クリスマス

こんばんは。
珍しく、前回からあまり間をあけずの更新です。

明日、いや今日かな?はクリスマスイブ、そしてその次の日はクリスマス。
日本ではクリスマスといえば冬のイベントの一つで、サンタクロースやクリスマスツリーにケーキ、イルミネーションなど、子どもから大人まで楽しむ日、というのがすっかり定着していますよね。
かくいう私も、クリスマスをイベントとして楽しむ人間の一人です。
親になってからは、自分が楽しむだけではなく子どもに夢を与えて楽しませるという役割も担うようになりました。

ただ、日本は仏教徒の人が多いのもあってか宗教的に祝う文化はあまりないですが、本来クリスマスっていうのはイエス・キリストの誕生を祝うための日なんですよね。
アドベントカレンダーの「アドベント」なんかも、待降節といってイエス様の降誕を待ち望む期間、という意味です。

そんな、キリスト教にとっては特別な意味合いをもつクリスマス。
下の子の幼稚園はキリスト教系の園なので、この時期になるとアドベントクランツのろうそくに火をともしたり、アドベントカレンダーをめくったり、クリスマスにちなんだ賛美歌を歌ったり、ということをします。
クリスマス礼拝といって、年少さんと年中さんは賛美歌を歌い、年長さんがクリスマス・ページェントという降誕劇をするという一大イベントもあります。

そんな一大イベントに、先日参加してきました。

かわいい子どもたちが大きな声で賛美歌を歌って、年長さんが一生懸命劇をしていて、とっても素敵な時間でした。
そして、同時に懐かしかったです。

というのも、私自身、キリスト教徒ではないものの中学、高校とキリスト教系の学校に通っていたので、聖書や賛美歌、礼拝というものに馴染みがあるからです。
毎日放送で礼拝の時間があり、賛美歌を歌って聖書の一節の朗読があり。
週に1回1時間、全学年がチャペルに集まって牧師さんのお話を聞く礼拝の授業というものがあり。
期末試験では「聖書」という試験科目があり。
夏休みの宿題では日曜礼拝に参加してレポートを書くことという宿題が出て。
思春期という大事な時期の6年間、常に身近にキリスト教に関するものがあったことは、私という人間を形成するにあたって少なからず影響を与えたと思います。

チャペルの木の椅子の匂い、パイプオルガンの音色。
聖書のツルツルとした紙の感触。
ためになったり、つまらなかったりする牧師さんのお話。
年に1回だけ参加する、近所の教会の日曜礼拝。
細かいことは覚えていないけど、その時感じた匂いや色、雰囲気なんかは今でも私の中に色あせずに残ってる。
大切な、思い出。

私も下の子もプロテスタントなので、カトリックだとまた違うのかもしれませんが、おおらかな校風や他者を思いやり、認め、受け入れるという教えがすごく好きだなぁと今回クリスマス礼拝に参加して改めて思いました。

そんなことを思う一方で。
私、9月に入院して病気が発覚して、自分の世界がガラリと変わってしまった時に受け入れられなくて、つらくて、

「この世に神様なんていない」
「もしいるならどうして私にひどいことばっかりするんだ」

と神様を憎み、全否定する気持ちでいっぱいになっていました。

けれど、クリスマス礼拝に参加したことで
「それは間違ってるかもしれないな」
と考えることができたのも私の中では大きな変化で、苦しかった心が少し軽くなったような、そんな気がしました。

どうしようもない現実や困難に直面したとき、人は人以外のものに縋りたくなって、だからこそ宗教というものがある。
私は無宗教ですが、その心理はわかるような気がします。

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