受くる幸い、与うる幸い

 鬼ヶ島への討ち入りを数日後に控え、おれは編笠村へとやって来ていた。
 他の仲間達も続々と編笠村に集結し、それぞれが討ち入りに向けての準備に勤しむ。そんななか、村に着いてまずおれがしたことといえば、廃墟となった民家の中から一番損傷の少ない家を選び、炊事場を使えるように整備することだった。
 みんなにメシを振るまう。それがコックであるおれの大事な仕事で、何よりの幸せだ。一度は諦めて、再び手にすることのできた幸せ。
 そんな幸せを噛み締めながらなんとか料理ができる環境を整えて、豊富にあるとはいえない食材を上手く使って少し早めの夕飯をみんなに振舞った。美味しいと笑いながら賑やかに食べる仲間達を見るのは泣きそうなくらいに嬉しくて。いや、泣きそう、じゃねェ。本気で泣けて、滲んでくる涙がこぼれないようにおれは何度も煙草の煙を吐き出すフリをして上を向かなきゃならなかった。
 すっかり日も暮れた夜に、一人きりの炊事場で後片付けを済ませて翌朝の仕込みに取り掛かりながら、おれは今いない奴らにも早く食わせてやりてェな、なんて思ってた。ルフィ、ウソップ、チョッパー、フランキー、それに——ゾロ。
 ゾロはまだ姿を見せていない。本来ならば日中に辿り着く手筈になっていたはずだが、あの天才的なまでの方向音痴はどうせまたどこぞやで迷っているのだろう。明日に辿り着くかどうかも怪しいもんだ。
 本当に手のかかる、と思いながらも、心のどこかでゾロがいないことに安堵している自分がいた。
 だって、どんな顔をして会えばいいかわかんねェ。
 けじめに厳しいあいつのことだ。事情があったとはいえ、大事な局面で身勝手な行動をとって仲間に多大な迷惑をかけたおれに怒っているに違いない。いや、怒っているだけならまだマシだ。見損なったとか、大事な時に身勝手な行動をとる奴はこの先信用できねェとか、そんなふうに思ってる可能性もある。いずれにせよ、のうのうと戻ってきたおれをゾロがあっさり許すとは思えなかったし、許してもらえないと思うだけの心当たりがおれにはあり過ぎた。
 花の都で偶然ゾロと再会した時は躊躇いなくおれにおトコちゃんを預けてきたりなんかして、ああまだ信頼されてんのかなって思いもしたが……。
でもあの時は状況が状況だったし、あいつはなんでかやたらと頭に血が上ってるみたいだったから、本当のところはわからねェ。

 それに、あの美女——青緑色の髪をした謎の美女——を抱えて走り去るゾロの後ろ姿を思い出して、胸の奥がズキンと痛んだ。
 だって、このおれより先にレディの窮地に駆けつけるってよっぽどだぞ。たしかにゾロは普段あんなだけど、根っこの部分は優しくてさりげなく人を助けてやれるヤツだから、当たり前っちゃあ当たり前の行動だったかもしれねェ。でも……なんか妙に必死だったし、二人はやたらと親密そうだった。思い合ってるって言われれば納得するような、そんな感じ。
 はっきりと言葉にしたことはないが、おれとゾロはカラダだけじゃなく心も通じ合ってると思ってた。けど、先に裏切るような真似をしたのはおれの方だし、あれだけの美女だ。ゾロが心変わりしたっておかしくない。
 さっき痛んだ胸がジクジクと嫌な感じで疼いている。でも、もしこの妄想が本当だとして、おれに傷つく権利なんてない。全ては自業自得、身から出た錆。だから、この痛みはあってはならないものだ。
 手を動かしつつそんなことをつらつらと考えていたら、見聞色が気配を捉えた。まだ少し遠いけれど、間違えるはずがない。ゾロだ。ゾロの気配だ。
 ゾロの気配はあっちにフラフラこっちにフラフラしながらも、確実にこちらに向かってやってきていた。どうやら一人のようだ。あの美女は一緒じゃないのだろうか。
 息を詰めて気配を追う間にもゾロはどんどん近づいてきて、もう気配だけじゃなくて足音まで聞こえるようになった。擦れ合う三本刀の鞘の音だって聞こえる。あと五歩、四歩、三歩……ああ、もう少し心の準備をする時間をくれ……二歩、一歩……クソッ、どんな顔をして迎えたらいい?
 気持ちが定まるのを待ってくれるはずもなく、足音が止まったと同時、非情にも半分朽ちかけた扉が勢いよく開かれた。弾みで完全に外れちまった扉の後ろから、ちょんまげに結った緑の髪と、髪と同じ色をした和服が現れる。
「おうコック。メシ食わせろ」
 そう言った顔も、声も、あまりにいつも通りだったから——おれは多分、泣きそうな顔でくしゃりと笑った。

 

