Happy Birthday Dear……

 なんだか、くすぐったいような、心地いいような。
 そんな感覚に、水底から浮かび上がるように意識が浮上した。
 それとともに感覚がよりいっそう鮮明になる。ああこれは、誰かに頭を撫でられているのか。
 そっと髪に差し入れられた指が、するすると滑りおりて頭の輪郭をなぞっていく。触れるか触れないかの絶妙なタッチの指先が少しくすぐったい。たしかな熱を持った、この指先の感覚をおれはよく知っている。

(……ゾロ)

 顔が見たい、と思った。
 自覚があるのかないのか知らないが、こうして優しい手つきで人の頭を撫でてくる時のゾロは、見ているこちらが恥ずかしくなるような、やわらかく溶けた目をしているのだ。
 そろりと目蓋を持ち上げようとして、でもそれは叶わなかった。たしかに覚醒しているはずなのに、体だけは泥の中に沈んでいるような重たいだるさに支配されていて、目蓋はおろか指一本すら動かない。
 たぶん、金縛りのようなものなのだろう。頭は起きているのに、体は寝ているというアレ。
 もう一度だけ目蓋を持ち上げようと試みたが、失敗に終わった。仕方がないので目を開けるのは諦める。
 そもそも、どうして寝ていたんだっけか。ふとそんな疑問が湧く。
 飽きもせず、頭を撫で続けるゾロの指が心地いい。再びとろりと忍び寄ってきたまどろみの海に素直に身を預けつつ、おれはぼんやりとする意識の中で記憶のカケラたちを辿っていった。

 そういえば、今日はおれの誕生日だった。
 海の上で迎えた誕生日は幸い敵襲も嵐もなく平和な一日で、日が沈むとともに甲板では盛大な宴が始まった。
 乾杯をして、おれが腕によりをかけて作ったご馳走をみんなで食べて、ケーキに立てたロウソクを吹き消して、歌って、踊って。みんなそれぞれに心のこもったプレゼントもくれた。ゾロからは何もなかったけれど、考えてもみろ。あいつが律儀に誕生日プレゼントを用意する方が逆にびっくりってもんだ。
 みんなに祝ってもらえるのが嬉しくて、楽しくて、いつもより酒も進んで——そう、たしかにおれはほろ酔い、いや、だいぶ酔っ払ってた。そして宴がお開きになった後、ゾロはそんなおれを奴の巣である展望室に連れ込んだ。
 まるでこれが誕生日プレゼントだとでも言わんばかりに、ゾロはいつも以上にねちっこく、ぐずぐずに甘やかすようにしておれを抱いた。おれも酔っ払ってたもんだから理性のネジが二、三本飛んじまって、ゾロから与えられる快感にさんざん鳴いてよがって数えきれないくらいイッて、あられもない姿を晒した……と思う。正直記憶が曖昧だ。
 おおかた、ヤリ疲れて気絶するように意識を失ったんだろう。
 どれくらい寝ていたんだろうか。そもそも何時に寝落ちたのかもわからないが、こいつがおれを起こさないということは、少なくともまだ寝ていても問題ない時間のはずだ。
 寄せる波のようにゾロの指が髪を梳き、まどろみの海が深くなる。底へ底へと潜っていく意識をこのまま手放してしまおうかと思ったところで、かすかな音を耳が拾った。

「ハッピーバースデー、トゥー、ユー」

 低く掠れた、ちょっぴり調子はずれの、ささやくような歌声。
 バースデーソングだ。今日の宴でケーキのロウソクを吹き消す時に、この歌をみんなが歌ってくれた。でもゾロだけは、我関せずといった様子で酒を呷るばかりで歌っていなかったはずだ。
 それをこの状況で歌うとか、こいつもたいがい……けど、そんなところがカワイイ、なんて…………

「ハッピーバースデー、トゥー、ユー」

 低く掠れたささやきが、同じフレーズを繰り返し奏でる。
 やわらかな旋律が、子守唄のように目覚めかけた意識を再び眠りへと引き込もうとした時だった。

「ハッピーバースデー、ディア——……」

 ゾロの口が紡いだ三つの音。
 空気を震わせたとてもささやかな振動は、けれどまるで津波のような大きな大きな波となっておれの心を揺さぶった。
 だって、まさか。
 こんな関係になってさえ頑なに呼ぼうとしいないものだから、こいつがおれの名前を呼ぶことはきっと一生ないんだろうと思っていた。それは少し寂しくはあったけれど、かといって諦めというのでもなく、ゾロがしたいようにすればいいと、そう受け止めていた。
 そんな、決してゾロの口から聞くことのないはずだった三文字を、まさか聞ける日が来るだなんて。 しかも、この状況で。いやもうこいつホントに——。

 歌が終わり、静寂が訪れる。
 耳に聞こえるのは波の音。ゾロはまだおれの頭を撫で続けていて、おれの体はまだ動かない。
 ゾロはきっとおれが目覚めていることに気づいていない。
 でも、それでいいと思った。
 このことはおれだけが知っていればいい。おれだけの、幸福な秘密。きっと、おれの人生においてこれ以上の誕生日プレゼントはないだろう。

 とろりと、再びまどろみの海が忍び寄ってくる。
 溺れてしまいそうな幸せに包まれて、今度こそおれは深い海の底へと身を投げ出した。

2024-03-02