三月二日。
この船の料理人の誕生日である。
麦わらの一味は前日にこの島、パサート島に辿り着いたところだった。
港のすぐ背後には断崖が迫り、その斜面には平たい屋根の白壁の家が密に立ち並んでいる。海の青と陸の白のコントラストがとても美しい、風光明媚な島だ。町の中心部は港からほど近い、断崖より手前の部分に位置しており、商店やレストラン、宿屋などが多数軒を連ねているところを見るとそれなりに規模は大きいようだ。
海賊である一味にとって、海軍基地があるのかどうか、治安はどうかなどの上陸前の情報収集は欠かせない。バカンスに来た旅行客の振りをして偵察に出かけていた航海士と考古学者が船に戻ってくると、皆自然とダイニングに集まった。
「記録が貯まるのに一週間かかるみたい。治安は悪くなさそうだし、海軍もいないみたいだからそれまで陸で過ごしましょう。あとでお小遣い渡すから、宿は各自でね」
航海士がそう宣言すると、わっと歓声が上がる。
「お小遣いいくらだ?おれ薬草買い足したいんだけど…」
「久しぶりの上陸ですね〜、ヨホホ!」
「点検したいところがあるからまずはおれが船番するぜ!」
各々が自由に発言する中、ウズウズが止められない船長の声が響いた。
「よしっ、冒険するぞ〜!」
「ちょーっと待ったぁ、ルフィ‼︎」
叫ぶと同時に飛び出しかけた船長を、航海士のゲンコツが床に沈める。
「明日はサンジ君の誕生日でしょ?せっかく上陸するんだし、サンジ君にのんびりしてもらうためにも明日の夜はレストランでお祝いしましょう。サンジ君、お店探すのはお願いしてもいい?」
「ナミさんの頼みなら喜んで‼︎…でも、そのー、気持ちは嬉しいんだけど、今うちの船、外食する余裕はあるのかい?」
自慢じゃないが麦わらの一味は万年貧乏海賊だ。サンジが心配するのも無理はない。
「うふふ、こないだの敵襲でたーんまりお宝頂いたから、今はわりと余裕があるの」
「そういうことなら、安くて美味しい店探しておくから任せてね〜」
「さっすがサンジ君、話が早くて助かるわ」
明日の夕方にサニー号に集合してみんなでレストランに向かうことに決まり、それまでは自由行動ということで一旦解散となった。
「それじゃあ、サンジの誕生日を祝って…カンパーイ‼︎」
夕方。サンジの誕生日を祝う宴が始まった。治安はいいから少しの間は大丈夫だろうということで、船番のフランキーも参加し、文字通り全員集合だ。サニー号は念のため目立たない場所に移動させてある。
サンジが選んだのは、そう大きくはないが小ざっぱりとしていて、この島の郷土料理が豊富にメニューに並ぶ店だった。観光客向けではなく地元民向けの店なので、値段も安価で店の雰囲気も和気藹々、おまけに店員の接客も気持ちがいいときている。一味自慢の海の一流料理人が選んだだけあって、味は文句なしに美味しかった。
「こんなに美味しいのに安いなんて、さっすがサンジ君!お店のチョイスが完璧だわ」
「ええ本当、美味しいわ」
「ナミすわぁんもロビンちゅわんも気に入ってくれて何よりだよ〜‼︎」
「この肉うんめェェェ!おかわりっ‼︎」
「おれもおかわりするぞ!」
「美味しすぎてほっぺた落ちそう…って私ガイコツだからほっぺたないんですけども‼︎ヨホホホホ‼︎」
「酒」
「サンジがゆっくり座って食べるってなんか新鮮だな。主役なんだからしっかり飲んで食えよ〜」
「アウ!そうだぜ、サンジ。ほらほら、もっと飲め!」
座って食べるとは言っても、料理を取り分けたり、空いた皿をまとめたりとなんだかんだと落ち着かない主役を中心に、みんなで飲んで騒いで宴は大いに盛り上がった。
宴の後。
サンジは宿の一室にゾロと共に居た。
実は、ゾロとサンジは所謂恋仲である。
表向きはみんなに内緒で、ということになっているが、とっくに周知の事実であるということはサンジだけが知らなかったりする。
