Never too late to begin

 船を降りた後、奇跡の海オールブルーにほど近いところでレストランを開いた。
 それからずいぶん長い月日が過ぎた。
 仲間達もそれぞれに夢を叶えそれぞれの道を歩んでいたけれど、一人で、あるいは連れだって時折メシを食いに来てくれた。
 そして、ゾロも。
 鷹の目を倒して世界一の大剣豪になり、船を下りて放浪の旅に出た後も、時々ふらりと現れてはメシを食い酒を飲んで帰って行った。
 一緒に旅をしていた時は「美味い」と口に出すことのない男だったが、わざわざメシを食いに来るということは、おれの作るメシを気に入ってくれていたと自惚れてもいいのだろうか。
 嬉しかった。
 おれは、ずっとゾロのことが好きだったから。
 たとえ必要とされているのがメシだけだとしても、それで十分、いや、それが何よりの幸せだった。
 だからこの気持ちを伝える必要はない。このまま墓場まで持っていくのだ。
 そう決めていたのに、

「なあ、知ってたか?おれ、おまえのこと好きだったんだぜ」

 なんてあろうことかゾロ本人に言ってしまったのは、嬉しかったからだ。
 60にもなってまだ自分のメシを食いに来てくれるゾロが可愛くて愛しくて、酔いも相まってつい口が滑った。
 ここまで抱えてきた最大の秘密を今更漏らしてしまう自分の口が憎らしくもあったが、過去形にしたところは褒めてやりたい。
 昔話にしてしまえば、ゾロがどんな反応をしようがいくらでも誤魔化せる。
 さあ、こいつはどんな反応をするのだろうか。

「……なんで過去形なんだ?」
 マジかよ。いきなりそこ突っ込んでくんのかよ。
「そりゃおまえ、昔話だからに決まってんだろ」
「おれに嘘は通用しねェぞ。今でも好き、の間違いだろ」

 ゾロに言い当てられ、ドキリ、と一つ音を立てた胸には気付かない振りをする。
 昔から妙に勘のいい男だ。
 どういうつもりで指摘してきたのかは知らないが、「はいそうです」と素直に認めるつもりはない。
「大剣豪サマは、随分と自信過剰だなァ?」
 タバコの煙を吹きかけ、自惚れるなよの意を込めて流し目を送ってやった。
「別に自信があるわけじゃねえ。ただ、わかるだけだ」
「ハハッ、獣の言うことはよくわかんねェな」
 こいつは、真面目くさった顔でとんでもないことを。
 わざと挑発するように笑い飛ばしてやったのに、ゾロは挑発には乗ってこず、存外真剣な瞳でただ静かに見つめ返してきた。
 ——ドキリ。
 また心臓が一つ音を立てる。
 大丈夫、動揺は顔に出ていないはずだ。
 はずだった、のに。

「おれは、おまえが好きだ」

 ポロリと、薄く開いた唇からタバコが落ちた。
 流しに落ちたタバコが、水滴でジュッと消える音で我を取り戻す。
 今、あいつは何て言った?
 おれは都合のいい夢を見てるのか?
 波立つ心を沈めるよう、殊更ゆっくりと胸ポケットから新しいタバコを取り出し、火をつける。肺の奥深くまで煙を吸い込み、言葉にできない疑問と共に吐き出すと、努めて冷静に返した。
「おまえも冗談言うことあるのな」
「冗談でも、昔話でもねェよ。いつからだったかは覚えちゃいないが、おれは昔からてめェが好きだ。まあ、自覚したのは40超えたくらいだったがな」
「好き……?おまえが、おれを?」
「そうだ。添い遂げたいと思うくらいにな。そう思ったのは、後にも先にもおまえだけだ」
 ああ、まただ、と怒りにも似た気持ちがわく。
 人の気も知らないで、いつだってこいつはおれの心を揺さぶるのだ。
 抗いようのない、大きな揺れ。
 できるものならば、このまま揺れに身を任せてみたいと思った。
 でも。
 生きてきた軌跡を示すかのように、深く刻まれた皺。お互い、髪にもだいぶ白いものが混じってきた。
 そう。何かを新しく始めるには、おれ達は少し歳を取り過ぎた。

「仮にだ。おれが今もおまえを好きだとして、どうにもならねェよ。だってもう60だぜ?始まるもんも始まらねえ」
「バカだな、今だからいいんじゃねェか。何事も、始めるのに遅すぎることなんてねえよ」
 自信満々に、ニカリと笑うその顔にもう少年の面影はない。
 変わってゆくものと、変わらないものと。全部ひっくるめて、やっぱりこいつが好きだ。

「全部受け止めるから、いい加減素直になりやがれ」

 あーもう完敗だ。
 ここまで言われて意地張り通すのもバカだよな。
 もういい加減、自分の心に正直になってみようか。

「……まあ、バレちまったものはしょうがないか。クソ、てめェの言う通りだよ、ゾロ。昔も今も、おれはてめェのことが好きだ」
 ずっと触れてみたかった唇に、掠めるようなキスをする。
 それじゃあ足りなくて、今度は啄むようなキスを。
 どちらからともなく、フハッと笑いが零れる。
「こういうのも、悪くねえなァ」
「だな。でもおれァこの程度で終わらせるつもりはないぞ、覚悟しとけ」
「何おまえ、おれのこと抱こうとか思ってんの?おれ様のような色男を、干からびマリモがどうこうできると思わねェけど?」
「誰が干からびマリモだ。おれはまだまだ現役だ、後で泣きを見ても知らねぇぞ」

 随分遠回りをしてしまった。
 でも、おれ達にはきっとそれだけの時間が必要だったんだ。

 ゆるりと金色の睫毛を伏せ、海を抱く瞳を隠して幸せそうに笑む男の頬に、剣だこだらけの無骨な手が優しく触れる。
 長い旅路の果てに辿り着いた二人だけの新たな始まりを、海だけが、そっと見つめていた。