優しい手

 酒をもらおうとキッチンに行くと、珍しく機嫌の良いコックに出迎えられた。
「ちょうどよかった、試作品できたから食ってかねェ?」
 とっときの酒もあると言われればおれに断る理由はなく、大人しく席につく。
 コックは小ぶりのグラスを二つと酒瓶を持って来ると、自分も席についた。トン、と机の上に置かれた酒瓶を見て思わず相好が崩れる。
「おっ、米の酒じゃねェか」
「前の島で見つけたんだ。おまえが好きそうな、スッキリした辛口」
 注がれた酒を一口含んでみるとコクがありながらも後味のキレはよく、たしかに非常におれ好みだ。
「うめェ」
 思わず唸り、グラスに残った酒を一気に流し込む。
「ったく。ちったあ味わって飲めよ」
 呆れたように笑いながらも空になったグラスに酒を満たしてくれるコックの手から瓶を取り上げると、コックのグラスにも酒を注いだ。
「たまには気が効くじゃねェか」
「たまに、は余計だ」
 軽口を叩き合い、どちらからともなく乾杯、とグラスをぶつけ合った。
「ん。やっぱうめェな」
「ああ、こりゃいいな」
「あとはてめェが飲んでいいぞ。つまみ、すぐに出すから待ってろ」
 席を立つ後ろ姿を眺めながら、こいつは本当に甘い、と思う。
 日頃気に食わないだのムカつくだの言いつつも、こうやっておれの好きそうだと思う酒を買い、おれ一人の時に出し、おれが気に入ったと知れば自分はろくに飲まずに惜しみなく与える。
 それは何もおれ相手に限ったものじゃなく、いつだって誰にだって、時には敵相手にだって、求められれば当然のこと、求められなくてもさりげなく相手の望むものを差し出すとんだ甘ちゃんだ。見返りなんざこれっぽっちも求めちゃいない。お人好しにも程がある。
 それが料理人という職業ゆえなのか、生まれ持ったこいつの気質なのかはわからない。けれど、コイツなりの一本筋の通った生き方らしいとわかってからは、別にいいとも悪いとも思わなくなった。
 それがこいつ。ただそれだけの話だ。

 

「ちょっと張り切って作りすぎちまったかも」
 ずらりと机の上に皿が並ぶ。一皿の量はそう多くないが、品数が多くつまみにしてはえらく豪勢だ。
「ちょうど秋島の秋で、旬の食材がたくさん手に入ったからよ」
 これがサンマの生姜煮で、これはナスとカマンベールの揚げ浸し。そんでこっちがきのこのマリネ中華風に銀杏の塩焼きだろ、それから松茸の網焼きに天ぷら、あとは栗の渋川煮の生ハム巻き。
 上機嫌に料理を一つ一つ説明するコックはひどく楽しそうだ。
 こういう顔は悪くねェのにな……ん? 悪くないってなんだ。
 ふと湧いて出た感情に自問する。しかし、既に目の前の料理で頭がいっぱいだったのでそれ以上深く考えることはせず、手始めに一番近くにあるサンマに箸を伸ばした。
「!」
 しっかりと脂の乗ったサンマは、口の中で骨までほろりとほぐれる。少し濃いめの甘辛い味付けがまた絶妙だ。
「うめェだろ」
 にっと口の端を上げてコックが無邪気に笑う。この顔も悪くねェな、とさっきと同じことを思いつつ、素直に美味いと言うのもなんとなく癪で、
「この酒に合うな」
 と答えるにとどめた。
 答えたら酒が飲みたくなって、瓶から直接呷ろうとしてふと思いとどまった。ちょっとばかり考えてから、空になっていた自分とコックのグラスに酒を満たす。
「おいおいどうした。あとは飲んでいいって言ったろ?」
「……今日はてめェも飲め」
「ふうん。珍しいこともあるもんだ。じゃあま、遠慮なく」
 コックはおれの隣に腰を下ろすと、味わうようにちびりちびりと酒を口にした。
 机の上には取り皿も箸もおれの分しかない。どうせこいつは、つまみも全部おれに食わせるつもりなんだろう。
 やっぱり、こいつは甘い。
 そんなコックの甘さに感化されたわけじゃないが、なんとなく今日は、おれのために用意されたらしい美味い酒とつまみを、こいつと一緒に分け合いたい気分だった。
「つまみも食えよ」
「いや、ほんとどうしちゃったんだよおまえ」
「いつもてめェが酒だけ飲むなって言うんじゃねェか」
「まあそうだけど……」
 ブツブツ言いながらも自分の分の取り皿と箸を取りに行くコックを見て、おれは妙に満足していた。
 ぽつりぽつりと話しながら、二人でつまみを食べ、酒を飲む。
 夜だからか、二人きりだからか、美味い酒と料理のおかげか。昼間の喧嘩ばかりの二人はなりを潜め、普段は互いに見せることのない気安い親密さが顔を出す。
 そんな、いつにない穏やかな空気がひどく心地よかった。

 

 *

 