何かとトラブルの多い麦わらの一味の船だ。航海中は、皆の目を盗んでキスを交わしたり、特に忙しいサンジの仕事の合間を縫ってそそくさと抱き合うことしかできない。
しかし、久々の陸である今は、誰の目も、時間も気にせず、柔らかいベッドの上で抱き合える。こんな貴重な機会をお互い逃すつもりはなかった。
サンジを後ろから抱きすくめ、項に鼻先を埋める。タバコと、どこか甘さの混じった愛しい男特有の匂いを深く吸い込み、その間にも前に回した手はシャツのボタンを外し、スラックスの隙間から侵入し、悪戯をやめない。
「ん…」
金糸をさらりと揺らし、顔を僅かにゾロに向けキスを強請る。
ボタンを外し終えた手がサンジの顎を優しく掴み、啄むようなキスを一つ。獣のように分厚いゾロの舌がペロリとサンジの唇を舐め、それを合図にどちらからともなく舌を絡め合い、口付けが深くなる。
「ふっ…んぅ」
白い肌を薄桃に染め、飲み込みきれない唾液を口端からつと垂らしながら、快楽に染まりつつある潤んだ青がうっとりと見上げてくる。
何度見ても、気の強いこの男が自分にだけ見せる、欲に染まりきった表情が堪らない。
そのあまりに扇情的な様に、ゾロの中心がグンと質量を増す。
「ぅあ、ゾ……でかく、すんなっ」
口では悪態を吐きながらも、瞳に滲む欲望の色はより一層濃さを増す。
「満更でもないんだろ」
ニヤリと凶悪に笑い、まだスラックスに包まれたままの形の良い小尻に自身をグリグリと押し付ける。
「くそっ……せっかく…なんだ、ベッド、行こう、ぜ……うわっ」
突然身体がふわりと浮く。次の瞬間、自分の状態を把握したサンジが喚く。なんと、あろうことかゾロにお姫様抱っこされているのだ。
「おろせっ、おれぁレディじゃねェんだ!」
「いいからじっとしとけ。今日はとことん甘やかして、一晩中啼かすって決めてんだ」
「は……何おまえ、もしかして、誕生日祝ってくれてんの?」
だってそうだ、今日ゾロが取ったのはいつもの安宿や連れ込み宿じゃない。大きくて柔らかそうなベッドに、小さなキッチンまでついた部屋だ。あいつなりの誕生日プレゼントなのかもしれない。
「てめェが生まれて来なけりゃ、今こうやって一緒に過ごすこともなかったわけだしな。めでてェ日じゃねえか」
普段の鋭さはなりを潜め、優しさだけを纏ったヘーゼルの瞳がサンジを見つめる。悔しいが、完敗だ。
「なんからしくねェけど…ありがとな」
観念して逞しい首に両腕を回し、肩にことりと頭を預けた。
「いつもそのくらい素直だと、可愛げがあるってもんだがな」
そう言ってクスリと笑い、優しくサンジをベッドに横たえる。
「たまにだからいいんだろ、クソダーリン」
「はっ、違ェねえ」
軽口の間にもキスを交わし、愛撫を施し、互いを高めてゆく。
幾度となく達し、身も心も溶けて混ざり合うのではないかと思えた頃。
心地よい疲労感の中、二人は微睡の中へと誘われていった。
目を覚ますと、ゾロは見知らぬ街の路地に立っていた。
ついさっきまで、宿の一室で散々抱き合った後、愛しい男を腕に抱いて眠っていたはずだ。一糸纏わぬ姿だったはずなのに、何故か服を着ているし、隣にいるべき男もいない。そもそも——
「ここはどこだ?」
いくら方向音痴ですぐに迷子になるゾロとて、初めての場所かどうかくらいはわかる。ここは、明らかに一度も訪れたことのない場所だった。
まず頭をよぎったのは、能力者か何かに異空間に閉じ込められたのではないか、ということだった。自慢じゃないが、寝ていようが抱き合っていようが、異変があれば瞬時に察知できる自信はある。でも、妙な気配は感じなかった。仮に自分が気付かなかったとしても、見聞識の覇気に優れたサンジも一緒だったのだ。二人して異変に気付かないということは有り得ない。となるとこの線の可能性は低い。
(夢、か……?)
