天国だろうと、地獄だろうと

 3.

「なあ、おまえから見て、おれはマトモか?」

 エッグヘッドを脱出してようやく落ち着いた頃、久しぶりにカラダを重ねた後に、世間話でもするかのようにコックはおれにそう聞いた。
「……なんでそんなことを聞く?」
「質問に質問で返すなよ」
「少なくとも、今はマトモだろ」
 抱き合っている最中、コックはいつものコックだった。快楽に身を任せつつ、決して受け身のみには収まらない、気を抜けばこちらを食わんとせんほどの強気な瞳。そのくせ、こちらの背中に爪痕一つすら付けまいとするいじらしさを見せる。この絶妙なバランスこそが、コックがコックである証だ。
 それに、相変わらず女尊男卑が著しく、見慣れない食材とあらばガキみたいに目を輝かせ、作るメシはすべからく美味い。体の変化——やたらと硬い皮膚に異常な回復力——を除けば、コックはいつも通り、つまりはマトモだった。少なくとも、おれにはそう見えた。
 ただ、エッグヘッドを出て以降、時折思い詰めたような顔をするのだけは気になっていた。脱出間際に、ベガパンクとCP0の女と真剣な顔をして何やらしばらく話し込んでいたが、それが関係しているのだろうか。
「それともなんだ、マトモじゃない自覚でもあるのか」
「……いや」
 コックはうつ伏せから起き上がると、立てた片膝に気怠げに腕を乗せた。
 仰向けに転がったおれの視線と、見下ろしてくるコックの視線が交差する。
「ただ、自分じゃ気づかないこともあるかもしれないだろ。だから聞いてみただけだ」
 ごく自然な動作で、コックの目が微妙に逸らされた。
 それでわかった。コックは嘘をついている。
 既にもうマトモじゃなくなってきているのか、何か気になることがあったのかは知らないが、今ここでそれを問い詰める気にはならなかった。
 目の前にいるコックがマトモに見えるのならば、おれにとってそれが全てだ。
「そうかよ」
「変なこと聞いて悪かったな」
 話を切り上げたコックが、服と一緒に放り投げていたタバコの箱を手繰り寄せて一本咥える。すぐに手を伸ばし火をつける前のそれを抜き取ると、コックが睨みつけてきた。
「何しやがる」
「マトモかどうか、もう一度確かめてやろうと思ってな」
 抜き取ったタバコを適当に放り、コックの腕を引く。
「……バカじゃねえの」
 言葉とは裏腹に抵抗なく倒れ込んできた体を抱き止めると、つい今しがたの情事の名残を残し、まだやわく解れたままの場所へと手を伸ばした。

 

 *

 

 それからしばらくは何もなかった。
 正確に言えば、「コックの身には」だ。
 一方で、おれ達の航海は一つの区切りを迎えていた。
 目の前に立ち塞がる敵を倒し、歴史の本文ポーネグリフの導くままに進んで行った先で、おれ達はついにラフテルへと辿り着いた。
 ルフィは海賊王になり、おれは鷹の目を倒し世界一の大剣豪に。ウソップは正真正銘の勇敢なる海の戦士となり、ロビンとフランキーの夢も叶った。
 けれど、奇跡の海オールブルーはまだその尻尾さえも掴めておらず、ナミとチョッパーはまだ夢半ば。それに、ラブーンに会いに行くという約束もまだ果たせていない。
 結局誰一人船を降りることなく、おれ達十人を乗せたサニー号は更なる冒険へと旅立った。
 ラフテルを出てから少しして迎えた、コックの誕生日。
 誕生日当日は、皆の誕生日がそうであるように盛大な宴で飲めや歌えやの大騒ぎ。自分の誕生日の宴のために自ら腕を振るうコックは終始ご機嫌で、細々と動き回っては自分の作った料理を食べるおれ達を目を細めて眺めていた。
 それがコックにとっての何よりの幸福だと知っている仲間達は、「主役なんだから」と時折諌めはするものの基本的にはコックのやりたいようにさせ、「美味い」「美味しい」と賛辞の言葉をシャワーのように浴びせかけていた。
 それを受けてコックが、「クソ美味ェだろ」とニカリと笑う。
 特に変わったことのない、いつも通りのあたたかな風景だった。
 幸いと言うべきか、エッグヘッドを出て以降コックの体に新たな変化は起きていない。
 それもあって、あまりにいつも通りな風景を眺めながら、きっとこの先もずっとコックはコックのままで、つまりはおれがコックを殺す日が来ることはないのかもしれないと、そんな楽観的なことを考えていた。

