天国だろうと、地獄だろうと

「ルフィ、話があるんだ」
 とある日の朝食の席でコックがそう切り出したのは、あの夜からしばらく経ってからのことだった。
「話ってなんだぁ? サンジ」
 相も変わらず旺盛な食欲で、はちきれんばかりに膨れた腹をさすりながらルフィが呑気に聞き返す。そんなルフィの目の前に立つと、コックはいつになく真面目な顔で姿勢を正した。コックの纏うどこか張り詰めた空気に、食後のティータイムを楽しんでいた他のクルー達も何事かと二人に視線を向ける。
船長キャプテン、おれに船を降りる許可をくれ」
 途端にテーブルのあちこちから上がった驚きの声を手のひら一つで黙らせると、ルフィは顔から笑みを消してコックを見上げた。
「理由は?」
 ルフィにそう問われ、コックが躊躇うように目を伏せる。けれど、すぐ意を決したように顔を上げると皆の方に向き直った。
「ルフィ、それにみんなに言わないといけないことがある。実は……少し前から味覚がなくなっちまったんだ」
 そんな、とナミが短く悲鳴をあげる。周りを見れば、程度の差こそあれ皆それぞれに動揺が顔に表れていた。表情ひとつ変わらないのはルフィだけだ。
「ほ、本当なのかよ、サンジ」
「ああ、本当だ」
「少し前って……おれ、医者なのに全然気づけなかった……」
「チョッパー、おまえは悪くないさ。黙って隠してたおれが悪い。ごめんな」
「味がわからないというのはどの程度なの? サンジの作るご飯はいつも通り美味しかったけれど」
「ロビンちゃん、ありがとう。味は全然わからない——何を食べても味がしないんだ。レシピ通りに作ったからそれなりにいつもの味を再現できたんだと思う。それに……」
 そこでコックはチラリとおれの方に視線を寄越した。
「あら。ゾロがどうかしたの」
 目敏くそれに気づいたらしいロビンが興味深げに問う。
「ゾロに、その……味見してもらってたんだ」
 ルフィとコック以外、全員が一斉にこちらを振り返った。
「なんだよ」
「ゾロさんは知っていらっしゃったんですね」
 味見をしていた、その言葉の意味をブルックは正しく理解したらしい。相変わらず察しの良い男だ。
「ああ。成り行きでな」
「知ってたならどうしてすぐ言わなかったのよ!」
 ナミの咎めるような声が響いた。すぐにヒステリーを起こすところは相変わらずだ。心の中でそう独りごち、目尻を吊り上げたナミに向かって溜息と共に言葉を吐き出した。
「コックが言わねえのにおれが勝手に話す道理はねェよ」
「そうかもしれないけど、でも!」
「いいんだ、ナミさん」
 さらに言い募ろうとするナミを、コックの静かな声が遮った。
「おれがゾロに頼んだんだ。みんなには言わないでくれって」
「どうしてそんなこと——」
「大事なことだから、ちゃんと自分の口からみんなに伝えたかったんだ。——言うのが遅くなってごめん」
「謝るくらいならもっと早く言いなさいよ……ばか」
「うん、ごめんね。ナミさん」
 繰り返される謝罪の言葉にナミが唇を噛み締める。
 ナミの気持ちもわからないでもなかった。これまでの航海を経て多少は人に頼ることを覚えたコックではあるが、こんな大事なことを相談すらしてもらえなかったのだから、ナミの悔しさや遣る瀬無さは押して知るべしだ。
「ところでよォ、一度なくなった味覚ってのはもう戻らねェのか?」
 静まり返った空気を破ったのはフランキーだった。
「そ、そうだ! おれ調べてみるよ。何か治療法が見つかるかもしれない」
「確かにそうね。私も文献をあたってみましょうか」
 見るからにしょぼくれていたチョッパーがやにわに活気を取り戻し、それを後押しするようにロビンが言葉を繋ぐ。そういえば治る可能性があるのかどうかは確認していなかったと耳に意識を集中させたところで、それまで黙り込んでいたルフィがおもむろに口を開いた。
「で、治るのか? サンジ」
 皆の視線が再びコックに集中する。
「あー……」