辺りを窺うが、特に怪しい気配は感じない。幸い、命の次に大切な三本刀は腰にさしてある。ひとまず、状況把握も兼ねて適当に散策してみるか、と歩き出そうとした時だった。
パタパタパタ、と足音が近づいてきたと思ったら、どすん!と何かがぶつかった。一体何事かと下を向くと、ぶつかった反動で尻餅をつき、「いたたた…」と顰め面をする子供が一人。
その容姿を見て、ゾロの目が軽く見開かれた。
年の頃は十二、三くらいだろうか。陽光を弾く、眩いばかりの金の髪。抜けるような白い肌。子供のくせに、口に咥えられた煙草。そして…くるりと巻いた特徴的な眉。
「…コック?」
上からポツリと降ってきた声に、子供が弾かれたように顔を上げる。
「あ、ぶつかってごめんなさい。おれ、訳あってちょっと逃げてて…ってうげ、もう追いついてきやがった」
子供の視線の先を見ると、いかにもゴロツキです、と言った風情の男が数人、こちらに向かって走って来る。
何が何だかよく分からないが、あまりいい状況ではないのだろうと判断したゾロは、恋人である料理人に瓜二つの子供の手を取って立たせると、自分の後ろに匿うようにした。
「おいおい、オレ達はそこのガキに用があるんだよ。痛い目にあいたくなきゃ、さっさとそいつを置いて失せな」
リーダー格らしい男の言葉に、ゴロツキどもがニヤニヤと下卑た笑いを浮かべる。
「そうそう、そこの、色白で女みたいに細っこいガキにな」
瞬時に、背後でブワッと怒気が膨らむ。前に飛び出そうとするのを腕一本で軽く抑えると、ため息を一つつき、ゾロが口を開いた。
「こいつはおれの連れだ。手ェ出すんじゃねえよ」
「連れだぁ?嘘言ってんじゃねェよ。いいから黙ってそいつを置いていきやがれ。おい、お前ら、や——」
最後まで言うことは叶わなかった。何が起きたか理解する間も無く、全員気を失って地面に倒れ伏していたからだ。
「す、すげーな!一体何やったんだ?」
後ろからひょこりと顔を出した子供が、目をまん丸にして感嘆の声をあげた。
「ちっと殺気を飛ばしただけだ。こんな奴ら、剣を抜くまでもねェ」
「殺気だけで倒せるなんて……あんた、強いんだな。おかげで助かったよ、ありがとう」
ニカッと幼い笑顔で笑いかけてくる顔は、やはりコックにそっくりだ。
「あー、おまえなんで追われてたんだ?つうか名前は?」
「おれ、サンジって言うんだ!おれさ、こんな見た目だから、その……よく変な奴らに声かけられるんだよ。あんな奴ら、余裕で蹴り飛ばしてやれるけどさ。今日は急いでたし、揉め事起こすとジジイにどやされるから撒こうとしてたってわけ」
名前まであのグル眉コックと同じだ。ジジイってのはまさかバラティエのジイさん——赫足のゼフのことか?仮にこいつがコックだとして、なんでガキの姿なんだ?おれのことを知らねェってことは、コックが小さくなった訳じゃなさそうだな……。
思考の海に沈みかけたところを、弾む声が引き戻した。
「なあ、あんた名前は?」
「ゾロだ」
「その腰の刀……用心棒か何かか?」
「いや、おれァ海賊だ。訳あって今は仲間と逸れてる」
「海賊か、その人相の悪さなら確かに納得だな!」
「おい、てめェ…」
「あはは、ごめんごめん。でもさ、おれのこと助けてくれて意外といい奴だよな。…ん、待てよ、海賊ってことは海を旅してるよな?もしかして、グランドラインに行ったことあるのか⁉︎」
「ああ」
「すげえ‼︎なあなあ、オールブルーって見たことあるか?全ての海の魚が住んでる、伝説の海なんだ!」
目をキラキラと輝かせ、頬をうっすら薔薇色に染めて話す姿が想い人と重なる。
オールブルー。コックの夢の場所。
なぜこんな状況に陥ったのかは全く分からないままだ。ただ、この子供はあのコックだと、本能的な部分でゾロは理解した。
「いや、オールブルーは見たことねェ。だが、おれ達はグランドラインを一周したわけじゃないからな、あるかないかはまだ分からねェさ」
「きっとあるさ!おれ、いつか海に出てオールブルーを探すのが夢なんだ。今はまだ、コックになる修行中だから行けないんだけど」
「コック…」
「ジジイがバラティエっていうレストランやってて、おれそこでコック見習いやってんだ。そうだ、あんた腹減ってないか?」
「あー、そういや腹減ったな」
「じゃあさ、助けてくれたお礼もしたいし、一緒に来てくれよ。おれ、飯作るからさ」
「へェ、そりゃ楽しみだ」
「そうと決まればすぐ行こう!……あ、ヤバ、ジジイから買い出し頼まれてたんだった。ごめん、市場に寄ってからでもいいか?」
