不可侵領域

 おれが人と関わりを持つときにまずすること。
 それは、相手との距離感をはかること。
 距離感というのは、いわゆるパーソナルスペースというやつだ。
 複雑な生い立ちのせいで幼い頃から大人の中で暮らしていたおれは、働いているとはいっても、大人の庇護がなければ生きていけない無力な子供《ガキ》だった。
 疎まれればそこでは生きていけなくなる。
 だから、相手を不快にさせない距離を把握することに細心の注意を払っていた。
 口の悪さ故にせっかくのそれを台無しにすることもあったが、相手のテリトリーの外にいさえすれば、案外大目に見てもらえるものだ。

 この船に乗ることにした時も、それから仲間が少しずつ増えていった時も、おれはやっぱり、まず最初にクルーそれぞれとの距離感をはかった。
 ルフィは距離感ゼロ。相手のパーソナルスペースなんてお構いなしに平気でくっついてくる。でも不思議と嫌じゃない。
 ウソップ、チョッパー、あとはフランキーなんかもわりと近付いて大丈夫。
 ナミさんとロビンちゃんには許されるものならどこまでも近付きたいけど、これ以上はダメという距離はちゃんと守る。これまでの経緯もあるのか、ナミさんよりはロビンちゃんの方がパーソナルスペースは広めだ。
 ブルックは、多分おれと一緒で相手との距離感を気にしてる。だからブルックといるとすごく心地いい。ジンベエもブルックと同じ感じだけど、ジンベエ自身はよくみんなにくっつかれても頓着してないみたいだから、パーソナルスペースは意外と狭いのかもしれない。
 ……そして、ゾロ。最初に会った時から気に食わなくて、それはゾロも同じだったと思う。なんせ魔獣と呼ばれる野生の獣のような男だ。ゾロの場合はパーソナルスペースというよりも、縄張りとか、不可侵領域という言葉の方がしっくりくる。
 そんなだから、気に食わない人間がその領域内に入ることは絶対に許さないだろうと踏んで、おれは喧嘩の時もそうじゃない時も、必要以上にゾロに近付かないように気をつけた。

 それなのに——。

 ある時、いつものように喧嘩をしていたら、突然ゾロがおれのおでこに自分のおでこをグリグリと擦り付けてきたのだ。
 いやいやいや、ちょっと待て。なんでこいつは自分から縄張りを飛び越えてゼロ距離まで近付いてきた?おれのこと嫌いなんじゃなかったのか?だってこれじゃあ、マーキングみたいだ。動物が、これは自分のものだとアピールするあの……。
 そこまで考えて、バッとゾロから離れた。
 有り得ない。だってゾロはおれのことを嫌いなはずだ。たまたま勢い余ってぶつかってしまっただけだろう、そう結論づけて「やめだやめだ」と背を向け一方的に喧嘩を中断する。去り際にチラリと窺い見たゾロは不満そうな顔をしていたが、きっと喧嘩が不完全燃焼に終わったのが気に食わなかったに違いない。

 でもそれからも。ゾロは些細なことで突っかかってきては、喧嘩中におでこをグリグリと擦り付けてきた。もしかすると意外とスキンシップが好きなやつなのかもしれないとそれとなく他のクルーといる様子を観察してみたが、ゾロが自分からここまで接触する相手はおれ以外にいなかった。
 嫌われていると思っていたが、もしかして自分はゾロにとって特別な存在なのだろうか。幾度となくそんな勘違いをしてしまいそうになる。
 だって、おでこをグリグリ擦り付けながら「あぁん!?」と極悪なツラで睨んでくるくせに、どことなく楽しそうなのだ。もしゾロに尻尾があれば、犬みたいにブンブン振っていそうな、そんな感じ。
 そしておれ自身、気に食わない相手のはずなのに、初めておでこを擦り付けられた時から一度だってそれを嫌だと思ったことがないという事実に気付いてしまった。それどころか、回数を重ねるうちにゾロからされるのを待つだけじゃ物足りなくなって、自分からもわざと突っかかってはグリグリとおでこを擦り付けるようになってしまったのだ。
 この気持ちは一体なんだ?
 どうしておれ達は、互いに境界線を踏み越え、相手が自分の領域に入ってくることを許しているのだろう。
 その答えはわからないままに、傍から見ればスキンシップにしか見えないそれは続いた。

 ——グリグリ、グリグリ。
 いつしか、おでこを擦り付けながらゾロがおれの眉毛や申し訳程度に生えた髭、髪の毛なんかに触れるようになった。
 ——グリグリ、グリグリ。
 おれも、閉ざされてしまった左目、スッと通った鼻筋、サクサクして芝生みたいな髪なんかに触れてみた。拒絶されるかと思ったが、ゾロは黙っておれの好きにさせていた。
 ——グリグリ、グリグリ。
 まるでマーキングのような、喧嘩という名のじゃれあいを続けるうち、おれはこの行為の奥底にある自分の気持ちを知ってしまった。手に入れたくて、触れたくて、二人の間にある境界線なんて取っ払ってしまいたいと思う、ゾロだけに感じる特別な感情。
 でもゾロは?きっと本能で動いてるだけで、奥底にある感情なんて気づいていないだろう。万が一気付いていたとしても、ゾロのそれはおれと同じようなものではないかもしれない。

 自分だけに許された特別な触れ合いを今更手放すことなんて出来なかった。だから邪魔になるかもしれないこの気持ちを再び仕舞って鍵をかけておこう、そう決めた矢先。
 いつものようにしょうもない事で喧嘩をして、グリグリとおでこを擦り付けあっていたら、ゾロがおれの髭を触った。ここまでは最近ではよくある事だ。だが、その次が問題だった。髭を触っていた指が唇をするりと撫で、不意におでこが離れるとぺろりと唇を舐められる。突然のことに呆気に取られていたら、今度はがぶりと噛みつくようなキスをして、何かに納得したような顔をしてゾロが言った。
「なんだ、おれはずっとてめェが欲しかったのか」
「……は?」
「今ので分かった。なあコック、おれにてめェの全部をよこせ」
 ああ、やっぱりこいつは獣だ。本能に忠実。思考は後からついてくる。まあおれも似たようなものかもしれないけど。
 おれは返事の代わりにグリグリとおでこを擦り付る。おまえこそおれに全部よこせとでも言うように。そうしたらゾロも応えるようにおでこを擦り付けてきて、おれ達は二人して笑った。