ザクースカ

 深い深い紺。
 夜明け前のこの時間、海と空の境界線はどこまでも深い紺に溶けて朧だ。
 と、目を凝らせばかろうじて見つけ出せるその境目が淡い光を孕んだ。
 突如現れた光の帯は、東雲色から竜胆色、そして群青へと美しいグラデーションで空を染め上げていく。
 夜明けだ。もうすぐあの男が目を覚ます。
 ゾロは窓辺へと歩み寄ると、わずかに窓を開けて聞こえてくる音に耳を傾けた。
 波の音。揺られた船が軋む音。まるで猫のようなウミネコの鳴き声。

 キィ、パタン。コツ、コツ。

 しばらくするとそれらの音に混じってドアが開く音が聞こえ、誰かが甲板へと出てきた。わざわざ下を見なくてもわかる。コックだ。
 次はジッポの蓋を開ける高く澄んだ音に、空に向かって煙を吹き出す音、その後にキッチンへと向かう靴音。
 ゾロがそう予想した通りにサンジは目覚めの一服を堪能してから朝食の準備をするためにキッチンへと姿を消す。パタン、とキッチンの扉が閉まる音が耳に届くと、ゾロは窓を閉め、下へ降りるために梯子へと足をかけた。

 

 *

 

「おはようさん」
 キッチンの扉を開けると、柔らかな声に迎えられた。
「それともおやすみ、か?」
 真っ直ぐにサンジの元へとやってきて、のしかかるように抱きしめ額に軽い口付けを落とす。まるで大きな猫のようなゾロの背中に手を回し、クスクスと笑いながら左の頬に寄せられたサンジの唇を追いかけて優しく食むと、ゾロは甘えるようにサンジの首元に顔を擦り寄せた。
「メシができたら起こしてやるから、少し寝とけ」
 それでも首元に顔を埋めたままのゾロの頭をポンポンと軽く叩くと、名残惜しそうにしながらもようやく顔をあげた。
「わかった」
 どこか拗ねたようにも聞こえる声に忍び笑いを漏らしつつ、のしのしとソファーに向かう背中を見送る。ソファーに転がる直前、
「ちなみに、今日の朝メシはおまえの好物だ」
 と伝えてやると、「そうか」とそれはそれは嬉しそうな顔をするものだから、サンジは今度こそ声に出して笑ってしまった。世間では魔獣だなんだと恐ろしいイメージがついているゾロだが、懐に入れてしまえばこんなにも甘えたで可愛い顔を見せる。サンジとて最初はその意外さに驚いたものだが、自分にだけ見せるという特別さも相まって、今となっては愛しくてたまらないゾロの一面だ。とことん甘やかしてやりたくなる。だから、最近不寝番を終えたゾロが真っ直ぐにキッチンにやって来て幼い子供よろしく引っ付いてくるのを素直に受け入れてやるだけでなく、寝かしつけをしてやり、さらには朝食に好物をたくさん並べてしまうのだ。
「さ、みんなが起きてくる前に作っちまわねェと」
 料理人の朝は忙しい。本当は横でずっと寝顔を見ていたい気持ちを抑え、サンジは朝食の準備に取り掛かった。

 

 *

 

 トン、トン、トン。
 ジュッ、ジュッ、ジュ。
 グツ、グツ、グツ。
 コツ、コツ、コツ。
 バタン、トン、バタン。
 コツ、コツ、コツ。

 微睡の海を揺蕩っていると、耳が軽快なリズムを拾った。
 様々な音で奏でられる、ワルツのような三拍子。時々混ざるコックの靴音は、まるで曲に合わせて踊っているかのようだ。
 音とともに漂ってくるのは、食欲をそそる美味しそうな匂い。
 ジュウと脂が落ちる音とともに香るのは、きっと鮭が焼ける匂い。
 グツグツと煮込む音とともに香るのは、味噌の匂い。今日は味噌汁か……具はなんだろう。大根にネギを散らしたものだといい。
 それからほんのり甘い卵の匂いに、米の炊けるいい匂い、海獣肉の焼ける香ばしい匂いに、これは糠漬けか?
 ああ、本当におれの好物ばかりだ。
 愛しい男の気配と、その男が生み出す音と匂い。それらに包まれる幸せを知ってしまってから、いつからか不寝番明けにキッチンで眠るようになった。
 コックはクルクルと踊るように動き回りながら、次々に起き出してきてキッチンに顔を出す仲間に挨拶をしたり、飲み物を出してやったり、賛辞の言葉のシャワーを浴びせかけたりと忙しい。
 コックが自分以外の人間を構うのは正直面白くない気持ちもあるが、そんなことを言っていたらあの男と付き合うことなどできない。なんせ、他人の世話を焼くのが趣味みたいな男だ。
 それに、と再び二人きりに戻った気配を感じてゾロは思う。
 キッチンの扉を開け、「朝メシの時間だ!」とコックが声を張り上げる前のわずかな時間。この時間さえあれば、そんな面白くない気持ちにも目をつぶろうと思えるものだ。

 朝食を作り終えたコックが、一服してから自分の元へとやってくる。
 今にも踊り出しそうな軽い足取り。ふわりと鼻先をくすぐるタバコの匂い。頬を撫でる吐息。その手が優しく髪を梳いて——
「おはよう、ゾロ。朝メシできたぞ」
 とろけるように甘い声が鼓膜を揺らす。そして、啄むような目覚めのキス。
 そこでようやく目を開くと、すぐ目の前には朝の光を受けてきらめくアイスブルー。
 自分だけを映すそのが優しく細められるのを見て感じる、この上ない幸福。そんな満ち足りた気持ちのまま、他ならぬコックにしか聞かせない甘く響く声でゾロは言う。

「おはよう、コック」