聖なる夜にピアノの魔法を

 今日はクリスマス・イヴ。
 ここはサンタクルス島という冬島で、大きなツリーやキラキラとまるで宝石のように街を彩るイルミネーションで島全体がクリスマスムード一色に染まっていた。市場にはご馳走が溢れ、往来はカップルや家族連れでごった返している。
 ちょうどそんなクリスマスの時期にこの島に滞在中だった麦わらの一味は、船長の「クリスマスの宴するぞ!」の一言でクリスマスパーティーを開くことになった。会場はどこにするか、いつものごとくサニー号かとみんなで頭を突き合わせて相談していたら、「あのう」とブルックが手を挙げた。
「なあにブルック」
 場を仕切っていたナミがブルックに尋ねる。
「さっき街を歩いていて見つけたんですが、立派なグランドピアノ付きのミニホールが一万ベリーで一日レンタルできるみたいです。しかも、キッチンまである!」
「何っ、ピアノがあるのか!?じゃあそこで決まりだ!ブルックのピアノ久しぶりだなぁ」
「すっごく安いじゃない!しかもキッチンまでついてるなら文句なしだわ。そこに決めましょ」
 船長であるルフィと、この船の財布を握るナミが決まりと言えばそれは決定事項だ。早速ミニホールを借りるべく連絡をし、明日の準備の段取りについて大まかに決めたらその日は解散となった。

 

 翌日。夕方からのパーティーに向けてクルーそれぞれが準備に勤しんでいた。ナミから渡された予算でパーティー用の買い出しを済ませ、会場に備え付けられたキッチンで料理の下拵えをあらかた終えたサンジは、休憩も兼ねてミニホールでピアノの調律をしているブルックの元へと足を向けた。
「すげえな、ピアノの中ってこうなってるのか」
 火のついていない煙草を咥えてピコピコと上下に揺らしながらサンジがブルックの手元を覗き込む。
「サンジさんはピアノの中を見るのは初めてですか?」
「ああ、小さい時にピアノは習わされてたけど、中を見たことはなかったなあ」
「もしかして、それでですか」
 それ、と火のついていない煙草をどこかピアノの鍵に似た白骨の指で指され、サンジはいいや、と罰の悪そうな笑みを浮かべた。
「ジジイ……あ、おれの育ての親がさ、見た目に似合わずピアノが好きで時々有名なピアニストを呼んでレストランでディナーショーを開いてたんだ。そういう時だけピアノをレンタルしてフロアに運び入れてたんだが、おれがフロアで煙草吸ったら『借り物のピアノをヤニと臭いでダメにする気か!』って思いきり蹴り飛ばされた。それからだな、ピアノのあるところで煙草吸わなくなったのは」
「そうでしたか」
 喋りながらも、ブルックはポーン、ポーンと鍵盤を鳴らしながらチューニングハンマーで弦の張りを調整して音を合わせていく。
「すごいですよね、ピアノって。ハンマーが弦を叩く、そんな単純な仕組みなのに、これだけたくさんの音を奏でることができる。さらに調律次第で音の明るさや柔らかさ、響きなんかも違ってくる。まるで魔法ですね。その方も、ピアノのそんな所に惹かれたのでしょうか」
「さあ、どうなんだろうな。でも、魔法っていうのはなんか分かる気がする。ブルックが弾いてるのを聞くと映像が目に浮かぶっていうか、自分がその曲の世界に入り込んだような気がするんだよな。やっぱすごいよ、おまえ」
 ヨホホ、と骨ゆえに表情のない、でももし肉体があればとても優しい眼差しをしているであろう眼窩でサンジを見て、ブルックは笑った。
「サンジさん、ありがとうございます。でもね、ピアノで魔法をかけられるのは何も私だけじゃないんです。ピアノは弾く人の心を映す鏡でもあるから。心を開きさえすれば、サンジさん。あなたにだって魔法を使うことは可能なんですよ」
「……おれでも?」
「もちろん。そうだ、昔習っていたのだし、クリスマスパーティーでサンジさんもぜひ一曲弾きましょうよ!」
「いやいやいや無理だって!昔のことすぎて曲も弾き方もなんも覚えてねえもん」
「大丈夫、こういうのは体が覚えてますから。ほら、ちょうど調律も終わりましたから、せっかくだし少し弾いてみるだけでも」
 なんでおれが……とぶつくさ文句を言いながらも、半ば強引に座らされてサンジはピアノと向き合った。しかし踏ん切りがつかないのか、両腕を下ろしたまま座って動こうとしない。そんなサンジを「ほら」とブルックが優しく促すと、ため息を一つついてからのろのろと右手を持ち上げた。
 初めてピアノに触れる子供のように、人差し指一本でド、ド、と拙く鍵盤を鳴らして有名な童謡のメロディをゆっくりとなぞっていく。その曲が終わると、ノースで子供達に歌われるクリスマスソングを同じく人差し指一本で二曲奏でた。一曲目より二曲目、二曲目より三曲目と少しずつ滑らかになっていくメロディ。
「なんかちょっと思い出してきた、かも」
「そうでしょう」
 体が覚えているというのもあながち嘘ではないのか、弾いているうちに指一本から片手、片手から両手と自然と体が動き出す。もうとっくに楽譜なんて忘れていると思ったのに、指が勝手に動いて次々とメロディを奏でていくのが不思議だった。
 ひとしきり弾き終えた時、パチパチという拍手の音が耳に飛び込んできてサンジはふと我に返った。
「素晴らしいです、サンジさん。一曲と言わず、是非ともパーティーで演奏を披露していただきたい」
「いや、でも」
「サンジさんが演奏してくだされば、皆さんきっとすごく喜ばれますよ」
 ブルックが狙ってそう言ったのかどうかは定かではないが、与えることを信条とする男がその言葉を無碍にすることができる訳もなく。
「……じゃあ、一曲だけなら」
「ヨホホ!決まりですね。演奏するのはどの曲にされますか」
 そう問われ、無難にクリスマスソングにでもしようかと考えていた頭の中にふとある曲が浮かんだ。指が動くままに音を紡いで奏でるのはどこかもの悲しく、胸の内を掻きむしられるようなメロディ。
「この曲は……」
「あー、ガキの頃よく弾いてた曲だ。いま急に思い出した」
「サンジさんが弾いたのは子供向けにアレンジしたものですね。私もこの曲は存じておりますが、元は美しい旋律からなる曲で、出会いや別れを連想させるなんて言われていたりもしています」
「そうだったのか。どうりでガキの頃にこの曲弾くたびにレディの泣いてる姿が思い浮かんでた訳だ。子供心にスゲー印象に残ってた」
「……魔法」
 ブルックが口の中で小さく囁く。
「ん?何か言ったか?」
「いいえ、なんでもありません。ねえサンジさん、この曲を弾かれてはいかがでしょう」
「そうだなぁ。あんまりパーティーって感じじゃないが、この曲わりと好きだったしなんとか弾けそうだからそうすっか。なあブルック、後で少し練習付き合ってくれ」
「もちろん、喜んで」
 流石と言うべきか、ブルックはピアノを弾くだけではなく教えるのも上手で、会場の飾り付け組が来るまでの数時間でサンジはなんとか人前で弾けるレベルにまで仕上げることができたのだった。

