3.
入隊から半年が経ち、ゾロとサンジは二等兵から一等兵に進級した。
それから程なくして、二人が属する第1132部隊が南方の前線へと出征することが決まった。兵達は家族と別れの一夜を過ごすべくわずかな暇を与えられ、皆それぞれに家族の元へと帰って行った。
他の兵達と同じく軍服に身を包んで兵営を出たゾロは、大きな屋敷の立派な檜の門の前で一人佇んでいた。
門楼に掲げられた『霜月道場』の文字。
直立不動の姿勢でそれをじっと眺めるばかりで、一向に中へと入って行く気配はない。
そのまま四半刻ほど経った時だった。
「おや。そこにいるのはゾロじゃないのかい」
背後から掛けられた深みのある柔らかな声にゾロの肩がピクリと揺れる。それから、回れ右の要領で振り向くと腰を深く折って最敬礼をした。
「先生……お久しぶりです」
「本当だね。もう半年以上になる。さあ、そんなところにいつまでも立ってないで中に入りなさい」
「いえ、おれは」
「いいからお入り。せっかく来てくれたんだ、ついでに線香でもあげてやってくれないか」
「…………はい」
先生と呼ばれた男は丸眼鏡の奥で目を細めて笑うと、門を開けて中へと入っていく。一拍遅れて、ゾロも男の後について門の中へと足を踏み入れた。
家に上がると、ゾロはまず仏間へと向かった。落ち着いた色合いの紫檀の仏壇の前で正座をし、一礼をする。それから燐寸で蝋燭に火を灯すと、二つに折った線香に火をつけて香炉の中に置いた。鼻先をくすぐる杉の香りを吸い込みながら、ゾロは目を閉じ、頭を垂れて合掌する。
仏間に凪のような静寂が流れた。動くものは線香の煙と蝋燭の炎だけで、手を合わせたまま微動だにしないゾロの姿はまるで一枚の絵画のようだ。
永遠に続くかのように思われた静寂は、不意に聞こえてきた小鳥のさえずりによって破られた。それが合図かの如く、ゾロがゆっくりと顔を上げる。
もう一度仏壇に向かって一礼をすると蝋燭を消して立ち上がり、壁に飾られた写真を見上げた。
ほんの一瞬、ゾロの両の拳が強く握り込まれる。
「ただいま。もうすぐ出征するんだ——行ってきます」
力を抜いて拳を開くと同時に、写真に向かって小さくそう呟いた。
外ではまだ小鳥が歌うようにさえずっている。
羽音とともにさえずりが遠く消えていくと、ゾロは写真から視線を外し、荷物を抱えると仏間を出て道場へと向かった。
道場では、袴に着替えた先ほどの男が竹刀を手に待ち構えていた。
「どうです、ゾロ。久しぶりに地稽古でもしませんか」
「はい。よろしくお願いします」
「それじゃあ袴に着替えておいで」
促され、ゾロは勝手知ったる様子で袴の置いてある部屋まで行って着替えると、持ってきていた愛用の竹刀を手に道場へと戻った。
「さあ、遠慮なくかかってきなさい」
弧を描くように細められた瞳に、射抜くような視線を向ける。
「行きます!」
全身に闘気を漲らせると、ゾロは強く一歩を踏み出した。
「強くなりましたね、ゾロ」
ひとしきり打ち合いをした後、ゾロは先生と呼ぶ男と正座をして向かい合っていた。
「いいえ、まだまだ先生には敵いません」
「数年したら分からないさ。君はもっと強くなる」
「精進します」
「ところで、今日は何か話があって来たのだろう?……なんとなく想像はつくけれどね」
穏やかに微笑む顔に、わずかに暗い影が落ちる。
ゾロは姿勢を正すと、顎を引いて真っ直ぐに目の前の男を見た。
「コウシロウ先生、出征が決まりました。国のために、全力で戦って参ります」
「……やはりそうでしたか」
「一人でも多くの敵兵を殺すため、ようやくこの命を捧げることができます」
ゾロの言葉を聞いた途端、コウシロウの顔から完全に笑みが消えた。
「ゾロ。君が自ら入隊志願したのはそのためですか」
「はい」
「彼らを、今でも恨んでいるのかい」
「当然です。恨みが募ることはありこそすれ、薄れることはありません」
「君の気持ちはよく分かる。でもね、ゾロ。復讐からは何も生まれない。復讐は更なる憎しみを生み、憎しみの連鎖を作るだけだ」
コウシロウは淡々と、穏やかに諭すようにゾロに語りかける。
「復讐の剣を振るうために戦場に行くのはやめなさい」
その落ち着き払った様子は、逆にゾロを苛立たせた。
「先生はっ……!」
思わず腰を浮かせてゾロは叫んだ。