 言い淀みつつ、胸ポケットのあたりで彷徨わせた手を誤魔化すようにさらに上へと持ち上げて、コックはガシガシと頭を掻いた。金色の髪が空気を孕んでわずかに乱れる。
「水を差すみたいで言いにくいんだけどよ……一度失った味覚は、もう二度と戻らねェと思う」
「なんでそんなこと言うんだよ! まだ調べてもないのにわかんねェだろ!」
 半泣きになって食ってかかるチョッパーの肩にふわりと手が咲く。ロビンだ。咲かせた手で宥めるように背中を撫でてやっていると、チョッパーの隣に座っていたジンベエが水色のふかふかの帽子の上にぽんと手を置き、それからコックの方を見た。
「断定するような口調じゃが、何か心当たりでもあるのか?」
 コックはすぐには答えず、今度は迷いなく胸ポケットへと手を伸ばすと煙草を一本取り出して口に咥えた。キンと短く澄んだ音が響き、次いでシュッという摩擦音が耳に届く。わずかに俯けた顔の口元を覆う手が離れると、ふわりと嗅ぎ慣れた匂いが広がった。皆が固唾を飲んで見守る中、その薄い唇から細く長く紫煙が吐き出される。
「みんなも知っての通りだが」
 たっぷりと時間をかけて煙を全て吐き出すと、ようやくコックが口を開いた。
「おれの体には少しずつ異変が起こってる。そして、そのどれもが今のところ治る気配はない。眠れなくなったのだって、みんながあれだけ調べてあらゆる手を尽くしてくれたのに良くならないままだ」
 そこでもう一度コックが煙草を吸った。チリとオレンジ色の火が灯り、その部分が灰に変わっていく。
「おれの体の変化は、おそらく血統因子ってやつが原因だ。つまりは科学の分野だな。——数年前、体の変化が起こり始めてすぐの頃に、おれはエッグヘッドでベガパンクに聞いた。変化を止めることができるのか、ってな。その質問にベガパンクはこう答えた。『いわば時限爆弾みたいなもんじゃな。スイッチが入らなければ何も起こらない。じゃが、スイッチが入る、つまり血統因子が一度発現してしまえばもうどうすることもできんのじゃ。変化が一気に進むのか、時間をかけてじわじわと進むのかはケースバイケースじゃが、いずれにせよ変化は進みこそすれ戻りも止まりもしない』ってな」
 ゆっくりと、コックが煙草を吸った。長くなった灰が、重さに耐えきれずポトリと床に落ちる。
「スイッチは入っちまった。だからもう、どうすることもできない」
 でも、と声を上げたチョッパーをコックが手で制する。
「もちろん、おれも自分で可能な限り調べたさ。でもベガパンクの言う通り、今のところ打つ手はないみてェだ。もしかするとこの先何かいい方法が見つかるかもしれねェけど、それまでの間、味覚のない状態でこの船の食事の責任を負うことはできない。おれはこの船のコックだ。コックとしての役割を果たすことができないなら、おれは船を降りる」
 こいつがコックという仕事に対してどれだけ誇りを持っているか、この船に乗る誰もが知っている。だからこそ、それ以上誰も何も言うことはできなかった。——この船の船長である、ルフィを除いて。
「諦めるわけじゃないんだな?」
 ただ一人、言葉を発したルフィの問いにコックは小さく頷いた。
「ああ。まだ可能性はゼロと決まったわけじゃない。何か方法はないか探し続けるつもりだ」
「オールブルーは」
「もちろん探すさ。おれの夢だからな」
 そこでようやく、ルフィはニカリと笑った。
「それならいい。船、降りていいぞ」
「……ありがとう、船長キャプテン
 噛み締めるように言う声を聞きながら、おれは立ち上がりコックの横へと並び立った。
「話はついたみてェだな。——ルフィ、おれもコックと一緒に船を降りる」
「あ? なんでゾロも降りるんだ?」
 ある意味当然の疑問をルフィが投げかける。
「そうよ、なんであんたまで降りるとか言いだすのよ」
「ええ、ゾロまで降りちまうのか!?」
「これはまた突然ですねえ」
「おいおいおい、マジかよゾロ〜。冗談だろ?」