 

 けれど誕生日を過ぎていくらか経った頃、そんなおれの考えを嘲笑うかのように、コックの体に新たな変化が起きた。

 

 まずは、目。
 コックの視力が異常によくなった。
 チョッパーが診察した結果、コックは常人の十倍の視力があることがわかった。どうやら錐体細胞というものが異常に多くなっているらしく、そのせいでよく見えるらしい。普通ならばそれだけ遠くが見えると近くを見る時に負担がかかり目を痛めやすいはずであるのに、コックの目にはその形跡がないのが不思議だとチョッパーがしきりに首をひねっていた。

 

 それから、耳。
 聴力が異常によくなった。
 イルカ並だと評されるほどのその聴力は、船の上にいながら海中の魚の群れを探し当て、おれ達の誰にも聞こえない音を正確に聞き取った。

 

 変化は時間をかけて少しずつ進んだ。
 耳の次は鼻で、嗅覚がチョッパーに引けを取らないくらいによくなった。
 それからしばらくして、毒への耐性も獲得した。
 厄介だったのは、その後に起きた変化だ。
 コックは、疲労と眠気を感じにくい体になった。
 もともと人一倍動き回り、睡眠もそう長い方ではなかったが、この変化が起きてからのコックは異常だった。眠れないせいで、戦闘があろうが嵐に遭遇しようが数日間は寝ずにひたすら活動し続ける。ただ、疲労を感じにくいとはいえ疲れが体に溜まらない訳ではないようで、日に日にやつれ顔色が悪くなったコックは限界を迎えるとぶっ倒れ、死んでしまったかのように昏々こんこんと眠った。それでも丸一日寝るなんてことはなく、六、七時間も眠るとすっかり回復して目を覚ました。
 幽霊のように生気のない顔をして動き回る様はまるで自傷行為のようで、その痛々しさに仲間達は心を痛め、なんとか寝かしつけようと様々な方法を試みた。
 ルフィはゴムの腕でぐるぐるに巻きついて無理やりベッドに寝かせ。
 ナミはコックを酔わせて寝かせようと酒に付き合い。
 ウソップは寝物語にと法螺話をいくつも聞かせ。
 チョッパーはありとあらゆる睡眠薬を試し。
 ロビンは安眠効果のあるハーブティーを淹れてやり。
 フランキーは「寝つきがスーパー良くなる枕」を作ってやり。
 ブルックはバイオリンで子守唄を奏で。
 ジンベエは海中に潜り、揺りかごのように船底を優しく揺らした。
 けれど、そのどれもがコックを寝かしつけるには至らず、ひどく申し訳なさそうな顔を向けるコックに仲間はさらに心を痛めた。
 他に手はないかとチョッパーやロビンが片っ端から文献にあたり、同じく医者であるローやくれはに何度となく相談したが、結果は同じだった。
 一方、おれはと言えば。
 体力が尽きるまでコックを抱き潰した。それくらいしか、おれに出来ることはなかった。
 しかし、体力を奪うという点では有用だったのか、抱き潰した後にはたいていコックはうつらうつらとうたた寝をした。タイミングが良ければ、そのまま熟睡することもあった。
 腕の中で薄い瞼を閉じたコックの青白い寝顔を眺めながら、何度ひっそりと安堵の息を吐いたかしれない。

 

 そしてコックの体に新たな変化が起き始めてから三年が過ぎた頃。
 ——コックは、味覚を失った。

 