 米の酒はまろやかで飲みやすいが、案外度数は高い。
 コックのグラスが空く度に酒を満たしていたら、そう酒に強いわけではないコックはどうやら酔っ払ったらしかった。ほんのりと顔を赤く染めて目を潤ませ、呂律も怪しくなってきている。グラスを持つ手元も危なっかしい。
「そろそろやめとけ」
 ひょい、とコックの手からグラスを取り上げると、取り返そうと両手を伸ばしてきた。
「返しやがれ〜ってイテテ」
 急に顔を歪めて上げかけた手を下ろし、揉むように自分の肩を掴む。
 そういえば、飲んでいる時やたらとコックが肩を回したり、首をコキコキ鳴らしていたような気がする。
「どっか痛めたのか?」
「んー、渋皮煮作るのに栗の皮剥いてたら凝っちまった」
 そう言われて、昼間に甲板でただでさえ猫背な背中をさらに丸めてちまちまやっていた姿を思い出した。あの姿勢で作業をしたら、そりゃ肩も凝るだろう。
「イテテテテ〜」
 コックは肩をキュッと竦めて首を左右に傾けたりぐるりと回したりしている。
 その様子を見ていて、ふと思い立った。
「肩、揉んでやろうか」
「はえ?」
「おら。背筋伸ばして座れ」
 立ち上がってコックの後ろに立つと、コックは仰け反ったままポカンと口を開けたアホ面でまじまじとおれを眺めた。
「やっぱおまえ、なんか変なモン食った?」
「食ってねーよ」
「嘘だ!そうじゃないとマリモがおれにこんなに優しいわけねェ!」
「あのなぁ……いいから黙って揉まれとけ」
 コックの丸っこい頭をグイと押して無理矢理前を向かせると、両肩に手を置く。状態を探るように全体を優しく揉むと、首から肩甲骨にかけてゴリゴリとしたしこりを触れた。
「こりゃなかなかだな」
「あうぅ、そこやべー」
 包み込むようにした手のひらを肩先に向かってゆっくりと滑らす。それを何度か繰り返すと、強張っていたコックの肩から力が抜けた。
「少し力入れるぞ」
 首から肩先へ、それから肩甲骨に沿って上から下へ。親指で強くなりすぎない程度に圧をかけて凝りをほぐしていく。
「あ〜気持ちい〜」
 気の抜けた声を出すと、コックはテーブルにへにゃりとうつ伏せに倒れ込んだ。
「怪力ゴリラのくせに、案外揉むの上手いじゃねーか」
「そりゃどーも」
 失礼な物言いを流せるくらいには機嫌がよかった。それにしても薄い肩だ。首も細い。日々の鍛錬で鍛えている自分の体とは全然違う。かといって女のように華奢なわけでもない。しなやかで、強い体。首から肩先へ、肩甲骨に沿って上から下へ。その骨を、筋を、一つずつ確かめるように触れてほぐしていく。
 何度も往復し、特に凝っている部分はより丁寧にほぐせば、しこりはほとんど触れなくなった。次は頭だ。首の骨を両脇から挟み込むようにして下から上へ。それから側頭部から後頭部にかけてじっくりと揉みほぐしていく。
(ちっせー頭)
 片手で握りつぶしてしまえそうだ。小さな頭を覆う髪はサラサラとしていて、揉むたびに手の甲をさらりと滑ってくすぐったい。
 コックはされるがままで、規則正しく背を上下させている。
「おまえの手、あったけェ」
 てっきり寝てしまったのだと思っていたら、寝言みたいにぽつんとコックが呟いた。
「そうか?」
「ん。熱ィくらいで気持ちいい」
「そうか」
「そう。あったかくて、やさしー手」
「は?」
「おまえの手、やさしーよ」
「…………おれの手は、人殺しの手だ」
 優しいというなら、こいつの手の方だろう。与える手。人を生かすための、温かで美味いメシを作る手。反しておれの手は、これまでにたくさんの命を奪い、血に塗れた人殺しの手だ。そしてこれからも、人の命を奪うであろう手。優しさとは程遠い。
「確かにそうかもしんねェけどさ」
 コックはうつ伏せたまま、柔らかくくぐもった声で言った。
「でも、その手で剣を振り仲間を助けて生かす手だ」
「…………」
 驚いた。こいつは、そんな風に思っていたのか。
 思いがけない事実に、咄嗟に言葉が出てこなかった。黙り込んだおれを気にする風でもなく、コックが歌うように続ける。
「おまえは剣で、ルフィは底抜けの明るさと強引さで、ナミさんは素晴らしい航海術で、ウソップは優しい心と嘘で、チョッパーは医術で、ロビンちゃんは知識と頭脳でみんなを生かす。そして、そんなみんなをおれのメシが生かすんだ。それって、スッゲー幸せなことだと思わねェ?」
 へへ、と笑うコックを、ふいに抱きしめたい衝動に駆られた。
 抱きしめたい? なんだ、それ。相手はコックだぞ。訳がわからねェ。
 首を捻りながら抱きしめる代わりに指で金色の頭を包み込み、返すべき言葉を探した。
「……やっぱりてめェ、酔ってんな」
 ようやく出てきたのはそんな言葉だけで。
 それでもコックはクスリと笑って、「そーかも」と言った。うつ伏せで見えない顔は、きっと声音と同じだけ優しくゆるんでいるのだろう。
 その顔を想像して、悪くねェなと思う。
 相変わらずの甘さも、優しくゆるんだ顔も。
「悪くねェ」
 うっかり飛び出た心の声は、自分でもびっくりするほど優しく響いた。
 コックの声に釣られたのか、それとも——。
「悪くねェって、何が?」
「いや、なんでもねェ……うし、終わったぞ」
 顔を上げたコックの頭をポンと叩き、ついでに髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「わ! なんだよおい」
「なんでもねェよ」
 思わず笑ったおれを見て、コックが軽く目を見開く。
(悪くない、か)
 そこんとこ、もうちょっと深く考えてみてもいいかもしれない。