誰が手ゆえに命はめぐる

 自分の体の五倍はあろうかという獣を甲板に投げ入れると、ドシンと大きな音を立て船がゆらゆらと頼りなく揺れた。
「いったい何事だ?」
 気配で誰かはわかっていたのだろう。船番をしていたコックが、キッチンから咥え煙草で呑気に顔を出す。と、甲板に横たわる獣を見つけたのか、訝しげに眇められた右目がまん丸と見開かれた。
「おまえ……だよな、コレ。どうしたんだ?」
「森ん中歩いてたら喧嘩売ってきたんで返り討ちにした。んで、食えるかと思って持って帰ってきた」
「へえ、おまえにしては気が利くじゃねェか。目の前の一本道を行きゃあすぐ街に着くってのに、なんで森の中なんかを彷徨ってたのかは、この際聞かないどいてやる」
「うるせえな。結局食えるのかよ、それ」
「ああ、こりゃウリウリイノシシだな。こいつの肉は味が濃くて美味いぞ。脂身が絶品なんでシンプルに焼いてもいいし、角煮にすりゃあいい酒のつまみになる」
 角煮。その言葉の響きに、想像するだけで酒が飲みたくなってきて思わず片頬が緩む。
「そりゃいいな」
「ただし、美味く食うには下処理が大切だ。見たところ出血はなさそうだが、こいつァまだ生きてんのか?」
「峰打ちで気絶してるだけだ」
「でかした! マリモのくせに優秀だ、褒めてやる」
 なんだか失礼なことを言われたような気がしたが、パッと破顔した、その言葉とは裏腹に邪気のない笑顔に気を取られて文句を言うタイミングを逃してしまった。その間にコックはイノシシの前にしゃがみこみ、何やら一人でブツブツと呟いている。
「しばらくは誰も帰って来ないだろうし、今のうちに捌いちまうか。見たところメスみたいだな。それなら臭みも……この大きさならナイフは…………」
 ふいにひとり言が途切れたと思ったら、コックは突然立ち上がるとキッチンへと姿を消した。
 時を置かずに戻ってきたコックは長靴とゴムエプロンを身につけ、両手にロープと数本のナイフという出立ちに変わっている。手にしたナイフをいったん甲板に置くと、今度はバケツとホースを持って来てバケツに水を汲む。それからロープで手早くイノシシの四肢を縛り、刃が分厚く先端が鋭く尖ったナイフを手に取った。
「気持ちのいいもんじゃねェし、別に見とかなくていいぞ」
 太陽にナイフを翳し、ギラリと光る刃先に目を向けたままコックが言う。
「アホか。獣一匹殺すくらい、今さらどうってこともねェよ」
 アホだアホだとは思っていたが、こいつは本物のアホなのかと思う。おれは元海賊狩りで、世界最強を求める剣士だ。これまで散々刀で人を殺してきた自分が、今さら獣を一匹屠る場面を見たところで何ということもない。むしろ人でないだけマシというものだ。
 だからと言って積極的に屠殺現場を見る趣味もなかったが、敢えてその場に残ることにしたのは、売り言葉に買い言葉というよりもこの男が刃物を扱うところを見たいと思ったからだった。
 生き物を食べるために殺すべく、その刃を振るうところを。
「まあいいけどよ」
 最後まで見届けるつもりで刀を抱えて胡座をかいて座り込んだおれに、コックはそれ以上何も言わなかった。 ナイフを一本選び取りイノシシの前に立つ。それから、手にしたナイフを構えるでなく自分の胸に当てると、静かに頭を垂れた。
 まるで、祈りでも捧げるかのようなその姿。
 いったいこいつは何をしている?
「なんの真似だ」
 十秒ほどで再び顔を上げ立ち上がったコックに、おれは思わず問いかけていた。
「今のか? そうだな……まあ、感謝の祈りみてェなもんか」
「祈り?」
「弱肉強食は自然の摂理とはいえ、おれ達の一方的な都合で命をもらうんだ。敬意と感謝を払って当然だろう。あとは誓いだな。命をもらうからには最高の料理にしてみせるっていう、料理人としての誓い」
「へえ」
 おれは、相手を殺す時に感謝したりはしない。相手によっては敬意を払うこともあるが、雑魚には敬意など払わない。自分の目の前に立ち塞がるから斬る。それだけだ。
 同じ命を奪うという行為でも、自分とは全く違う。そんな「殺すための刃」に俄然興味が湧いた。

 

 横倒しに寝かされたイノシシの背後にコックが立つ。
 イノシシの体を膝で押さえるようにし、右手に構えたナイフを迷いなく首の付け根に刺し入れた。
 イノシシの目が、大きく見開かれる。
 痛みなのか、死を悟ったのか。いずれにせよ、強く生を感じさせる、光が宿った瞳だった。
 直後、コックがナイフを引き抜くと同時。
 抜けるような青い空に向かって、血飛沫が高く紅い弧を描いた。
 パタパタと落ちてきた血の雫が、コックの金の髪に、白い頬に、真っ赤な染みを作る。
 白と金、そして赤のコントラストで妙に煽情的なその横顔の向こう、暴れることすら叶わなかったイノシシの四肢がびくり、びくりと痙攣するのを見た。
 その間も、コックは表情一つ変えずにイノシシの肩の辺りを揺すっては放血を促している。
 流れ出る血の勢いが弱まるにつれ、イノシシの瞳から徐々に光が失われていった。