 夜のことだった。
 日中ひどい嵐に巻き込まれ、その夜は皆疲れ切って早々に眠りについていた。
 キッチンには、朝食の仕込みをするコックと、酒を飲むおれの二人きり。
 おれは立ち働くコックを見るともなく見ながら、与えられたつまみを肴に酒瓶を傾けていた。
 切り分けた肉を調味料らしき液に漬け込み終えたコックが、今度は火にかけていた鍋の蓋を開ける。途端に、美味そうな匂いが湯気と共にふわりと漂った。
「スープか?」
「ああ。この辺の海域は冷え込むから、明日の朝はクリームスープにしようと思ってな」
 どれ、とコックが小皿に一口分のスープをすくい口をつける。こくりと白い喉に浮き出た喉仏が小さく上下し、そこでふいにコックの動きが止まった。
「?」
 どうかしたのかと視線を上にずらしたところで、思わずおれの動きも止まる。
 見上げた先で、コックの目が驚愕に大きく見開かれていた。その顔が徐々に色を失くし、人形のように固まったままの手からするりと小皿が滑り落ちる。実際には数秒にも満たない時間だったのだろうが、重力のままに床へと吸い込まれていく様がまるでスローモーションのようにひどくゆっくりと目に映った。
 ——バリン!
 鋭い音が耳を刺し、ハッと我に返る。床の上で小皿は粉々に砕け散っていた。
「おい、コック」
 呼びかけても、コックは茫然と虚空を見つめたまま微動だにしない。
「おい!」
 立ち上がり、カウンターから身を乗り出して肩を掴んで揺さぶると、ようやく焦点を結んだ目がこちらを見た。その顔はひどく青ざめている。
「あ? ああ……」
「『ああ』じゃねえよ、ひでえ顔色しやがって。一体どうした?」
「何って別に……うわ」
 そこでようやく小皿が割れていることに気づいたらしいコックが慌ててしゃがみ込もうとするのを、掴んだままの肩を押さえてとどめる。
「まだ話が終わってねェ」
「だから何もないって——」
「嘘をつくな」
 コックの体がわかりやすくビクリと揺れた。
「何もないこたァないだろう。明らかに動揺してやがんじゃねェか」
「……っ、」
 取り繕うだけの余裕もないのか、コックはあからさまに目を逸らし、青ざめたままの顔で唇を噛み締めた。いつも平然と嘘をつく男がこれほどまでに動揺するとは、余程のことがあったに違いない。それも、状況からしておそらくはコック自身に。
 ほんの数分前のことを思い出す。
 あれは、スープの味見をした直後だった。驚くほど不味かった、なんてことはコックの場合あり得ない。だとすれば?
 ここ数年続いているコックの体の変化が頭をぎる。視覚や聴覚、嗅覚。五感の変化。より優れていく能力と、欠落していくものと。そこから導かれること、それは——。
「もしかして……味覚か?」
 この時のコックの顔をなんと形容すればいいだろう。あらゆる負の感情をないまぜにしたようなその表情を見て、答えを聞かずとも、自分の出した答えが正しいのだとわかってしまった。
「……そうなんだな」
 コックの顔から少しずつ感情が抜け落ちてゆく。呆然とした眼差しだけを残し抜け殻のようになった頃に、ようやくコックは口を開いた。
「さっきまでは何ともなかったんだ……なのに。味が、しねェんだ」
「全くしないのか」
 こんな時でもどこまでも澄んで青い瞳を覗き込むようにすると、空っぽの表情のまま、視線だけがこちらに向けられた。
「砂を、噛んだみてェだった」
「もう一度確かめてみろ」
 肩を掴んでいた手を離し、倒れこまないのを確認してからカウンターを回り込んでコックの隣に立つ。点いたままのコンロの火を消すと、適当な皿を取り出してスープをすくった。その皿を、コックの目の前に突き出す。
「飲め」
 ぼんやりと皿に視線は向けるものの、コックは動こうとしない。
「ほら」
 焦れてもう一度皿を突き出すと、のろのろと上がった手がかろうじて皿を掴んだ。しかし、躊躇うようにしてそこで再び動きが止まる。仕方がないので皿を持つ手を上から握りこむようにして半ば無理やり口元へと持っていくと、そのままスープを流し込んだ。
「どうだ」
「……同じだ。味がしねェ」
「……そうか」
 空になった皿をコックの手から取り上げると、もう一度スープをすくった。それを、今度は自分の口に含む。熱くとろりとした液体が口内に広がり、ほどよい塩気とコク、それにほんのりとした甘みを味蕾が拾う。
