Till death do us part

 敵船の隅に小さく丸まって震えるまだ幼い少女を見つけ、助けを求めて頼りなく揺れるその瞳と視線がぶつかった時、考えるよりも先に少女の元へと走り出していた。

 少女に気を取られたその瞬間、ほんの一瞬ではあったが、隙が生じた。

 ここは新世界だ。新世界の海に蔓延る海賊は、グランドライン前半の海に比べ段違いに強い。今ゾロと二人で乗り込んでいるこの海賊船も然りで、雑魚どももそれなりの強さだったし、リーダーらしき人物は肌で感じる限りおそらくかなり強い。サシではおそらくまず負ける、ゾロと協力すればなんとか互角に持ち込めるかどうかだろうと、サンジは冷静に相手の力量を見極めていた。
 それだけの実力がある敵が、その隙を見逃してくれるはずはない。
 まずい、と思った時には敵が放った長剣が間近に迫ってきていた。
 避けられないことはなかったが、避ければ少女が犠牲になる軌道であったこと、さらに切っ先が自分の右腕に向いていたことでサンジの動きが止まる。

 サンジが何かに気を取られたことには気付いていた。
 サンジに向かって長剣が放たれたことも。
 だが、あいつなら避けられるだろうと目の前の敵に集中する。
「キャアアアアア」
 間をおかず響き渡る悲鳴にほんの僅か視線を走らせ、状況を把握したゾロは苦々しげに舌打ちをした。
 少女が危ないとなると、自分を犠牲にしても助けようとする男だということは分かりきったことだった。
 そして腕、特に料理をする上で大切な右腕が傷つくことを何よりも恐れていたことも知っていた。
 これはその事実を知っていて状況を読み誤った己の怠慢だ。
 自分を含め、誰であろうとコックの腕を傷つけることは許さない。
 力技で目の前の敵を吹き飛ばすと、ゾロは少し離れた場所にいるサンジの元へと走った。

「コック!!」
 声と同時に視界に入り込んできた鮮やかな緑。
 今にも右腕に刺さらんとしていた長剣は閻魔によって弾き飛ばされたが、飛んできた長剣は一本だけではなかった。
 間髪を入れずに放たれ、もうすぐそこまで迫っていた二本目の長剣とサンジの間に、ゾロが敵の方を向き入り込む。
 刹那、ぶわりと鼻腔いっぱいにゾロの匂いが広がった。
 このままではゾロが、と思うのに体は言うことを聞かず固まったままで、スローモーションのように二本目の長剣が返す刀の隙間を縫ってブスリとゾロの胸を貫き、切っ先が背中から飛び出してくる様をただ眺めていることしか出来なかった。
 このままおれも貫いてくれればいいと思った切っ先はしかし、ゾロが傷口を武装色で硬化したことによりサンジの僅か数ミリ前で止まり、いつまで待ってもサンジを貫くことはなかった。

 ガクリとゾロが片膝をつく。それをきっかけに体の主導権を取り戻したサンジは、ゾロの前に回り込むと倒れ込みそうになる体を抱き締めて支えた。
「ゾロ!ゾロ!!」
 周りを囲まれるのを気にも留めず、必死に呼びかける。
 喧騒が遠のき、ゾロの忙しない息遣いだけがやけに耳につく。
「う…技出す余裕がなくてヘマしちまった、情けねェ……ああでも、てめェの腕に傷はない、みてェだな、よかっ…」
 うっすらと安堵の笑みを浮かべるゾロの顔が白い。
 下を見ると、真っ赤な血溜まりがどんどんと範囲を拡げていた。
 心臓は避けられたようだが、おそらく太い血管を損傷している。止血するには多分、ここで胸を掻っ捌いて直接血管を押さえるか、チョッパーに手術してもらうしかない。
 そんな状態なのに、なんでこいつは。それに——。
「バカ野郎っ!!おれの腕に傷がつくくらい、なんともねェよ!そんなことで死にかけるんじゃねェ!……しかもおまえ、背中っ……背中に傷は作らないんじゃなかったのかよ、なのに…っ」
「ああ……この傷は、恥じゃねェ、っよ…逃げ傷じゃねェ、てめェの腕が、無事だったんだ、誇るべき、傷だ」
 切れ切れになりながらも、やはりうっすらと笑みを浮かべてそんなことを宣うゾロに怒りを覚えるが、今は喧嘩をしている余裕などない。
 なんとかこの場を離脱しなければ。だが、サニー号はここからだいぶ離れたところで別の船と交戦中だ。この強さなら、ルフィがいるとはいえ向こうも余裕があるわけではないだろう。助けは期待できない。
「なあ、コック」
 死にかけのゾロを置いていくという選択肢はなかった。ゾロを連れてこの場を切り抜ける方法を思案していると、ゾロから呼ばれた。
「なんだ」
「おれ一人、なんとでもなる…だから、おれに構わず、てめェは行け」

