――まただ。
最近になって、夜だけあのクソコックからほのかに花のような匂いがする。
酒でも一本拝借しようとキッチンに足を踏み入れたゾロは、ふと鼻を掠めたかすかな匂いに顔を顰めた。
ちょうど洗い物が全て終わったところのようで、サンジが何かを手に塗っている。鼻歌を歌いながら口元はわずかに綻んでおり、どうやら機嫌がいいようだ。
「おいクソコック」
「お、なんだ。酒か？」
顔を上げ、視線をゾロに寄越す。
「あー、そうだが……てめェ、その匂いは何だ？」
「ああ、これか？これはな～、ナミさんとロビンちゃんが水仕事でおれの手が荒れてるからってハンドクリームをくださったんだ！リラックス効果のあるカモミールの匂いを選んでくれたんだそうだ。二人ともなんてお優しいんだぁぁ～～～！」
ハートを振りまきメロリンと体をくねらすサンジを心底呆れたように眺め、アホかと呟く。
「でもてめェ、夜しかその匂いしてねェだろ」
「料理に匂いが移ったらいけねェから、朝の仕込みが終わった時だけありがたく使わせてもらってんだ。しかし、おまえみたいな鈍感野郎でも嗅覚だけは動物並みだな。さすが魔獣なだけある」
「誰が動物だ！」
唸りながらも、ああ、こいつのこういうところだ、と思う。
料理人としてのプライド、心遣い。
普段はとんでもないアホだが、ひとたび料理のこととなると真摯に向き合うサンジに、ゾロは密かに一目置いているのだ。
そんなこと、絶対口に出しては言わないが。
「ほらよ、酒だ。つまみもすぐ準備するからちょっと待っとけ」
そう言って酒瓶を手渡された瞬間、またふわりと香る、花の匂い。
なぜか胸の内がざわりとする。
頭で考えるより先に、言葉が口をついて出ていた。
「……気に入らねェ」
「あぁん？この酒じゃ満足できねェってか！？」
「ちげェよ。その匂いのせいで、いつものてめェの匂いがしないのが気にくわねェ」
瞬間、サンジの動きが止まる。
こぼれんばかりに目を見開き、咥えていたタバコが床にぽとりと落ちたことにも気づいていない。
仕方ないので足で踏み消してやっても、アホみたいに口を半開きにしたまま固まって動かない。
見開いた目には、碧色の瞳。
あの海みたいな瞳は悪くねェな、なんて思い、悪くねェってなんだと脳内で自分にツッコミを入れていると、ようやく我に返ったらしいサンジが動きを取り戻した。
「あー、うん、マリモ君。意味分かって言ってるか？」
「あ？意味って何だ」
「おいおい、自覚なしかよ……悪ィ、今のは忘れてくれ。ま、藻類かつ魔獣のおまえが人間様の思考を理解できるようになれば教えてやらんこともないがな」
にやんと笑う、好戦的な瞳がゾロを捉える。
ああ、この瞳はいい、ゾクゾクする。知らず高揚する気持ちにニヤリと悪い笑みを浮かべる。
「ハッ、アホ眉毛の思考回路は理解不能だが、売られた喧嘩を買わない理由はねェなあ？」
「いいぜ、勝負してやらァ。あとで吠え面かくなよ、マリモちゃん」
「こんの、クソコック！！」
鯉口を切り、サンジに飛びかかる。
時間をわきまえない喧嘩に航海士の雷が落ちるまで、あと少し。
魔獣が不機嫌の正体に気づくまで、まだもう少し。