リーヴァ

「クソッ!」
 波打ち際を苛立ちまぎれに蹴りつけると、水しぶきが派手に飛び散った。跳ね上がった水の粒は、沈みゆく夕陽を浴びてキラキラとオレンジ色に輝きながら再び海へと戻っていく。
 同じく夕陽を浴びて燃え盛る炎を宿した海は憎たらしいほど穏やかで、船影一つ見当たらない。
 そう、この一ヶ月ほどの間ずっと。サニー号どころか、近くを通りかかる船すら一隻もいないのだった。

 

 *

 

 ひどい嵐だった。
 上に下にの大揺れの中、なんとか転覆させまいとクルー達は必死に甲板を駆けずり回ってナミの指示に従う。人手不足ゆえに能力者だからと船室で大人しくしているわけにもいかず、ルフィもチョッパーもロビンもブルックも、海水を浴びて脱力しながらも各々が自分の仕事に励んでいた。

「たいへん、大波が!」

 ナミの悲鳴とほぼ同時に、突如目の前に現れた見上げるほどの大波がサニー号に襲いかかる。激流にもみくちゃにされながらも、船は辛うじて転覆を免れた。しかし——。

「ルフィ!」

 波にさらわれた船長を助けるため、近くにいたゾロが間髪入れずに荒れ狂う海に飛び込んだ。沈みかけていたところを掴みあげて船まで泳ぎ寄ると、垂らされた縄梯子を登っていく。待ち構えていたフランキーにルフィを預け、自分も船に上がろうと船縁に片足をかけた時。左舷を抉るように叩きつけてきた波がゾロを再び海へと引き摺り込んだ。
 あまりに突然で誰もが動けないでいる中、ただ一人、サンジだけが「チッ」と舌打ちをして宙へと身を躍らせた。黒い弾丸のようなその姿が波間に消え、やがて金と緑の頭がざばりと水面に現れる。
 ——と、その時、海が大きくうねり二人を一瞬にして飲み込んだ。同時にサニー号も再び大波に襲われ、次に視界が開けた時、二人の姿はもうどこにも見当たらなかった。

 

 *

 

 目覚めると、眩いほどに真っ白な砂浜が目に入った。
「ん…ここは……?」
 サンジはゆっくりとうつ伏せに倒れていた体を起こした。砂浜の向こうにはジャングルというにはややまばらな木々の集まりが見える。百八十度視線を巡らせると、そこにはどこまでも広がる水平線があるばかりだ。
 どこにでもありそうな、でも初めて見る景色。一体ここはどこなのかとまだぼんやりする頭で考えようとして、唐突に思い出した。
 そうだ、ゾロを助けるために嵐の海に飛び込んだのだった。
 気を失って沈みかけるゾロを引っ張り上げ、しっかりと腕に抱え込んだところまでは覚えている。
「……ゾロ?」
 それなのに、今腕の中にゾロはいない。なぜ、と思ったところで脳裏に蘇ったのは、眼前に迫る大波。あの時におそらく自分も気を失った。
 気を失って、それから?
 仮に手を離してしまったとして、同じ島、あるいは別の島に流れ着いているのならいい。けれど、溺れてしまった可能性だってゼロではない。最悪の想像に、ぞくりと背筋に冷たいものが走る。弾かれたように顔をあげ、先ほどとは反対側に視線を巡らせると、揺れる瞳が見慣れた緑頭を捉えた。
 もつれそうになる足を必死に駆って仰向けに倒れるゾロの元へと駆け寄る。
「ゾロ!」
 大声で呼びかけつつ揺さぶるゾロの体は温かかった。胸に手を当てると、確かな鼓動と胸郭が浅く上下する動きが伝わってくる。
(よかった、生きてる)
 どうやら意識を失っているだけのようだ。そう分かるとサンジは詰めていた息をそろりと吐き出し、立ち上がって自慢の右足をスッと振り上げた。
「いつまで寝てんだ、このクソ緑!!」
 ドゴン、と派手な音を立てて右足の踵がゾロの腹にめり込む。直後、ゾロの口から鯨よろしく海水が噴水状に噴き上がった。
「がはッ……いきなり何すんだクソコック!」
 一気に覚醒し、勢いよく起き上がったゾロがすぐさま臨戦態勢に入ろうとして、目に入った見知らぬ景色に構えを解く。
「あ? どこだここ」
「わかんね。おれも目が覚めたらここにいた。嵐の海に飲まれて流されたみてェだが……まあ、つまりは遭難したってことだ」
 ——遭難。
 自分で発したその言葉の響きに、知らず手が小さく震える。
 ゼフと二人、あの絶海の孤島で壮絶な飢えに苛まれながら過ごした三ヶ月の記憶は今もなお身の内に巣食い、時折何かのきっかけで色鮮やかに蘇っては深い後悔と恐怖をサンジに刻みつける。今もそうだ。再びパンドラの箱が開いてしまった。
 湧き上がる恐怖から意識を逸らすべくタバコを手に取ろうとして、海水でぐっしょりと濡れてしまっていることに気づいて舌打ちをする。
「遭難か。まあナミがいるんだ、すぐに助けが来るだろ」
「ああ、そうだな」
 この時ばかりは、動じないゾロの太々しさがありがたかった。

