アルプヤルナ 海賊Ver.

 航海の途中で立ち寄ったその冬島は、生まれ故郷であるノースの地を彷彿とさせた。
 空には鈍色の雪雲が垂れ込め、雪に閉ざされた街はどことなく暗く陰気な雰囲気を漂わせている。時折吹きすさぶ突風がまだ踏み固められていない雪を巻き上げては、ただでさえ白い世界をさらに白く塗りつぶしていく。
 凍てつくような寒さの中、白い息を吐きつつザクザクと雪を踏みしめて歩くサンジは、嫌な感じだ、と思った。ここにいると思い出したくもない幼少期の記憶が蘇ってくる。それに、先ほどから鼻につく、纏わりつくようなねっとりとした甘い匂い。不快感さえ覚えるその匂いに、サンジの中の忘れられない記憶が頭を擡げる。
「なんだ? この匂い」
 甘いものが得意ではないゾロが、匂いに気づいたらしく盛大に顔を顰めた。
 ちなみに今は買い出しに向かう途中、ゾロは荷物持ちとして同行している。買い出しという名目の裏で密かにデートを兼ねているというのは、仲間達の知らない二人だけの秘密だ。
「ユリの花の匂いだな……たぶん葬式でもあるんじゃないか」
 ちょうど目の前で教会へと大量の白ユリが運び込まれていくのを見て、サンジが答えた。
「ユリ? 葬式といえば菊の花だろ」
「いや、おれの故郷じゃ葬式といえばユリかカーネーションだった」
「へえ、おれならこんな甘ったるい匂いの花を棺桶に入れられるなんざごめんだがな」
「……おれだってごめんだ」
 苦しげに眉を寄せて吐き捨てるように言うサンジの脳裏に浮かぶのは、すっかり鮮明になったあの日の記憶。
 これだから、ユリの花は嫌いなのだ。

 

 *

 

 あの日——サンジの母であるソラが亡くなったのは、ひどく寒い冬の日だった。
 どんよりと曇った空、降りしきる雪。
 真っ白なユリ、むせ返るような甘い匂い。
 白いユリよりもなお白い母の顔。
 いまだにサンジの頭に残る、あの日の記憶の断片たち。
 ノースでは確かに葬儀でユリの花が供えられるのが一般的だったけれど、ソラの葬儀でユリの花が選ばれたのはそれだけが理由ではなかった。
『ソラには、純真かつ高貴で美しい白いユリがよく似合う』
 そう言って、サンジの父であるジャッジはソラの棺に白いユリの花をいっぱいに敷き詰めさせた。

 ——ちがうのに。

 一人ぽつんと立ち、白いユリに囲まれる母を眺めながら幼いサンジは思った。

 ——お母さんににあうのはあんな花じゃないのに、どうしてお父さんにはわからないんだろう。
 ——お母さんの目みたいに青くて、かわいくて、でもしゃんとしてるあの小さいお花がお母さんにいちばんにあうんだ。お母さんが、『まるでサンジみたいね。お母さん、このお花だーいすき』って言ってくれた、あのお花。

 母のことを全然わかっていない父に腹が立った。綺麗ではあるけれどこんな大ぶりで匂いばかりきつい花が似合うだなんて、大好きな母を穢されたような気さえした。

 ——もうさよならだから、さいごにお母さんににあう、お母さんがだいすきなあのお花をたくさんあげたかったな。

 サンジは小さな手の中の一輪の青い花をぎゅっと握りしめ、母に供えるべく棺へと歩み寄った。
 そう、さよならなのだ。
 幼いながらに、サンジは母が死んでしまったという事実を理解していた。
 死んでしまったら、優しく自分を呼ぶ声も、おひさまみたいな笑った顔も、抱きしめてくれる柔らかな腕も、自分が作ったお弁当をおいしいと食べてくれることももうないのだということ。それをちゃんとわかっていた。
 だからこそ、もう二度と大好きな母には会えない現実が、幼いサンジをひどく打ちのめした。
『おかあさん、おかあさん』
 泣きじゃくりながら母が眠る棺に縋るサンジを兄弟達は鼻で笑い、父は『目障りだ、泣くな!』と棺から無理矢理引き剥がした。
 その拍子に、握りしめていた花が床に落ちる。
『なんだ、この汚らしい花は』
 グシャリと目の前で父に無惨にも踏み潰された花を見て、母のことも、自分の心も、踏み躙られたような気がした。何もかもが、ただひたすらに悲しかった。