ここにいても何か分かるとは思えないし、こいつがコックなら、ついて行っても問題はないだろうと判断して、ゾロは小さな背中を追いかける。
「グランドラインの話聞かせてくれよ!」
せがまれるままに、自分達の航海について話して聞かせながら、市場で野菜や果物、香辛料などを買うのに付き合い、荷物を持つ。買い出しが終わると、ちびコックが乗ってきた買い出し用の小舟に乗り込み、二人はバラティエへと向かった。
「おせェぞ、チビナス。おい、その隣の奴は客か?」
バラティエに着くと、仁王立ちで待ち構える男が目に入った。
右足の義足によさ毛。間違いない、赫足のゼフだ。
「ちょっと色々あったんだよっ。この人はゾロ。街で世話になったから、お礼をしようと思って一緒に来てもらったんだ」
「そうか、チビナスが世話になった。礼を言う」
「別にたいした事はしてねェよ」
「じゃあおれ、飯作ってくる!食べたいものあるか?」
「おまえが作ったものなら何でもいい」
「ヘヘッ、美味いモン作るからな!」
そう言うと、厨房へパタパタと駆けて行く。
その後ろ姿を眺め、ゼフが溜息をつく。
「ったく、まだ人様に出せるような料理は作れねェってのに…すまないが、あいつの気持ちだ、汲んでやってくれ」
「もちろんだ」
「ところでおまえ、名をゾロと言ったか。ここいらで有名な海賊狩りも確かゾロと呼ばれていたような気がするが…?」
「おれは海賊だ、海賊狩りじゃねえ。どっちにしろ、ここで迷惑かけるつもりはねェよ」
この当時は確かに海賊狩りだったけどな、と心の中で付け加える。
今は違うのだから問題ないだろう。
「そうか。まあ、ここじゃあ海賊も海賊狩りも関係ねェ。食いてェ奴にゃ食わせてやる、それがこのレストランだ」
「……あんたとあいつ、そういうとこそっくりだな」
「おれもあいつも、極限の飢えを知ってるからな。食えるってのは、幸せなことだ」
「そうだな、航海してると特に、食えることのありがたさを実感する。グランドラインなら尚更だ」
ゼフの眉毛がピクリと動く。
「ほう、グランドラインに行ったことがあるのか」
「まあな、まだ途中までしか旅してねェけどよ。あんたは行ったことあるのか?」
「ある。おれも昔は海賊だった」
「ヘェ、そうかい。そういやチビコッ…あいつ、グランドラインに行ってオールブルー探すんだって、おれからグランドラインの話聞きたがってたが、あんた話してやってないのか?」
「話したさ。オールブルーの可能性を見たってな」
「そうか」
「…おまえは、笑わないんだな。信じるのか?オールブルーを」
「おれの仲間にも、オールブルーを信じて探してるやつがいるしな。全てを見て回ったわけじゃねえんだ、ないと決めつけることもできないさ」
フッ、とゼフの表情が緩み、何かを言いかけたが、「できたぞ!」とサンジがこちらに駆けてくると、それ以上言葉が紡がれることはなかった。
食欲をそそる匂いが鼻をくすぐる。
「海鮮ピラフ、おれの得意料理なんだ」
そう言って差し出された皿には、山盛りのピラフ。
ほかほかと湯気が立ち上り、イカやエビなどの海鮮がふんだんに使われていて美味そうだ。「いただきます」と手を合わせ、その場に座って食べようとしたところでゼフの蹴りが炸裂した。
「このボケチビナス、仮にも恩人にテーブルも椅子もないところで食べさせる奴があるか‼︎店員食堂か、そうじゃなきゃテメェの部屋に案内しやがれ!」
「って〜、クソジジイ、思いっきり蹴りやがって」
結局、あれから二人は店員食堂に移動した。ゾロとしては別にテーブルも椅子もなかろうが問題なかったが、ゼフに蹴りを喰らったサンジがゾロから皿を取り上げると、さっさと歩き出してしまったので付いて行くしかなかった。
昼時は、ランチを食べにくる客でレストランが賑わう時間帯であり、戦場と化した厨房で休憩を取れるコックはいない。そのため、店員食堂にはゾロとサンジの二人だけだった。普段であれば、サンジも怒鳴り声が飛び交う厨房でキリキリと働いているはずであるが、本日は恩人であるゾロをもてなすべく、特別にここにいることを許されていた。
「ちっとは手加減しろってんだ」
ぶつぶつと文句を言いながらも、少しの不安を覗かせた丸い瞳が時折ゾロを窺い見る。その視線を気に留めることなく、ゾロは黙々とピラフを頬張った。
「ごちそうさまでした」
パンッと手を合わせ、一礼する。
米粒一つ残っていない皿を見て、サンジの顔がパアッと輝いた。
「なあ、おれが作ったピラフ、どうだった?」
「美味かった」
「本当⁉︎美味いって言ってくれたの、あんたが初めてだ。ジジイからはダメ出しばっかりで、まだおれの料理認めてもらってないから…」