 ——そうだ。優秀な航海士であるナミさんがいるのだから、きっとすぐに助けは来る。それに、ここには緑もあるし、海にだって入ることができる。あの時の草も生えないねずみ返しの岩山とは違うのだ。食い物だってきっと手に入る。だから大丈夫、あんな風に飢えたりなんかしない——

 あの時とは違う、だからきっと大丈夫。サンジは心の中で何度も自分にそう言い聞かせる。手の震えは、いつの間にか止まっていた。

 

 流れ着いた島は、三十分もあれば一周してしまえるような小さな無人島だった。島の中央に位置する森の中に小さい池があり、飲み水には困らない。問題は食糧だった。木はあれども木の実や果実をつけるものはなく、生き物もいない。正確に言えば昆虫は多少生息していたが、毒々しい外見のものばかりでとても食べられそうになかった。
 それなら海はどうかというと、磯焼けしてしまったのか藻類の枯れた海底はまるで焼け野原のようで、魚介類はわずかに生息するのみだった。
 島の様子を把握すると、二人は木や葉を使って海から見える場所に簡素なねぐらを作った。火を起こし、食器なんかも作って当面生活していけるだけの準備を整えると、サンジはゾロに言った。
「飢え死にするほどじゃないが、食糧はあまり期待できねェ。すぐに助けが来ない可能性も考えて体力はなるべく温存しといた方がいい。鍛錬は控えろ。喧嘩もなしだ」
「わかった」
 珍しく特に反論することなくゾロが同意し、二人の無人島でのサバイバル生活が始まった。

 

 一週間が過ぎ、そこからさらに一週間が過ぎてもサニー号は現れなかった。
 時々採れる魚介類や野草を食べてはいたがとても十分な量とは言えず、少しずつ体力が落ちていくとともに、少しずつサンジの不安や焦り、苛立ちは募っていった。 ゾロはといえば、食糧なんかを採りに行く他はサンジの言いつけを守って大人しくしていたが、相変わらず動じることなく落ち着き払って見える様子がさらにサンジを苛立たせた。そして、ゾロの立派に盛り上がった筋肉が少しずつ痩せて行く様がサンジの胸をひどく締め付けた。
 乾かしてから大事に大事に吸っていたタバコは、残り半分になっていた。

 

 さらに一週間が過ぎても、まだサニー号は現れなかった。
 嵐で数日間海が荒れ、食糧がろくに手に入らなかったことがさらにサンジを追い詰めた。嵐の間はねぐらから出ることも叶わず、日がな一日狭い空間でゾロと顔を突き合わせて過ごさなければならなかったために、自分で言い出したことも忘れてサンジは苛立ちをゾロにぶつけた。そんな理不尽な仕打ちにゾロも多少眉間の皺を深くしたが、決して喧嘩を買うことはしなかった。
 残りのタバコは二本になっていた。

 

 そしてさらに一週間。未だサニー号は現れず、最後のタバコも吸い終えて、話は冒頭に戻る。

 

 *

 