「たいしたものは作ってやれねェけど」
「構わねェ。この国の食糧事情はおれも知ってる」
 ゾロは当たり前のようにやってきて、当たり前のように話しかけてきて、当たり前のようにメシを要求した。ゾロがそんなだったから、おれもつい、いつも通りに接しちまった。
 酒は出してやれねェから熱い緑茶を淹れてやって、とりあえず漬け物を小皿に盛って出す。
 ゾロが一服してる間に念のため残しておいた夕飯のおかずを温め直しつつ、おにぎりを握った。本当はエビマヨおにぎりとか作ってやれればよかったが、今の食糧事情じゃそんなものは作ってやれないので、シンプルに塩、それから梅、野沢菜、昆布。おにぎりを握るおれを、ゾロはじっと眺めてた。
 おにぎりを握り終えると、おれは少し考えてから貴重な肉の塊を取り出した。包丁で少し厚めに切り取って、網の上で焼く。味付けはシンプルに塩胡椒で。肉の焼ける香ばしい匂いがあばら屋の中いっぱいに漂って、相変わらずおれをじっと眺めているゾロの腹がぐうう、と盛大な音を立てた。
「腹減ってんのか。もうちょっとだから待っとけ」
「おう」
 こんな他愛のないやりとりにすら、たまらなく胸が詰まった。
 地獄のようなあの場所で、もうこいつにメシを食わせてやれることはないのだと思っていた。でもこうして、またこいつのためにメシを作ってやれる。こいつが、おれのメシを待っている。
 そう思ったら喉の奥から熱いものが込み上げてきて、おれは慌てて上を向いて咥えていた煙草の煙を吐き出した。戻ってきてからというもの、どうやらすっかり涙腺がイカれちまってるらしい。困ったもんだ。
 どうにか涙をこらえてすっかり食事を作り終えると、ゾロの前に並べて出してやった。笹の葉を皿代わりにして並べたおにぎり、根菜のお吸い物、里芋の煮っころがし、ワカメの酢の物、焼いた肉。本当はゾロの好物とかもっと色々作ってやりたかったけど、今はこれが精一杯だ。
「おまちどうさん」
「いただきます」
 背筋をピンと伸ばして、手を合わせて。それから、ゾロはまずおにぎりを一つ手に取ると大きく口を開けてかぶりついた。一気に半分ほど頬張ったおにぎりをもぐもぐとしっかりと咀嚼してから、喉仏を上下させてゴクリと飲み下す。次の一口で残り半分を食べてしまうと、今度は箸で肉を一切れ口に放り込んだ。
「うまい」
 真っ直ぐに向けられたゾロの視線。それと同じくらい真っ直ぐな言葉。
「……そりゃどうも」
 珍しくゾロが素直に「うまい」なんて言うものだから、おれはまた胸がいっぱいになっちまって、おかげで声が震えないように言葉を絞り出すのに苦労した。厳しい言葉の一つや二つは当然だろうと覚悟してたのに、さっきからゾロはおれの欲しい言葉ばっかり寄越してきやがる。いいのかよそんなんで。おれァ都合よく勘違いしちまうぞ。
「おまえさ、おれに何も言わねェの」
 いつになく素直なゾロに、おれも素直になってみようかと思った。
 箸を止めたゾロが、問うような視線を向けてくる。
「……大事な時に勝手に抜けた挙句、何食わぬ顔で戻ってきたおれに、言いたいことの一つや二つくらいあんだろう」
「言いたいことの一つや二つ、ねえ」
 軽く息をつくと、ゾロは箸を置き、腕を組んで偉そうにふんぞり返った。
「勝手にいなくなるなら、『お世話になりました』と『ご迷惑おかけします』くらい言うべきだったんじゃねェか?」
「は……はあ!? テメェふざけてんのか?」
 こっちが真面目に話してるってのに、何なんだコイツ。腹が立つやら困惑するやらでつい喧嘩腰になっちまった。ちくしょう、何でこうなるんだ。
「別にふざけてるつもりはねェよ」
 喧嘩になると危惧したおれの予想に反して、ゾロは至って冷静に返してきた。
「たしかに抜けるタイミングは最悪だったが、テメェはあの書き置きどおり女に会いに行って、そんで戻ってきた。それで何の問題がある? これ以上おれが言うことはねェよ」
「そりゃ、そうかもしれねェけど……」
 違うんだ、と胸の内で声にならない声で叫んだ。
 本当は一味を抜けようとしたんだ。ルフィに心にもない暴言を吐いて一方的に蹴り飛ばして、ナミさんを怖がらせた。大切な夢だって一度は諦めた。それを知ってもゾロ、おまえはそう言えるのか——。
 こらえきれずに思わず叫び出してしまいそうになった時、「ああ」と何かを思い出したかのようにゾロが呟いた。
「テメェがいない間、腹が減ってしょうがなかった」
 予想外のゾロの言葉に、口元まで出かかっていた言葉が引っ込んだ。
「腹が減ったって……おれがいない間、別に何も食ってないわけじゃなかったんだろう?」
「まあな。ローの船でも、ワノ国に上陸してからも、メシは食ってた」
「じゃあ何でだよ。食い物が少なくて腹一杯食えないからか」
「違ェよ」
「だったら——」
「コック。テメェの作ったモンじゃなきゃ、いくら食ってもちっとも腹が満たされねェ」
 ガツンと頭を殴られて一気に目が覚めるような、それくらいの衝撃だった。予想外なんてもんじゃない。どうしてこいつは、こんな。
「正直、テメェのメシが食えねェのは堪えた。もうこんなに腹が減るのは勘弁だ……だからもう、勝手にどっか行くのはやめろ」
 ゾロの目を見ればわかった。こいつは冗談なんかじゃない。全部、本当。
 とんでもない愛の言葉こくはくだ。
 ひたひたと胸の中にゾロの言葉が満ちて、溢れる。溢れて、おれの中のわだかまりをあっけなく溶かしていく。
 ゾロだって、何も思うところがなかったわけじゃないだろうと思う。でも今のゾロの言葉で、こいつはもうとっくにおれのことを許してるし、あの美女に心変わりなんてしちゃいないんだって、わかっちまった。
 気持ちが溢れすぎて声にならない。もうぐちゃぐちゃだ。それでも、これだけはちゃんと言わなきゃって、おれは精一杯喉を震わせて音を紡いだ。
「わかった。約束する」
「わかったなら、いい」
 表情を和らげてそう言うと、ようやくとばかりにゾロはおれに手を伸ばした。