 

 *

 

「——い、おいコック!」
「え? ああ……」
 自分を呼ぶ声とともに、温かな手に手首を掴まれてサンジは我に返った。程なくして焦点の合った目に、怪訝そうなゾロの顔が映る。
「ボーッとしてたみてェだが」
 何かあったのか、と言外に滲ませるゾロに、唐突に何もかもぶちまけたくなった。
 自分の過去を、洗いざらい全部。
「————……っ、」
 けれど、サンジはすんでの所で開きかけた口を閉じた。
 ゴクリと喉を鳴らし、こぼれかけた言葉を唾液とともに飲み込む。
「いや、なんでもない。ちょっと花に見惚れてただけだ」
「見惚れてた?」
 掴んだ腕は離さないまま、ゾロが物言いたげな視線を向ける。
 と、その時。突風が吹いて降り積もった雪が高く舞い上がった。空から降る雪と舞い上がる雪、二つの白いヴェールに覆われて、目の前のゾロ以外、全てが世界から掻き消える。
 その光景に目を奪われていると、強く手を引かれてゾロの胸の中に抱き留められた。
「なっ……こんなところで何考えてんだ!」
 慌てて抜け出そうともがくが、鍛え上げられた身体はびくともしない。
「この白くらみだ、誰にも見えねェよ」
「だからってなんで突然こんな、」
「てめェが、寒そうにしてっから」
「……え?」
 思わず動きを止めて、間近にあるゾロの顔を見た。
「それに、手も氷みたいに冷たくなってやがる。あっためてやるから、大人しくしとけ」
 少し眉根を寄せて、一見すれば怒っているようにも見える顔だったけれど、サンジにはそうじゃないのだとちゃんとわかった。
 さっき、衝動に任せて過去をぶちまけなくてよかった。
 そんなことをしなくてたって、ゾロはサンジ自身すら自覚していなかった、今一番必要としていたものをくれた。それだけでもう十分だった。お互いに知らないことがたくさんあっても、なんなら言葉なんてなくても、そんなことはなんの問題にもならない。自分達はこれでいいのだ。
 触れ合っているところから、ゾロの熱が伝わる。それはサンジの冷えた手だけでなく、心までもをじんわりと温めていく。
「ん、あったけえ」
 ほう、と息を吐いて大人しく体を預けると、ゾロは優しくサンジの頭を抱き込んでひんやりとした金糸にそっと指を通した。その感触が心地よくて、もう一度とねだるようにゾロの手に頭を擦り付ける。けれども、ゾロはその手でサンジの顔を上げさせると、とろりと溶けた目を覗き込んでニヤリと笑った。
「もっと温めてやろうか?」
 あからさまな欲を宿した目でゾロが言う。
 いつの間にやら尻のあたりまで降りてきた手の不埒な動きにその言葉の意味する行為をまざまざと思い浮かべ、背中にじゅん、と甘い痺れが走った。
「バーカ、今から買い出しだろ」
 口ではそう言いながらも、クスリと笑ってゾロの首に手を回し、鼻同士が触れ合う距離まで顔を近づける。
「この天気じゃ市場もやってねェだろ」
「あー確かに。でもこれじゃ宿にも行けなくね?」
「見聞色使えばなんとかなる」
「それもそうか。そんじゃ、凍える前にさっさと宿行こうぜ」
「おう。こっちだな」
「ちげーよバカ」
 自信満々であらぬ方向に歩いて行こうとするゾロの手をギュッと握った。
「っとにてめェの方向音痴はどうしようもねえな。しょうがねェ、迷子にならないように手繋いどいてやる」
「ケッ、誰が迷子だ」
 悪態をつきつつも、ゾロはサンジの手を包み込むようにして手を繋ぎ直した。
 唸る風、視界を閉ざす白いヴェール、二人だけの世界。
 誰にも見えないのをいいことに、身を寄せ合って歩きながら時折戯れにキスを交わす。
 繋いだ手が暖かい。心が満たされる。
 いつの間にか、サンジを蝕もうとしていた暗く冷たい過去の記憶たちはそっと姿を消していた。