「美味い」
 真っ直ぐに目を見てそう伝えると、コックの顔が一瞬にして張り詰めた。
「いつものテメェの味だ。美味い」
 コックがくしゃりと顔を歪ませる。それはすぐに何かを堪えるようなものへと変わり、そのままふいと俯いてしまった。さらりと垂れてきた金糸に覆われ、表情が見えなくなる。
 照明の光を弾いて明るさを増した金を、おれはただ黙って見つめた。
 コックであるこの男にとって、味覚がなくなるというのがどういうことか、わかるつもりだった。それはおそらく、剣士であるおれが刀を失う、あるいは刀を持てなくなることと同義だろう。
 自分の有り様に、魂に関わること。だからこそ、自分で乗り越えなければならない。
 同情や慰めの言葉をかけるのは簡単だ。けれどそんなものは何の役にも立たないし、コックも望んでなどいないだろう。そもそも、そんな甘ったれた関係など、初めからおれ達二人の間にはありはしない。
 つまるところ、今おれがコックにしてやれることは何もなかった。
 だからおれは、手にした皿をシンクに置いて水を張り、床の上に散らばる破片を片付けるべくほうきとちりとりを取ってきて床にしゃがみ込んだ。細かな破片が残らないよう、丁寧に破片を掃き集める。一ヶ所にまとめた破片をちりとりに入れようとしたところで、頭上からぽつりと言葉が降ってきた。
「覚悟はしてたんだ」
 意図的に感情を排除しているのか、平坦な声だった。
「五感に変化が起きてから、いつかこういう事も起こりうるんじゃないかって、ずっと考えてた。もちろん、そうならなきゃいいとは思ってたが、覚悟もしてた」
 だけど、とコックが続ける。
「いざその時が来たら動揺しちまった。情けないところを見せて、悪かったな」
 眉尻を下げ、申し訳なさそうにコックがかすかに笑った。
「んだよ、その顔」
 軽く息をつき、集めた破片はそのままに立ち上がる。
「え?」
「まあ、そんな顔ができるってことはまだてめェはマトモってことだな」
「こんなんで……マトモって言えんのかな、今のおれ」
「ああ」
「……そっか」
 軽い口調だったが、俯き加減のコックは何かを嚙み締めるような、そんな顔をしていた。
 それからふいに顔を上げると、一変してどこか吹っ切れたような表情でこちらを見た。
「なあ、みんなには言うなよ」
「黙っとくつもりか? 隠しきれねェぞ」
「ちゃんと言うさ。ただ、みんなにはおれの口から伝えたいんだ。だからゾロ、おまえは言うな」
「わかった。……で、テメェはどうするつもりなんだ」
「そうだなぁ」
 どこか遠い目をしてコックが言う。おれにはわかる。続く言葉はおそらく一つ。
「これじゃあメシが作れねェし、船を降りるよ」
 コックの放った言葉は、概ねおれの予想通りだった。
「降りてどうする」
「そんなん、オールブルーを探すに決まってんだろ」
「ルフィが認めるかわかんねェぞ」
「それでも、降りる」
 静かだが強い声だった。揺らぐことのないであろう決意。近いうちに必ずコックは船を降りる。きっと、ルフィでも止めることはできない。それならば——。
「なら、おれも降りる」
「はぁ!? なんでおまえが降りるんだよ。関係ねェだろ」
「関係ならある」
「ねェよ」
 どうやら本気でわかってないらしいコックをじろりと睨みつけた。
「テメェとの約束があるだろうが。だから、隣にいてマトモかどうか見張っといてやる」
「いや、だからってなにもおまえまで船を降りることは——」
「おい。テメェにとってあの約束はその程度のものなのか」
 コックがはっと息を呑む。
「おれは、そんな軽い気持ちで約束したつもりはねェ」
 睨みつけるおれと、目を見開いたコックと。二つの視線が真正面からぶつかり合う。睨み合いのような時間が続き、やがて、視線は逸らさないままにコックが口を開いた。
「違う」
「なら異論はないだろう」
「……そうだな。悪かった」
「悪いと思うなら、二度と中途半端なことを口にするな」
「ああ」
「……話はついたな」
 あとは頼む、と手にしたままの箒とちりとりをコックに押し付けると、残っていた酒とつまみを空にする。
「ご馳走さん。つまみ、美味かった」
 最後にそれだけ言いおくと、見張りに戻るべくキッチンを後にした。