「じゃあ先生は、あんな蛮行を許せるというのですか?憎くないのですか?あいつは何にも悪くなかった。なのにどうして……!おれはあいつらが憎くてたまらない!!」
激情を剥き出しにするゾロを、コウシロウは優しく見つめた。
「私にだって憎いと思う気持ちはあるよ。許せないとも思う。けれど、だからと言って殺していい理由にはならないんだ、ゾロ。あの子だって、君が復讐のために戦地に行くことはきっと望んでいない」
コウシロウの言っていることは正論だ。
けれど、正しいからといって受け入れられるかというと、それはまた別問題だ。
ゾロは浮かせていた腰を下ろすと、膝に置いた両の拳を指先が白くなるほどに強く握り締め、言葉を絞り出した。
「先生の言うことは正しいのでしょう。でもおれは、たとえ復讐から何も生まれなくても、あいつが望んでなくても、殺すことでしかこの憎しみにけりを付けられない」
「ゾロ……」
二人の間に、長い沈黙が流れた。
先に口を開いたのは、ゾロだ。
「今までありがとうございました。どうか、お元気で」
立ち上がり、深く一礼してから道場の入り口に向かって歩き出す。
出て行く瞬間、振り返って一言だけ付け加えた。
「もしおれが死んだら、遺骨をあいつと同じ墓に入れていただけますか」
コウシロウの顔が、わずかに歪んだ。
「私に、そんな辛いことをさせるつもりかい」
「勝手なのは承知の上です。どうかお願いします」
コウシロウは静かに目を閉じると、深呼吸を一つした。
再び目を開けた時、その顔からは歪みが消えていた。代わりに、先程のような穏やかな微笑が浮かぶ。けれど、その目元には隠し切れない悲哀が滲んでいた。
「わかりました……ゾロ、どうか達者で」
死ぬなとは言えない、コウシロウの精一杯の言葉だった。
ゾロはもう一度深く頭を下げると、今度は振り向かずに道場を出て行った。
*
大半の者が出征前の里帰りをしているために人気のなくなった兵営内の酒保で、サンジは一人タバコをふかしていた。
机に片肘をついてぼんやりと煙を吐き出し、時折思い出したように温くなったビールを一口啜る。
「暇だなぁ」
思わず独り言がこぼれ、サンジは苦笑を浮かべた。
こんな時一緒に過ごしてくれるはずのゾロは、他の者と同様に里帰り中だ。
自分にも帰る家がない訳ではないが、帰らないと決めていた。帰ったところで祖父母には歓迎されないだろうし、会いたい友達も兄弟もいない。父にだけは別れの挨拶をしておきたかったが、忙しい人だ、きっと今もほとんど家にはいないのだろう。だから、会いに行く代わりに手紙を認めた。
父は、自分が死んだら少しは悲しんでくれるだろうか。愛されていなかったとは思わないが、仕事一筋の父は母亡き後自分を顧みることはなかった。だから、たぶん自分は怖いのだ。久しぶりに会った父が、息子に二度と会えないかもしれないということに悲しみも、それどころかなんの関心も示さなかったらと思うと、会いに行くことはできなかった。自分で決めたこととはいえ、誰にも悲しまれずに死ぬのは寂しい。
「あれ、そこの金髪は——」
そんなことをつらつらと考えていると、突然後ろから掛けられた声に思考を中断された。振り向くより先に、向かいの席に食事のトレーが置かれる。
「やっぱり。おまえ、フルボディんとこのサンジだろ」
雀斑だらけの人懐っこい笑顔を浮かべるその顔には見覚えがあった。
「エース……少尉殿」
サンジの所属する第3中隊を構成する小隊の一つである、第1小隊の隊長を務める男だ。サンジは直接話をしたことはないが、自分の所属する部隊の将校くらいは全員顔と名前を覚えている。確か、自分のところのフルボディ少尉と違って、人格者で慕うものも多いと聞いている。そんな男がいったい自分に何の用だろうか。経験上、人から絡まれる時はたいていロクなことにならないので、サンジは自然と身構えた。
「おっ、おれの名前ちゃんと知ってるのか」
サンジを包む空気がピリついたのを知ってか知らずか、嬉しそうに笑ってエースが言う。それから椅子を引いて腰を下ろすと、トレーに乗った食事をガツガツと食べ始めた。
「上官のお名前は把握していますので。でも、少尉殿は何故おれなんかの名前を?それに、こんなところで何をなさっているんですか」
「おまえ有名人じゃん。目立つ見た目してる上に、営倉行きの常連だろ?」