 

「レディース・アーンド・ジェントルメン、今夜は麦わら海賊団のクリスマスパーティーだ!なんと、超豪華なことにソウルキングのピアノ・リサイタルもあるからな、みんな盛り上がってこうぜ〜!!」
「メリクリだぜ、ス〜〜パ〜〜!!」
「イェ〜イ!」
 ウソップとフランキーの号令で始まったクリスマスパーティーは飲めや食えやの大騒ぎ。コックであるサンジは、主に底なし沼の胃袋を持つルフィのせいであっという間に空になる皿を回収しては次の料理を運び、その合間に女神二人におしゃれなカクテルをサーブしてはドレスアップしたその姿にデレデレと鼻の下を伸ばし、とキッチンとホールを何往復もしながらコマネズミのように働いていた。
 皆のお腹があらかた満たされた頃に、ブルックことソウルキングのピアノ・リサイタルが始まった。一緒に歌える定番クリスマスソングや大人の雰囲気漂うジャズ、思わず踊り出したくなる(実際何人かは踊っていた)ダンスチューンなど、ソウルキングの名に違わず魂を底から揺さぶるような名演奏の数々が続く。
 盛り上がり浮かれた熱をしっとりとしたバラードで静かに宥めて落ち着いた空気へと変えると、ブルックは立ち上がりマイクを取った。
「なんと今日は、スペシャルゲストがおられます。——我らがコック、サンジさんです!皆さんの前で初めて披露される貴重な演奏、耳の穴かっぽじってよーく聞け、だぜ」
 クルーの間にどよめきが広がる中、照れ故かやや怒ったような顔に見えるサンジがピアノへと歩み寄り、椅子の前に立った。
「ブランクも長いし下手くそだからな。期待せずに聞いてくれ」
 それだけ言うと椅子に座り、軽く息を整えるとそっと指を鍵盤に走らせた。
 照明を浴びて輝く金の髪に、黒いスーツの袖から出る白く形の良い手、柔らかさを感じる優雅な指の動き。
 背中にはどことなく儚さが漂い、まるで宗教画を見ているようなその姿に皆が知らずに見惚れる。本人は決して認めないだろうが、緑髪の剣士も例外ではなく視線を奪われていた。
 細く長い指から生み出される、胸を打つ音の連なり。
「あれ、どうして……私泣いてる」
 頬を流れる冷たさに気付いたナミが困惑して小さく呟いた。
「うまく言えないけれど、胸を締め付けられるってこういうことかしら」
 そう言うロビンの目尻にもきらりと光るものが見える。
 フランキーは手で顔を覆って静かに男泣きしているし、お子様トリオも何か感じるものがあるのか神妙な顔をして演奏に聞き入っていた。
(胸が痛ェ)
 ゾロはといえば、先ほどから心の奥底を鋭利な刃物で抉るような痛みに顔を顰めていた。
(なんだこれ……まるで、ヤった後のコックの顔を見た時みたいな)
 そこまで考えて、ああそうだと自覚する。
 いつだったか、誘われるままに深く考えもせずに体を重ねて以降、特に不都合もないので体だけの関係が続いていた。格納庫で、展望室で、上陸した時の宿で。場所は様々だったが、どこであろうとどんな抱き方をしようと、コトを終えた後に煙草をふかすコックの何かを諦めたような、静かに拒絶するような表情に、いつからかかすかな痛みと苛立ちを感じるようになっていたのだった。
 数を重ねるごとに強くなる痛みと、いま感じる胸の痛みは同じだ。
(わからねェ。この痛みはおれのか?それとも、あいつの——)
 わからない、何もかも。
 どうにかしないといけない気はするのに、どうすればいいのか皆目見当がつかず募る苛立ちにゾロは眉間の皺を深くする。