太陽のように輝いていた顔が、一瞬で曇る。
まあ確かに美味いんだが、あいつの作るものと比べれば何か足りない気はするな、と胸の内で独りごちつつ、ゾロは口を開いた。
「あのジイさんはプロだからな。金貰って客に料理を出すんだ、必然、求めるレベルは高くなる。おれが美味いと言うのとは訳が違ェ。だが、求めるレベルが高いっていうのは、裏を返せば、コックになりたいというおまえの気持ちを認めて期待してるってことだろ」
丸い瞳が零れんばかりに見開かれた。
「ジジイがおれを…認めてる……?」
「おれァそう思うぜ。ボランティアで料理教えるようなジイさんじゃねェだろ」
「そっか…そっか、ありがとう、ゾロ!」
また眩しい笑顔が戻ってくる。
「なあ、まだ時間ある?」
「ああ、別に急いじゃいねェしな」
ここがどうやら過去であるらしいことは分かったが、元に戻る方法は依然として分からないままだ。チビコックも気になるし、あちこち動き回るよりはここで情報収集でもした方がいいだろうと、ゾロはしばらくここに居座ることに決めた。
「そしたらさ、そろそろ仕事に戻るから、ゾロはおれの部屋でゆっくりしててよ。グランドラインの話、もっと聞きたいんだ!」
部屋まで案内するというサンジの申し出を、船内を散策したいからと断り、二人は別行動をとることになった。
「……迷った」
甲板で昼寝でもしようと目論んでいたのだが、極度の方向音痴であるゾロがすんなり辿り着けるわけもなく。自分がどこにいるのか分からないままに彷徨い歩いていると、数人で集まってヒソヒソ話をしているコック達が目に入った。盗み聞きするつもりはなかったが、ヒソヒソ話にしては声が大きく、嫌でも話が耳に入ってきた。
「ケーキはやっぱりイチゴか?」
「蝋燭は何本だ?あいつ確か十二歳になるんだよな?」
「ケーキを出すタイミングは、ディナーの片付けが済んで、みんな落ち着いた頃だ」
どうやら誰かの誕生日を祝う算段をつけているようだ。
(十二歳……今日はあいつの誕生日なのか)
この船の従業員に子供は一人しかいない。つまり、今日はサンジの誕生日、三月二日という訳だ。
なんだかんだここでは可愛がられてたんだな、と思っていると、向こうからゼフがやってきた。カツン、カツンと響く義足の音に、コック達が一斉に振り向く。その中の一人が口を開いた。
「店主、今年もイチゴのケーキにしますか?」
「ああ、最後の仕上げはおれがするから、一通りできたらおれの所に持って来い」
「わかりやした」
「……で、おまえはここで何してるんだ」
ゼフが、少し離れた所に立ち止まっているゾロに声をかけた。
「甲板に行くつもりが、ここに来ちまった。…今日はあいつの誕生日なんだな」
「そうだ。まあ、誕生日と言っても一つ歳を重ねるだけだ。特別なことじゃねェ」
「またまた〜、そんなこと言って、店主毎年ちゃんとケーキとプレゼント用意して祝ってやってるじゃないっすか」
瞬間、ギロリとゼフがコック達の方を睨み怒鳴った。
「うるせェボケナス共‼︎無駄口叩いてる暇があれば、さっさと持ち場に戻りやがれ‼︎」
「「「はいっ、オーナー‼︎」」」
コック達が慌てて厨房へと走っていく。
それを見送って溜息を一つつくと、ゼフが決まり悪そうな表情を浮かべた。
「そんなに意外か」
「まあ確かに意外だが、悪くはないんじゃねェか」
「あいつには親がいない。そして、成り行きではあるがおれはあいつを拾った。拾った以上はおれが親代わりをするのが筋ってもんだ。別にあいつを喜ばせてやろうってんじゃねェ、親としての責任を果たしているだけだ」
「そうか」
分かりにくくはあるものの、ゼフの表情からはそれだけがサンジの誕生日を祝う理由ではないだろうと窺い知れたが、ゾロはそう返すだけに留めた。
「ところでおまえ、甲板に行くんだろう?行き方が分からねえなら、案内するからついてこい」
そう言って踵を返すゼフについて、ゾロは甲板へと向かった。
「ゾロ!」
甲板で昼寝をしていたゾロの元にサンジが駆け寄ってきた。
「ここにいたんだね。ランチが終わって、夜の分の仕込みもひと段落ついたからちょっと時間できたんだ。おれの部屋で話聞かせてよ!」
「ああ、いいぞ」
ついてきて、と言うサンジの後を追うべく立ち上がると、ゾロはゆっくりと歩き出した。
辿り着いたサンジの部屋は、子供の部屋とは思えないくらい殺風景だった。何しろ、物がないのだ。ベッドに箪笥、机と椅子があるのみで、おもちゃの類は一切見当たらない。机の上には、レシピ本とノートが数冊。
「随分物がないんだな」