 ああこいつ、死ぬつもりだな、と思った。
 おれだって分かってる。
 傷口を武装色で硬化しても、流れ続ける夥しい量の血。冷えていく体。
 戦うとなると人質にされるだろう少女。
 そんな二人を庇いながらでは到底勝てそうもない敵。
 どこか冷静な頭でこの場を切り抜ける方法を何パターンもシュミレーションしたが、二人ともが生きて戻れる方法を見出すことはできなかった。
 そうしている間にも、さらに拡がる血溜まりがサンジのズボンを重く湿らせる。耳元で感じる喘ぐような呼吸。
 ゾロの命が、抱き締める両手から砂のように零れ落ちていってしまう。

「こんな死にかけ、置いて行けるわけねェだろ」
 ゾロが何かを言いかけたが、微かな息が漏れただけでそれが音をなすことはなかった。
 その時、コツコツと響いていた足音がサンジの真後ろで止まり、ガチャリと銃口が後頭部に突き付けられる。
 振り向かなくてもわかる、こいつがこの船のボスだろう。
「話し込んでいたようだが、今生の別れは済んだのか?……黒足のサンジ」
「……うるせェ」
「そっちは海賊狩りか。もう死が近いな」
 その時ふっと、どこかで聞いた言葉が頭の中に浮かんだ。

 ——病めるときも健やかなるときも、死が二人を分かつまで、愛し——

 ゾロに対して抱えていた想いが。
 体を重ねながら、交わし合った情が。
 それらが愛と呼べるものだったのかどうかはわからない。
 でも確実に二人の間にあって、特別な意味を持っていたのは確かだ。
 もし仮に愛と呼ぶのであれば、それはこの言葉のように死が二人を分かてばそこまでのものなのだろうか。
 ……終わらせたくないと思った。
 死が二人を分かちそこで愛が終わるなら、死によって分かたれないようにすればいいだけだ。
 それならば話は簡単だ。
 でも、とサンジの胸を罪悪感がチクリと刺した。
(ナミさんにルフィ、それにみんな……きっと怒るだろうなぁ)
 仲間が怒り、悲しむ顔が脳裏に浮かぶ。
(ごめん、みんな)
 たとえ仲間を傷つけることになるとしても、ゾロと一緒に居たかった。

「さあ、お別れは終わりだ。立て」
 銃で背中を小突かれる。どうやらこの場ですぐに殺すつもりはないようだ。できれば幕引きは自分でしたかったから都合がいい。
 チラリとゾロを見る。
 最期が近いのだろう、かろうじて意識はあるようだが、サンジが好きだった琥珀色の瞳からは光が失われつつあった。
 出会った当初から常にゾロと共にあった和同一文字はまだ口に咥えられていたが、噛み締める力は緩んでいる。
 そういえば、ゾロにとって特別らしいこの刀に嫉妬したこともあった。
(怒るよなぁ、おまえ)
 文句なら後でいくらでも聞く。でももう決めたのだ。
 どこまでも、おまえと共に行く。
「ごめん、ゾロ。ごめん、レディ……でいいのかな?」
 そう小さく呟くと、ゾロの口から和同一文字を抜き去り、躊躇うことなく左の胸に深々と突き刺した。
 ゾロの目が一瞬大きく見開かれ、吹き上がる血飛沫がその瞳に映り込む。
 間もなく、力を失った瞼が静かに閉じられた。
 その様子を見届けたサンジは、うっすらと笑みを浮かべて呟く。
「おれも、すぐ、逝く……あの世で、会おう、ぜ」
 輝く海のように美しい青の瞳が瞼に覆われると、眦から一筋涙が溢れた。