 悪態を吐き、何度も波打ち際を蹴り上げるサンジの手首がふいに強い力で掴まれた。この島にいるのは二人だけ。ということは掴んだのはゾロしかあり得ない。
「離せ!」
 怒りのままに大声で叫んでその手を振り払う。しかし、自由になった手首はまたすぐに掴まれて、さらには思いきり引っ張られた。勢いで体が反転し、ゾロと真正面から向き合う形になる。
 いつの間にか夕陽は沈み、辺りはすっかり暗くなっていた。暗闇の中、全てを見透かすような隻眼にひたと見据えられ、サンジは息を呑んだ。手を振り払いたいのに、まるで蛇に睨まれた蛙のように体が竦んで動けない。
 静かな睨み合いの中、先に口を開いたのはゾロだった。
「怖いのか」
「な……」
 怖くない、と虚勢を張るだけの余裕はもう残っていなかった。それに、たとえ嘘をついたとしてもこの瞳に見破られてしまうような気がした。きっと、全部暴かれる。それなら自分からぶちまけた方がマシだ。
「こ、怖えよ、悪いか!! もう一ヶ月だぞ? なのに助けは来ないし、食糧は乏しくててめェはどんどん痩せやがる。タバコだってもうなくなった。もし、もしこのまま——」
 続く言葉はゾロの口に吸い込まれて消えた。
 ぬるりとゾロの舌が口内に侵入してようやく、抱きしめられてキスをされているのだと気づく。慌てて蹴り飛ばそうとするも、密着し過ぎていて足が出ない。それならばと今度は突き飛ばそうとしたが、明らかに厚みを失ったとわかる体はびくともしなかった。
 それでもなおもがくのをやめないサンジを、ゾロは砂浜の上に押し倒した。口内を犯しながら、シャツの裾から滑り込ませた手でゾロ以上に痩せてアバラの浮いた胸を撫であげる。その手の動きに性的な匂いを感じ取り、サンジは狂ったように暴れた。手足をめちゃくちゃに動かし、頭を左右に振りながら口内を蹂躙する舌に思い切り噛みつくと、ようやく口だけが解放された。
「放せ! 放せよこのクソ野郎、なに勝手に盛ってやがる!! てめェ今の状況わかってんのか!?」
「わかってるし、別に盛っちゃいねェ」
「わかってんなら何でこんなこと——」
「怖いのは当たり前だ。別に悪いことじゃない」
 サンジの言葉に被せるように、ゾロが静かに言った。真っ直ぐにサンジを見つめるゾロの瞳も静けさに満ちていた。
 唐突にも思える言葉が、先ほどの自分に対する答えなのだと少し遅れてようやく気づく。
「てめェは、海で遭難する怖さも、飢える怖さも知ってんだろ? 怖さを知って恐れを感じることは生きるために必要なことだ。てめェの感じてる恐怖は、生き物として正しい」
 ゾロの言葉が、サンジの胸にストンと落ちる。もう抵抗する気にはならなかった。
「おれにだって、怖いという感情はある。ただ、今は怖くねェ」
「……なんで」
「コック、てめェがいるからだ。恐怖を自覚して、最善を尽くすてめェを信頼してる。だからおれは怖くねェ」
 それに、と続けたゾロの瞳が強さを宿して輝く。
「さっきてめェは『もし』と言ったが、『もし』はねェ。いいか、あいつらは必ず助けに来る。これは『もし』なんていう仮定の話じゃなく、覆しようのない事実だ。だいたいてめェ、疑ったと知れたらナミとルフィにぶっ飛ばされるぞ」
「……はは、違いねェ」
 この島に流れ着いてから、初めてサンジは笑った。笑って三日月みたいに弧を描いた瞳が濡れて光り、見る見るうちに盛り上がった透明の膜が一筋の流れとなって溢れ出す。ゾロはそれを丁寧に舐め取ると、止まっていた不埒な手の動きを再開した。
「ちょ…だからなんだよこの手は……ッア」
「いいからヤろうぜ」
「ダメだ……って、体力の消耗が激しいから、セックスは…ん、しねえ」
 ゾロの手の動きは止まらない。サンジも口では拒否しつつも、先ほどのような抵抗はない。
「全く食い物がないわけじゃなし、一回くらいしたって問題ねェだろ。たぶん、迎えももうすぐ来るしな」
「なんで、てめェに……んあっ、そんなことが、わかる」
「なんとなくだ。特に理由があるわけじゃねェ」
「なんだよそれ……っ」
「それに」
 ゾロはいったん手を止めて、サンジの顔を覗き込んだ。夜目でもわかるほどに頬が上気し、情欲の色が混ざり出してより一層潤んだ瞳は空に煌めく星を映して宝石箱のように輝いている。そこにはもう苦渋の色はないことに、ゾロは満足を覚えた。

(怖いと思うのはいい。でもあんな思い詰めたようなツラすんのは堪らなくて、一時だけでも全部忘れさせてやりてェと思ったなんて)

 言えるわけもない、とひっそりと自嘲の笑みを浮かべる。
「……いや、なんでもない」
「なんだよ、言いかけたんなら最後まで——」
 不満を紡ぐ口を、宥めるように口づけで塞ぐ。
 サンジは瞼を閉じて感情を表す瞳を隠すと、両腕を伸ばし、自らゾロの口内へと舌を挿し入れた。
 その夜、打ち寄せる白波が体を濡らすのも構わずに、二人は互いの熱を分け合う行為に没頭した。

 

 そして翌朝。濡れた服を乾かすため二人生まれたままの姿で寄り添って寝ているところに、迎えを知らせる声が響き渡ったのだった。