「この部屋にはほとんど寝に帰ってくるだけだからね。あ、ベッドにでも適当に座っておいて」
そう言うと、パタパタと部屋から出て行く。すぐに戻ってくるだろうと、ゾロはどかりとベッドに腰を下ろした。部屋には、仄かにタバコの匂いが漂っている。そういえば、先ほど町で出会った時もタバコを口に咥えていた。
(あいつ、こんな小せェ頃からタバコ吸ってやがったのか)
今のあいつとは少し違うタバコの匂い。実際そうなのであるが、知らされていない過去を勝手に覗き見しているような気持ちになり、居心地の悪さを感じていると、サンジが部屋に戻ってきた。
「コーヒーとサンドイッチ持ってきたんだけど、いる?」
「もらう」
サンドイッチは、ツナマヨにハムチーズ、トマトとレタス。耳を落として綺麗に切り揃えられたサンドイッチは、熱々のブラックコーヒーにとてもよく合って美味しかった。
(そうだよな、こいつは知らないから……)
普段なら、サンドイッチの時にこっそり出してくれるパンの耳。今目の前にいるサンジは、ゾロがそれを好きであることを知らないから、出てこなくて当然だ。だからこそ、自分のために特別に出されるあのパンの耳を、ゾロは無性に恋しく思った。
(さっさと元に戻って、早くあいつの顔が見てェな)
そのためには早く元に戻る方法を探さなくてはならないが、なんとなく、このままここに居た方がいいような気がした。こう言う時の自分の勘はだいたい当たる。となれば、その時が来るまでは焦っても仕方ないだろうと、サンジにせがまれるままに自分達の航海について話して聞かせた。クルクルと表情を変えながら熱心に話を聞くサンジを見ているのは楽しく、ゾロも話に熱中していった。
気付けばだいぶ時間が経っており、話がひと段落つく頃にはサンドイッチもコーヒーも空になっていた。
「美味かった、ご馳走さん」
「へへ、美味いって言われると、こんなに嬉しいんだな。ありがとう、ゾロ。話もすっごく面白かった!」
そろそろ仕事に戻らないと、と食器をまとめているサンジに、ふと思い出してゾロは声をかけた。
「そういえば、おまえ今日誕生日なんだってな」
途端に、サンジの表情が曇る。
「なんだ、嬉しくないのか?」
ここでは皆から祝われているようだったが、誕生日に何か嫌な思い出でもあるのだろうか。
サンジはしばらく俯いて黙り込んでいたが、意を決したように顔を上げると、口を開いた。
「…おれさ、親、いないんだ。ジジイとは血が繋がってない。十歳の時に、色々あってジジイと二人で遭難して、助かった後に行き場のないおれをジジイが拾ってくれて、一緒にこのレストランを始めたんだ。拾ってもらっただけでもありがたいのに、それから毎年……おれの誕生日にケーキ作ってくれるんだ。それだけじゃない。もっと勉強しろとか言ってさ、レシピ本とかエプロンとかくれたんだ」
「いいジイさんじゃねえか」
「そうだけど……そうじゃないんだ!遭難した時、食い物がなくなって、助けも何日も来なくて…おれは自分が生きるためにジジイを殺そうとしたのに、ジジイはおれを生かすために、自分の右足を食ったんだよ…!そのせいで、もう海賊やれなくなったんだ。ジジイから足も夢も奪ったおれには、一生かかっても返しきれない恩はあっても、生まれたことを祝ってもらう資格なんてないんだ‼︎そもそも、本当の親にも捨てられるような出来損ないは、生まれてこない方が良かったんだ‼︎」
最後の方は、涙声だった。歯を食い縛って、両の目から大粒の涙をボロボロと零しながら絞り出される悲痛な叫びを、ゾロは黙って聞いていた。
部屋の中に響くすすり泣きが少しずつ小さくなり、途切れ途切れになった頃、ゾロはサンジの前まで歩いて行くと、クシャリと小さく丸い頭を撫でた。
「なあ、チビコック。おれも村を出てから多少は世間を見てきたから、誰もが親から愛されて生まれてくるとは言わねェ。親から愛されずに生まれてくる奴もいるだろう」
サンジがゾロを見上げる。涙は止まっていた。もう一度、クシャリと頭を撫でると、ゾロは屈んで目線の高さを合わせ、真っ直ぐに目を見つめた。
「おれもな、親がいないんだ。物心ついた頃には両親ともにいなかったから、愛されたのか、そうじゃなかったのかも分からねェ。でも、おれにはライバルでもある幼馴染がいたし、師匠もいた。親じゃなくても、愛情を注いでくれて、教え導いてくれる人達がいた。おまえにもいるだろう?赫足のジイさんに、この船のコック達が。たとえ親から愛されなかったとしても、それだけでおまえの価値が決まるわけじゃねェ。誰と出会って、そこからおまえ自身がどう生きるか、それが大事なんだ」