 

 *

 

「あー、食った」
「ったく、人のことまで散々食い散らかしやがって」
「いいじゃねえか。おかげで腹一杯だ」
 そりゃ何よりだ。皮肉を込めてそう言おうと思ったのに、ゾロがあんまりにも満ち足りた顔をするもんだから皮肉はどっかに行っちまった。
 気怠い体をなんとか仰向けにし、手だけを伸ばして放り投げたはずの煙草を探る。なかなか見つけられずパタパタと手を動かしていると、横からゾロがひょいと手を伸ばして煙草の箱を掻っ攫った。中から一本取り出して咥え、同じく放り投げていたライターを拾って火をつける。
「なに、おまえ煙草吸うの。珍しいな」
 ヤった後にだけ時たま吸うことがあるけど、今日はそんな気分なんだろうか。そう思って声をかけると、ゾロはぷかりと煙を吐き出しながら緩く首を振った。
「いや、そうじゃねェ」
 ほらよ、と口をつけた煙草をおれに寄越してくる。ありがたく差し出された煙草を受け取って深く息を吸い込むと、待ち焦がれていたニコチンがたっぷりと肺に流れ込んできた。
「あー、うめェ」
 これだよこれ。やっぱ散々ヤってくたくたになった後の煙草はたまんねェ。
 至福の一服に酔いしれて、気持ちだけじゃなく口まで緩んでしまったらしい。つい、心の声が漏れてしまった。
「ホントはさ、もっとちゃんと食わせてやれたらよかったんだけどな」
「おまえのことをか?」
「ばっか、違ェよ。メシに決まってんだろ」
 呆れてゾロを見上げると、「いったいこいつは何を言ってるのか」という顔をしておれを見ていた。
「十分ちゃんと食わせてもらったぞ」
「いや、料理人としてはだな、もっとこう……」
「テメェはホントしょうがねェなあ」
 ぶつくさ呟いていると、ゾロが顔を覗き込んできた。隻眼が柔らかな弧を描いている。これはアレだ、呆れてんじゃなくて、おれを甘やかす時の「しょうがねェ」だ。
「言ったろ、おれの腹を満たすのはおまえのメシだけだって。どんなモンでも、おまえの作ったメシが食えるならおれは満足だ」
 案の定というか予想の遥か上というか、顔から火が出ちまうんじゃねえかってくらいの恥ずかしいセリフを臆面もなく言うもんだから、おれはたまらずに両腕で顔を覆った。
「もー何なんだよ……ゾロおまえ今日なんかおかしいぞ」
「いいじゃねェか。久々にテメェのメシもテメェも食えて、おれは機嫌がいいんだ」
 ゆっくりと覆い被さってきたゾロがおれの手から煙草を抜き取りつつ、隠せていなかった口をやんわりと食んだ。最初は啄むように、それから段々と深くなっていく口付けに、ただでさえ力の入りにくい体から力が抜けて顔を覆っていた腕がずるりと落ちる。
 覆うもののなくなった潤んだ視界に映るのは、再び雄の色気を纏ったゾロの顔。
「……骨まで残さず食えよ」
「もちろんだ」
 おまえが望むならなんだって食わせてやる——メシも、この体も。
 与えてやれる幸福に溺れながら、おれはゾロに手を伸ばした。