 ここまでは命を奪う過程。自分が人を殺す時と大きく変わりはない。
 違うとすれば、この先だ。
 動き一つ見逃すまいと、より一層目を凝らす。

 血抜きを終えたコックは、手にしたナイフを置き、今度は小ぶりで真っ直ぐな刃道をした、いかにも切れ味の良さそうなナイフを手に取った。
 四肢を縛っていたロープを外し、イノシシの体を仰向けにする。
 それから手にしたナイフで胸から腹にかけて撫でるようにして切り開いていった。
 浅すぎず、深すぎず。絶妙な力加減にコックの腕の確かさを知る。
 肋骨と筋肉がきれいに露出すると、コックはナイフを鋸に持ち替えて内臓を傷つけないよう慎重に肋骨を切り開いた。
 そして再び先ほどのナイフを手に取り、腹から下の皮膚と脂肪だけを器用に切り開いていく。
 胸から肛門まで、一直線に体を開き終えるとナイフを置いてイノシシの体を横に傾け、コックは躊躇うことなく腹の中に手を突っ込んで中の血を掻き出した。
 雪のような白をした手が、流れ出た血で真っ赤に染まる。
 その手でイノシシを再び仰向けに戻し、ナイフで筋を切りながら内臓を取り出すと水を張ったバケツに放り込んだ。
 ホースで水を流しながら、一塊になった内臓をナイフで一つ一つ切り分けていく。
 一切の無駄のない、流れるような手つき。
 あまりの手際の良さに、こいつは一体これまでに何度こうして命をその手で終わらせてきたのだろうか、と考えた。
 あの魚の形をした船ではもちろんの事、この船に乗るようになってからだって、表では涼しい顔をしながらもきっとおれ達の知らないところで何度も何度も、仲間に食わせるために一人ナイフを振るい手を汚してきたのだろう。
 そんな当たり前のことに思い至らなかった自分に気づく。

 内臓の処理を終えると、コックは水で手についた血を洗い流し、それからイノシシの腹の中の血も洗い流した。
 そして再びナイフを持ち替える。
 今度は曲刀のような、刃全体が緩くカーブしたナイフだ。
 そのナイフで足から順に皮を剥いでいく。
 故郷を出て一人放浪していた時に野生の獣を殺して食べたことは幾度もあるが、この皮を剥ぐという行為はなかなかに骨の折れるものだった。かなり繊細な作業が求められるのだ。
 しかし目の前のこの男はそんな素振りを露ほども見せず、かなりの巨体であったにもかかわらずあっという間に首元まで全ての皮を剥ぎ終えてしまった。
 皮を剥ぎ終えると今度は大ぶりのナイフを手に取り、喉元に切り込みを入れて手で首の関節を外し、頭を胴から切り離す。
 間を置かずに後ろ足、前足、それから新たなナイフに持ち替えて胴体の肉を肋骨と背骨から取り外していく。
 ひらりひらりとまるで蝶のように優雅に舞う刃先から目が離せない。
 イノシシだったものが、食材へと姿を変えていく。
 そしてこれらの肉は、同じくコックの手によって料理へと更に姿を変えるのだ。
 気づけば肉はすでに部位ごとに全て切り分けられており、最後に背骨と肋をナタで断ち切ると、ふっと体の力を抜いたコックがようやく立ち上がった。

 

「終わったのか」
「解体はな。こっから熟成させたり保存用に処理したりまだまだやることはたくさんある。——なあ、おまえこの後ヒマか?」
「あ? 特に予定はねェけど」
「それじゃあ甲板掃除頼む。あいつら、特にナミさんにこんな血塗れの甲板を見せる訳にはいかねえからな」
「はあ? なんでおれが」
「角煮に米の酒」
「グッ……」
「干し肉にレバニラも追加だ」
「チッ、わーったよ。掃除すりゃいいんだろ」
「よーしそれでいい。とびきり美味いやつ食わせてやるから楽しみにしとけ」
 先ほどまでの真剣な顔つきとは打って変わってガキみたいな顔で笑うと、コックは体についた血を流し、解体した肉を持ってご機嫌でキッチンへと入って行った。
 その後ろ姿をなんとはなしに見送り、ホースで水を撒きデッキブラシで甲板に流れた血を洗い流していく。
 無心になって汚れを落としながら、頭の中ではイノシシを解体するコックの姿がずっとリフレインしていた。

 祈りを捧げるような後ろ姿。
 ゾクリとするほどに真剣な瞳。
 突き立てるナイフ、噴き上がる血。
 鮮やかなナイフ捌き。
 血に塗れた手。
 切り分けられた肉塊。

 確かにコックはイノシシの命を奪った。
 そのために振るうナイフをおれは「殺すための刃」だと思っていたが、それはとんだ間違いだった。
 コックの振るう刃は命を奪い、その命を一つも無駄にすることなく料理という形で他の命へと引き継いでいく。
 自らの手を汚すのは同じでも、おれのように命を奪うだけの刃とは違う。
 それは紛れもなく、「生かすための刃」だ。
 そしておれもまた、その刃に、その刃を振るう手に生かされている。
 あの男に、生かされている。

 

 その事実に気づいた時。
 青天の霹靂の如く、脳天から爪先まで衝撃が駆け抜けた。