「……まあ、否定はしませんけど」
「その有名人が一人で暇そうにしてたから、ちょっと声かけてみようと思って。一人で飯食うのもつまんないしさ」
悪戯っぽく笑うエースを見て、サンジは心の中でため息をついた。どうやら悪意を持って自分に話しかけてきたわけではないようだが、この男と話しているとなんだか調子が狂う。
「はあ」
他に返事のしようもなくて、サンジは気の抜けた声を出した。それを意に介する風もなく、口いっぱいに食事を頬張りながらエースはなおも話しかけてきた。
「なあ、こんなところで何してんの。今みんな出征前で里帰りしてるのに、おまえは帰らないのか?これが最後かもしれないのに」
ああいいよな、とサンジは思った。温かく迎え入れられることが前提だからそんなことが言えるのだ。
「おれが帰っても誰も喜ばないので」
親切は時に無神経に人の心を抉る。
何が悲しくて自らこんな事を言わないといけないのだろうと天を仰ぎたい気持ちで、サンジは半ば投げやりに言った。どうせ親切にするなら、放っておいて欲しかった。そうすれば、自分を傷つけるようなことをわざわざ言わずに済んだのに。
「ごめん」
すぐにエースから返ってきた言葉は、サンジにとって意外なものだった。
そんな事ないよと知りもしないくせに慰められるか、気まずそうに黙り込むか。大方そんなところだろうと思っていたのに、まさか謝られるとは。しかも、真っ直ぐに自分を見るエースの瞳にも、その謝罪の言葉にも、同情や憐みといった感情は一切含まれていなかった。あるのは純粋な謝意だけだ。
サンジは、ささくれ立った心が急速に解れていくのを感じた。
「いえ……こちらこそ、すみませんでした」
小声でボソボソと謝るサンジに、エースが優しい眼差しを向ける。そんな風に人から見られることなど滅多にないので、なんとなく居心地が悪くなりサンジは話題を変えようと試みた。
「少尉殿はお帰りにならないんですか?」
「うん」
「家族は?いらっしゃらないんですか?」
「家族はいるよ。親父と、兄が一人に弟が一人。親父と兄は海軍なんだ。おまえガープ中将って知ってるか?あれうちの親父」
知ってるも何も、ガープ中将といえばこれまでの戦争で数々の戦績を残している海軍の英雄だ。
「軍人でガープ中将の名前を知らない人間なんていませんよ」
「まあ有名人ではあるよね。それからさ、弟はルフィっていって三歳下なんだけど、可愛いんだよなあこれが」
弟のことを思い出しているのか、目尻を下げてエースが幸せそうに笑う。
「とにかく自由な奴で、『おれは海に出て広い世界を冒険するんだ!』ってのが口癖なんだ。今は親父の意向で士官学校に入れられてるけど、ルフィはあんな窮屈で狭い世界に収まるタマじゃないから、今頃きっと退屈してるだろうな」
そこでいったん言葉は途切れ、暫しの間があった。
「……おれはさ、ルフィを軍人なんかにしたくないんだ。だから、今度の出征でこんなクソみたいな戦争さっさと終わらせてやる。ルフィがこの国から飛び出して行けるようにな」
「少尉殿!」
サンジは小声で鋭く言うと、素早くあたりに視線を走らせた。
現在この国において軍人となることは誉れであり、戦争は東の海にある国々を解放するという大義名分を掲げた聖戦であるとされている。しかし実際のところは単なる侵略戦争でしかなく、兵達は使い捨ての駒よろしく次々と命を落としているのが実情だった。なんとしてでも戦争を続けたい政府は厳しい情報統制を敷いてこの事実の隠蔽を図っており、戦争について少しでも悪く言う者にはひどい制裁が待っていた。軍隊などその最たるものであり、今の話を誰かに聞かれていればまずいどころの話じゃない。
「大丈夫だよ」
全く気にする風もなくエースが言った。
「今ここにはおれとおまえだけだ。おれだって口にしていい時とそうじゃない時くらい弁えてるさ」
「それにしたってこんなところでする話じゃないでしょう」
「まあ、それも一理あるか。この話はここまでにしよう」
そう言うとエースはシリアスな雰囲気を一瞬で消し去り、まだ皿の上に残っていた食事を豪快に口へと放り込んだ。
緊張が解けたせいか、突然サンジを疲労感が襲った。この男と話しているとペースが乱されていけない。おかげで、そんなに長い時間話しているわけじゃないのになんだかひどく疲れた。