「親に捨てられたからって、出来損ないとは限らない……?おれが、どう生きるか……」
「そうだ、おまえ自身の生き様にかかってるんだ。だいたい、あのジイさんも、おまえに恩を感じて欲しくて助けたわけじゃないだろうよ。自分が助けたかったから助けた、それだけだ。誕生日だって、祝ってやりたいから祝ってるんだ。……いいか、いつまでも過去に囚われるな。おまえは、愛されていいんだよ。だから、愛情を注いでくれる人達と、もっとちゃんと向き合ってやれ」
「おれが……愛されていい人間?ほんとうに、いいの……?」
止まっていた涙が、またじわりと溢れ出してきた。流れ出る前に指で掬ってやりながら、ゾロは言い含めるようにゆっくりと、しかしはっきりと言葉を紡いだ。
「ああ、おまえは愛されていい。本当だ」
しばしの間があった。すぐには受け止めきれなかったゾロの言葉が、逡巡を繰り返した後にすとんとサンジの胸に落ちた時、また堰を切ったように涙が溢れ出した。うわああんと、幼子のように声をあげて泣くサンジを抱き締めると、ゾロは優しい手つきで金色の髪を何度も撫でた。涙を吸った服からじんわりと温かさが伝わってくる。涙ってあったけェな、とふと浮かんだ思いに意識を向けた瞬間、唐突に、元いた場所へ帰る時が来たらしいことをゾロは悟った。
少し落ち着いてきてしゃくりあげる背中をトントンと叩きながら、口を開く。
「こんな時にすまないが、どうやらそろそろ行かなきゃみてェだ」
途端、弾かれたようにサンジが顔を上げる。涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。
「行くって、どこへ?」
「おれの、元いた世界へ」
「……よく分からないけど、ゾロはここではない場所から来たんだね。もう時間はないの?」
「ああ、多分もうすぐだ」
サンジはゾロの腕の中から抜け出すと、ぐいっと涙をぬぐった。少し腫れた瞼の下から、ゾロが愛してやまない男と同じ、海を宿した青の瞳が真っ直ぐに見つめてきた。
「ゾロ、おれ、あんたに会えて良かった。短い時間だったけど、おれに大切なことを教えてくれて、ありがとう。最後は情けないところ見せちゃってごめん」
「情けなくねェよ。おまえのあの涙は必要だった。だから謝るな」
「そっか……うん、分かった。ねえ、もう二度とゾロには会えないのかな。おれ、またゾロに会いたいよ。ゾロのことも知りたいし、もっとたくさんのことをゾロから学びたいんだ」
くしゃり、とゾロがまたサンジの頭を撫でた。その顔が、驚くほど優しくてサンジは目を見張った。
「チビコック、おまえの夢は何だ?」
突然話題が変わって一瞬戸惑う。
でも、夢ならある。昔からずっと、内から自分を支え続けてくれた夢が。
「おれ、コックになるのが夢なんだ。ここで修行してコックになって、いつか、オールブルーを探しに海に出るんだ!」
胸を張り、堂々と宣言する姿に、共に旅する仲間の料理人の姿が重なる。
「いい夢だな。いつか、コックになったおまえが夢を追うために海に出る日が来たら、その時はお互い同じ海の上だ、この海のどこかできっと会えるだろうよ」
「おれ、海に出たらゾロを探すよ!絶対に見つける、約束だ!」
そう言って、まだ小さな手を差し出してくる。
「ああ、約束だ」
視線と視線が真っ直ぐにぶつかる。ゾロも手を差し出すと、約束を誓うかのように、固い握手を交わした。
瞬きのために目を閉じたその刹那、握っていた手から質量がふっと消えた。目を開けると、ゾロの姿はもうどこにもなかった。どうしたのかは分からないが、きっと元いた場所に戻ったのだろう。
でも大丈夫だ。約束したから、絶対にいつかまたきっと、どこかでゾロと会える。
「さよなら、ゾロ。…さあ、仕事に戻ろう」
そう呟くと、もう一度食器を手に取り、サンジは厨房へと駆け出した。
目を覚ますと、宿の天井が視界に飛び込んできた。
右腕のあたりに温もりを感じて視線を向けると、二つの青い瞳と目が合った。前髪が乱れて、普段は隠れている右目が露わになっている。夜を共に過ごした時、自分だけが見ることのできるこの両の目が、ゾロは特別に好きだった。
「おれは……寝てたのか。今何時だ?」
それには答えずに、枕元へと手を伸ばしたサンジがタバコを一本抜き取り、オイルライターで火をつけると、ゆっくりと煙を吸い込んだ。気怠げに細く煙を吐き出すと、ようやく口を開いた。
「夜明け前くらいだ。少しの間眠っていたらしい、おれもさっき起きた」
どうやら戻ってきたようだ。寝ていたということは、さっきまでの出来事は夢だったのだろうか。夢にしては、やけに現実味を帯びていた。
