遠い背中

 麗しの女神の誕生日を盛大に祝うため、サンジは朝からキッチンにこもり、宴の準備に勤しんでいた。その間にも朝ごはんを作り、昼ごはんを作り、三時になればおやつも出して、ようやく一段楽ついたところで一服するために船尾へと足を向けた。

 空は宴にお誂え向きの快晴で、キラキラと光る波が目に眩しい。
 夕方の初夏の風は少しの涼しさをはらみ、調理で軽く汗ばんだ肌をさらりと撫でていく。
 その心地よさにサンジは目を細めると、手すりに寄りかかりタバコに火をつけ、胸いっぱいに煙を吸い込んだ。
「あー、うめェ……」
 少し顎を上げゆっくりと煙を吐き出すと、煙の向こうにこちらへ歩いてくるナミの姿が見えた。
「あれっ、ナミさーん!どうしたの?」
 ブンブン手を振りながら呼びかけると、ナミも軽く手を振って応じた。
「ここならサンジくんいるかなと思って」
「ああナミさん、もしかしておれに会いにきてくれた!?」
 途端に目をハートにして体をクネクネとさせ出したサンジを、そういうわけじゃないんだけど、と軽くあしらう。
「タバコ。一本もらおうと思って」
 そう言って見上げてくる鳶色の大きな瞳を、サンジは驚いて見つめ返した。
「ナミさんタバコ吸うっけ?」
「ううん、普段は吸わないわよ。でも今日は、一本だけ」
 それ以上は何も尋ねず、サンジは伸ばされた手に取り出したタバコを一本渡した。
 ナミがタバコを口に咥えたのを確認すると、キンッと澄んだ音を立ててジッポの蓋を開け火をつける。
 形の良い唇が軽く窄められると、途端にケホケホとナミが咽せた。
「あーあ、久しぶりだからやっぱ咽せちゃうなぁ」
 テヘッと舌を出しておどけてみせるその表情は、大人の色気の中に子供らしさが見え隠れしてなんとも可愛らしい。
 普段であればその可愛さにメロリンと騒ぎ立てるところであるが、何かを感じ取ったらしいサンジは優しい眼差しを向けるにとどめた。
 二人の間に沈黙が降りる。ザザーッと船が海を割って進む音と、海鳥の鳴き声が耳に心地良い。

 海の向こうを眺めながらタバコを吸っていたナミが、ぽつりと呟いた。
「確か八歳だったかな、誕生日の日にね、初めてタバコ吸ったの」
 隣で同じようにタバコを吸っていたサンジは、眉をあげて話の先を促す。
「幸せだったけど生活は楽じゃなかったから、早く大人になってベルメールさんの役に立ちたいと思ってた。ベルメールさんがタバコを吸う姿に憧れてたのもあって、タバコを吸えば早く大人になれるような気がしたの。——今思えば、タバコを吸うだけで大人になんてなれるわけないのにね。あの時は大人になれるって本気で信じてた」
「ああ、わかるな、それ。おれも早く大人になりたくてタバコ吸い始めたんだ。ジジイに舌がバカになるからやめろってどやされたけど、ジジイに認められたい一心で吸い続けて、今じゃこの通りだ。ナミさんは?それからしばらく吸ってたの?」
「ううん、すぐにベルメールさんに見つかって、それだけじゃ大人になれないからやめときなって言われてそれっきり。……でも、ベルメールさんが殺されて、アーロンの一味になってからは……こうして自分の誕生日にだけまた吸うようになったの」
「そっか……」
「辛いことがあっても泣かないって決めたけど、自分の誕生日だけは、大好きなベルメールさんの真似をして、幸せだった頃のことを思い出して、ほんの少し泣いた。それでまた頑張ることができた」
 指に挟んだままのナミのタバコから、ポトリと灰が海に落ちる。
「アーロン達から村を取り返してこの船に乗って、もう一人で戦わなくてよくなったけど、なんかやめられないのよね、これ」
 そう言って苦笑を浮かべるナミを掻き抱きたい衝動がサンジを襲う。
 でもなんとなく、それをするのは自分の役目ではないような気がして、代わりにナミの左手にそっと右手を重ねた。
「ナミさんのタバコも、おれのタバコも、多分まだやめる時じゃないんだ」
「そうなのかな」
「少なくともおれは……まだジジイを超えられねェから」
 フーッと煙を吐き出す、その表情は前髪に隠されてわからない。
 まだ遠い背中。やめられないタバコ。

「ベルメールさんね、二十歳の時に私とノジコを拾ったの。それからずっと、本当の親子みたいにたくさんの愛情を注いで育ててくれた。今私も二十歳になったけど、とても同じことができるとは思えない……大人になればベルメールさんみたいになれると思ってたけど、まだ遠いなぁ。いつになったら、あの背中に追いつけるんだろう」
「ほんと、遠いよなぁ。でもさナミさん。おれはいつか、必ずジジイを超えてみせるよ」
 重ねられたサンジの右手に僅か力がこもる。
「……ねえ、大好きな人の背中を追い続けられるって幸せなことかもしれない。追いついて、追い越したら……その先は、どうしたらいいんだろう」
 沈黙が二人をそっと包み込む。
 しばらくして、サンジがゆっくりと口を開いた。
「その時はさ、きっと同じようにおれ達の背中を追う誰かが現れる。だから胸張って前に進んで、立派な背中見せればいいんじゃねェかな」
 パッと表情を明るくしたナミが、サンジの方を振り返った。
「そっか、そうよね!」
 そしてするりと左手を抜き去ると、再び海へと向き直った。
「ベルメールさん、いつか絶対追いつくからね」
 笑顔でそう宣言すると、先ほどまで吸っていたタバコを海に放る。
 放物線を描いて落ちたタバコは、あっという間に波に攫われ見えなくなった。
「タバコ好きだったから……喜んでくれるかな」
「もちろんさ」
 そしてサンジも、吸っていたタバコを海に放る。
「もしよければ、これも」
 そう呟いて、胸ポケットから取り出したタバコの箱も海へとそっと投げ入れた。
「ありがとう、サンジくん。ベルメールさんきっと、すごく喜んでる」

 大好きな背中に追いつく日が来たら、認められたくて、大人になりたくて始めたタバコはいらなくなるのだろうか。
 でも今はまだ。まだとても追いつけそうにないから。
 来年もきっと、私は誕生日にタバコを吸うのだ。