 他にもあれこれとかけられる声を適当に聞き流しながら、おれは真っ向からルフィを見据えた。
「こいつと、約束をした。その約束を守るにはおれも船を降りなきゃならねェ」
「……それは大事な約束なのか」
「ああ」
 視線がぶつかり合う。と、ふいにルフィが破顔した。
「そっか。ならいいぞ」
「ちょっと、ルフィ!」
「何だよナミ」
「サンジ君だけじゃなくてゾロも船を降りるだなんて、そんな大事なこと、こんな簡単に決めないでよ!」
「でももう決めたんだ」
「決めたって……あのね、二人が抜けるってことは、戦闘力が大幅にダウンするってことなのよ」
「大丈夫、おれ強えし。それにみんなも十分強えだろ」
 ニシシ、とルフィが笑う。
「いやいやいやそれほどでも……ってちがーう! いや違くないけど!! 仮に戦闘面での穴は何とかなるとしても、問題は食事だわ。サンジ君が船を降りるなら何か対策を練らないと」
「そのことなんだけど、ナミさん」
 それまで黙ってやり取りを眺めていたコックが口を開いた。
「傘下の船のコックで腕も度胸もある奴を一人鍛えといた。ルフィさえ良ければいつでもこの船のコックとして働けるはずだ。他にも何人か目をかけてた奴もいるし、一人で回らないようならそいつらにも声かけてくれ。それに、食材の保存方法や加工法、レシピなんかを書いたノートがあるから、それも役に立つと思う」
「……呆れた」
 ナミが大きく溜息をついた。
「大事なこと言うのが遅いと思ったら、隠れてそんなことしてたのね。一人で何とかしようとしないで、みんなに相談してくれればよかったのに」
「でも、これはおれの仕事だから」
 ナミの目にどこか寂しげな色が滲む。
「そう……まあいいわ。二人が抜けてもこの船は何とかなるってことね。それで? いつ頃船を降りるかは決めてるの?」
「具体的には決めてないけど、仕事の引き継ぎが出来次第早めに降りようとは思ってる」
「わかったわ。じゃあ私はあんた達が降りても問題なさそうな島を探して連れてってあげる。それくらいはさせてもらうわよ——いいでしょ、ルフィ」
「おう。問題ねェぞ」
「アーウ! そしたらおれは小型船を作ってやるぜ。この先足が必要だろ?」
「ああそうだな。頼むよ、フランキー」
「スーパー任せろ!!」
「じゃあおれは救急道具持たせてやるからな」
「おれ様の素晴らしい発明品も持ってけよ!」
 次々に温かな言葉をかけられる中、コックがふいに下を向いた。
「みんな、ごめん……ありがとう」
 小さく、掠れた声だった。
「あら。謝る必要はないわ、サンジ」
 ロビンがにっこりと、でも見えない圧を感じる笑顔を向ける。
「そうですよ。さあ、顔を上げてください」
「私達にできることはこれくらいしかないんだから。こういう時は大人しく甘えとけばいいのよ」
「おまえさんにはいつも世話になってばかりじゃからのう」
「でも……」
「おいコック、柄にもなくしおらしくしてんじゃねェよ。気持ち悪ィ。いつものデカい態度はどうした」
「ああん!? 態度がデカいのはテメェの方だろクソマリモ!」
 いつまでもうじうじした様子なのが気に入らなくてつい喧嘩を売ると、いとも簡単に挑発に乗ったコックがチンピラよろしく睨みつけてきた。その反応が久しぶりな気がして、思わず口角が緩む。
「そりゃテメェの方だろクソコック」
「ああん!? やんのかコラ」
「上等だ」
「いい加減にして!」
 額をグリグリと突き合わせて睨み合い、互いに刀と足が出そうになったところで脳天にナミの天候棒クリマ・タクトが降ってきた。
「ったく、そんなんでこの先二人でやっていけるのかしら。——とにかく、これからの動きを相談しましょう」
「そんなことより、まずは宴だ、宴!」
「アホかー!!」
 ナミの天候棒が、今度はルフィの頭に思い切り振り下ろされた。

 

 それから約一ヶ月後。海軍の手の届かない、とある島で。
 仲間達からたくさんの餞別の品と共に送り出され、おれとコックは船を降りた。