(ああそうか)
 ピアノを弾きながら、サンジは頭に流れ込んでくる映像の中にいる自分を眺めていた。
(泣いてるのは、レディじゃなくておれなのか)
 傷ついて、誰にも見えないところで静かに泣いているのは自分だ。
 サンジはゾロのことが好きだった。
 直球でその思いをぶつけても成就するとはとても思えず、かといって胸の内に秘めておくこともできずに、体だけの関係を持ちかけるという苦肉の策に出たのだ。
 自分でもあの時は血迷っていたと思う。
 断られる可能性の方が大きいだろうと踏んでいたのに、何を思ったかゾロはその提案を受け入れた。そして自分の体は思った以上に具合が良かったのか、その後も体の関係は続いている。
 最初は良かった。歪な形でも、ゾロに必要とされることで満たされるものはあった。
 けれどそんなのは最初だけだ。体だけは馴染んでも、好意を向けられるどころかきっと自分に対してなんの感情も抱いていないのだろうと思うようなゾロの態度に日に日に苦しみは増していった。
 けれど、虚しさしか生まない関わりでも、ほんのひと時でもゾロの肌に触れて熱を感じ、必要とされていると錯覚する時間を自分から手放すことなんてできなかった。
 だから見ないふりをした。痛む心を閉じ込めた。
 それを、この曲が気付かせてくれたのだ。
(ずっと目を背けててごめん)
 あれほど認めるのが怖かったのに、いざ認めてしまえば不思議と感じるのは諦めや絶望ではなかった。外から見るから見えてくるものもある。
(これも魔法ってやつか?……なあ、おまえはどうしたい?)
 もちろんまだ怖さはある。でも、どこか清々しい気持ちでサンジは静かに涙を流す自分に声をかける。

(ヨホホ、若いっていいですね)
 ブルックも、サンジの演奏を聞きながら静かに眼窩を拭っていた。
(まあ、ガイコツだから私、涙なんて出ないんですけど!)
 練習に付き合っている時は、ただひたすらに胸を締め付けるような悲しみや虚しさだけが流れ込んできて、泣いているサンジの後ろ姿にどうしてあげることもできなくて、この曲を弾くように勧めたことは間違いだったのではないかと後悔した。
 けれども、涙を流すサンジが時折ほんのわずかブルックの方を振り向くたびに、やっぱり他の曲にしましょうという言葉を飲み込んだ。
 きっと、このサンジさんは泣いていることに気付いてもらいたがってる。
 そしてサンジさんには、気付いてあげられる力がきっとある。
 だからブルックは、練習の中でピアノの音に無言のメッセージを乗せてサンジの無意識の部分に呼びかけ続けた。
(でもこの演奏を聞いて確信しました。もうきっと大丈夫)
 ブルックの目に映るのは、泣き止んでおずおずと顔を上げるもう一人のサンジの姿。
 眉間に皺を寄せて睨みつけるような剣士の顔を見るにまだもう少し擦った揉んだはありそうだが、彼とてきっと自分でまだ気付いていないだけなのだから。
(伊達に長生きしてませんからね。しかしやっぱり、若いっていいですねえ)
 ヨホホ、とブルックは小さく笑った。