それいいな。とりあえずスープだけ作ってたんだが、こっちももうすぐ出来上がりそうだ」
「今日は何のスープだ?」
 背中越しにひょいと覗き込むと、黄金色のスープが見えた。
「市場をぶらついてたら肉屋のばあさんに鶏ガラもらったんで、鶏がらスープ」
 キャベツと卵も入れたぞ、という言葉の通り、スープの中に緑と黄色が彩りよく浮かんでいる。
「おまえさあ」
「何だよ」
「いや、すごいよなと思って。正直ここまで筋がいいとは驚きだ。このままいけばコックにもなれるんじゃねえの」
「バカなこと言ってんじゃねェよ。コックはおまえだろ」
「味のわからねェコックだけどな」
 再びぎゅっと疼いた胸を軽口で誤魔化す。何かを言いたげにゾロが睨みつけてきたが、気づかないふりをして貰ってきた料理を机に並べた。ローストポークを切り分け、トマトにレタス、チーズと一緒に粒マスタードを塗ったバゲットに挟んでサンドイッチにする。
「ほい、味見」
 出来上がったうちの一つを持って差し出すと、綺麗に並んだ歯ががぶりと半分ほど齧りとった。
「ん、美味い」
「そりゃ何より。あとは肉くらい焼くか?」
「ああ、頼む」
 おれが冷蔵庫の中で漬けておいた肉を取り出して焼いている間に、ゾロがスープをつぎ分け取り皿とカトラリーを出して並べる。最後に焼き上げた肉を食卓の真ん中に置くと、おれ達はようやく席に着いた。
「いただきます」
「いただきます」
 二人同時に手を合わせ、ゾロは肉に、おれはスープに手を伸ばした。スプーンで掬い、口に運ぶ。
 温かいというのはわかった。でも、それだけだ。じゅわりと唾液が滲むような鶏ガラの匂いに味を想像することはできるけれど、舌の上に乗ったスープは完全なる無味。まるで白湯でも飲んでいるようだが、白湯だってほんのりと甘味くらいは感じる。ここまで味気なくはない。
「……きっと、美味いんだろうな」
 ほんの一瞬ゾロがこちらを見て、すぐにまた手元の料理へと視線を戻した。
「かなり美味いぞ。鶏ガラの旨みに、キャベツと卵の甘さがいい具合に混じり合ってる。漬けて焼いたこの肉も、サンドイッチも美味ェ。あと、この豆のやつも美味いな、トマトの酸味がよく効いてる」
 さりげなくどんな味かを言葉にしてくれるのを聞きながら、砂を噛むような食事を続ける。
 正直つらかった。味のしない食事も、ゾロが作ってくれたものの味がわからないのも。一度だけそう弱音を吐いて、食事をしたくない、栄養なら点滴や栄養剤でとればいいと言ったことがあった。
 けれど、ゾロは頑としてそれを認めなかった。どんなにつらくても必ずおれと同じものを食べろとおれに強いた。
 そこからだ。ゾロが拙いながらに味を言葉で表現するようになったのは。
 ゾロには感謝している。つらいからと言って食事をとるのをやめていれば、おれはダメになっていただろう。味がわからなくともゾロの作ったものを食べるからこそ、いつの日かその味を知るために必ず味覚を取り戻してやると前を向くことができている。——たとえその可能性が、ほんの僅かしかないとしても。
「おれの教育の成果を確認するためにも、早く味覚取り戻さなねェとな」
「そのためには情報収集だな。なんかいい情報あったか?」
「いや、どれも空振りばっかだ」
 あちこちから人が集まる市場や職場であるレストラン「マーレ」でさりげなく情報を集めてはいたが、やはり血統因子に関する情報などそうそう集まるものでもなく、芳しい成果は得られていなかった。
 肩をすくめるおれに、ゾロは思案げに顎を手で撫でるとふむ、と頷いた。
「たまにはトラムの店にでも顔出してみるか」
「そうだな。金もある程度貯まったことだし」
 トラムの店、つまりはトラムという男が営む酒場はいわゆる裏の情報が集まる場所だ。訳ありの人間ばかりが集まる場所なのでそれなりに危険も伴うが、その分有用な情報が手に入る確率は高い。ただし情報を買うには金が必要なことが多いため、おれはレストランで、ゾロは主に用心棒や力仕事で金を稼ぎ、ある程度まとまった額になる度にトラムの店を訪れていた。
 今は海賊船が複数寄港していると聞いているし、もしかすると何かいい情報があるかもしれない。そうと決まれば善は急げだ。
「おれは明日早番だから、夜は空いてる。おまえは?」
「おれも明日の夜は何もねェな」
「じゃあ決まりだ」
 明日の夜はトラムの店へ——そう決めると、おれ達は残りの食事に取りかかった。