そんなことを考えていると、サンジがこちらに身を寄せてきた。更に引き寄せるように両腕で抱え込むと、珍しく素直にゾロの胸に額を擦り寄せてきた。
「どうした」
片手で背中を宥めつつ、もう片方の手で金糸をサラリと弄びながら尋ねる。
「おれさ、夢を見てたんだ。ガキの頃の夢。……あれは、おまえだったんだな、ゾロ」
ゾロの目が軽く見開かれ、一瞬手の動きが止まる。しかし、すぐに何事もなかったかのように、再び髪を弄りだした。
「なんで今まで忘れてたんだろう。大事な思い出だったのに……。それにしても、ガキの頃に今くらいのおまえに会ってたなんて、一体何がどうなってたんだ?」
「おれも今、多分おまえと同じ夢を見ていた。妙に現実味があると思ったが、夢だけど夢じゃないってやつか?」
今度はサンジが目を見開いた。丸い目でまじまじとゾロを見つめていたが、しばらくするとフッと微笑んだ。丸い目が、柔らかく細められる。
「さあな、わっかんね。わかんねェけどさ、おれ、あの時おまえに会わせてくれた不思議には感謝してる。おまえのおかげで、ジジイ達と少しはちゃんと向き合えるようになったと思うから」
「どうした、珍しくやけに素直じゃねェか」
ゾロがニヤリと笑う。
「おまえとの約束をやっと果たせたからな、今だけ特別だ」
「おまえが海に出たら、この海のどこかで、いつかきっと会える……」
「ああ。やっとおまえを見つけた」
どちらからともなく顔を寄せ合い、そっと唇が重なる。
(おまえが愛されていいと言ってくれたから、おれはおまえの気持ちと向き合えることができたんだ)
あの時ゾロと出会えたから、今のおれが居て、今のおれ達の関係がある。流石にこんなことは小っ恥ずかしくて口に出せないから、心の中で思うだけにして、触れるだけだった口付けを深めていく。それに応えるようにゾロが舌を絡ませ、ギシリとサンジの上にのし掛かってきた。
「寝かせてやろうと思ったが……気が変わった」
「いいぜ、来いよ」
大切でたまらないというようにゾロがサンジに触れると、サンジも愛おしそうにゾロに触れる。言葉は無くとも、カラダで想いを交わし合う。
陸で過ごす数日間、体を重ねては愛し愛される幸せに満たされ、穏やかに時が過ぎていった。
「みんな、あの島で昔の夢を見なかった?」
予定通りにサニー号はパサート島を出港し、次の島へと航路を進んでいた。夕飯があらかた終わり、皆がダイニングでくつろいでいる時、ロビンが唐突に質問を投げかけた。
「おれ見たぞ!ドクターと暮らしてた時の夢だった」
「あー、そういや夢にエースとサボ出てきたな」
「言われてみれば私も…」
どうやら、皆それぞれに昔の夢を見たようだった。
「ロビンちゃん、それがどうかしたのかい?」
女性陣に食後のハーブティーをサーブしながらサンジが尋ねる。
「調べ物をしていたら、あの島を訪れた人は必ず過去の大切な思い出を夢に見ると書かれてあったの。なぜかは分かっていないらしいけど」
「夢に見るのは自分の過去だけなのか?」
ゾロが横から口を挟んだ。
「その本には、自分ではなく、大切な人の過去を見ることもあると書いてあったわ。ただ、その場合はなぜか夢に見るのではなく、タイムスリップして実際にその場面を体験することになるみたいね」
ゾロとサンジが一瞬顔を見合わせる。
「ゾロが見たのは、自分の過去ではなかったのかしら?」
それに気づいたロビンがクスリと笑いながら尋ねる。
「どうだったかな、どんな夢かもう忘れちまった」
「よくわかんねえけど、不思議島ってことだな!」
ニシシ、と笑ってルフィが大雑把に話をまとめた。
「そうね、そういうことね」
そこでこの話は終わりになり、他愛のない会話を交わしながら一人、また一人と食べ終わった者からダイニングを出て行く。
珍しくゾロが最後まで残り、ダイニングにはゾロとサンジの二人だけになった。
「やっぱりグランドラインの不思議だったんだな」
「ああ、そうみてェだ」
「なんでおまえだけ自分の過去じゃなかったんだろうな?」
「さあな。わざわざおまえの過去に飛んだってことは、何か意味があったんだろ」
「そういうもんか」
「そういうもんだろ」
——過去に囚われるな。
——誰と出会って、どう生きるか。
あいつがおれの過去に飛んで、教えてくれた大切なこと。
あの言葉があるから、この先何があっても、おれはきっと大丈夫だ。
もしおれが間違ったとしても、仲間達がきっと正してくれる。
だからおれは、ゾロと、仲間と、これから先もこの船で旅を続けていける。
いつか、この海のどこかで、それぞれの夢が叶うその日まで。