気を取り直そうとタバコを口に持っていきかけたところで、フィルターぎりぎりまで灰になっていることに気づく。サンジは軽くため息をついて灰皿にタバコを押しつけると、新しいタバコを取り出して火をつけた。
「おれにも一本ちょうだい」
食事を終えたエースが正面から手を伸ばしてくる。
「どうぞ。安物ですけど」
新たに一本取り出して差し出し、燐寸で火をつけてやった。
「タバコ、吸うんですね」
「たまにな。おまえが吸ってるの見たらちょっと欲しくなった」
しばらく二人とも無言でプカプカと煙を吐き出した。タバコを吸う度に、ニコチンが体の隅々まで行き渡っていく。頭が冴えてきたところで、サンジは少し前に聞きそびれていたことを思い出した。
「そういえば、どうして少尉殿は弟さんに会いに帰らないのですか?」
単純に疑問だった。仮にそんな可愛い弟がいるとすれば、自分なら一目だけでも会っておきたいと思う。
「会いに戻ったら、離れ難くなっちまうだろ。だから、何があっても必ず生きて戻って、それから会いに行くって決めたんだ」
まだ長いタバコを、エースは灰皿に押し付けて消した。
「さっきおまえにはああ言ったけどさ、少なくともおれは死ぬことを前提に会いに戻るなんてごめんだね。そりゃ確かに戦場は常に死と隣り合わせだけど、百パーセント死ぬわけじゃない。おれが思うに、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされた時、生きることへの欲求が強い奴とか、未練——つまりこの世に命を繋ぎ止める楔がある奴の方が生き残る可能性が高い。何がなんでも生き残ろうとするからな。だからおれは、敢えて未練を残していくことにするよ」
そう言い切ったエースが、サンジにはひどく眩しく見えた。生きることへの欲求とか未練とか、自分には縁のないものばかりだ。そんな自分は、仮に生死の瀬戸際とやらに立たされたらきっとすぐに死ぬだろう。
「そろそろ行くわ。タバコ、ありがとな」
そんなことを考えていると、ガタンと音を立てエースがトレーを持って立ち上がった。向こうへと歩いていく後ろ姿を、タバコを吸いながら見るとはなしに見ていると、不意にエースが振り返った。
「おまえ、死に急ぐなよ」
軽い口調だったが、その目はひどく真剣な色を帯びていた。それからすぐにふっと目を綻ばせると、じゃあなと手をひらひら振りながら今度は振り返ることなく歩いて行った。
「死に急ぐな、ねえ」
自分は死にたがっているように見えるのだろうか。あながち間違ってもいないし、あんなことを言われたからといって考えを改めるつもりもない。けれど、エースの言葉はまるで小さな棘のようにチクリと刺さってサンジの中に入り込んだ。
その微かな痛みを振り払うように深く煙を吸い込むと、乱暴にタバコを灰皿に押し付けて火を消す。それから、温くて不味いビールを一気に流し込むと立ち上がった。
*
ゾロが帰営した時、兵営内に人気はほとんどなかった。与えられた休暇を使い切ることなく帰ってきたのでそれも当然だ。皆はまだ家族や友人、恋人など大事な人達と最後になるかもしれない時間を過ごしているのだろう。
自室に荷物を置くと、竹刀だけは再び背中に担いでゾロは真っ直ぐに酒保へと向かった。
サンジは帰省しないと言っていた。だから兵営内のどこかにいるはずだ。そしてそれは酒保だろうとゾロの直感が告げていた。
辿り着いた酒保には、案の定サンジの姿があった。誰もいないがらんとした広場に一人ぽつんと座りタバコをふかしている。その後ろ姿がなんだかひどく寂しく見えて、ゾロは早足でサンジの元へと進んだ。
「よう。退屈そうじゃねェか」
「ああゾロ。帰ってたのか。早かったな」
後ろから肩をポンと叩き、振り返ったサンジの顔に寂しい色が微塵も浮かんでいないのを認めてゾロは表情を緩めた。ゾロがサンジの向かいの椅子に腰を下ろすと、お疲れさんとタバコが一本差し出される。ありがたく頂戴して口に咥えると、サンジが顔を寄せてきてタバコの先端同士をくっつけた。チリリ、とゾロのタバコの先が赤く燃える。
初めてサンジにタバコをもらったあの日から、二人は時々こうやって一緒にタバコを吸う。そしてその時は、サンジが自分のタバコの火を分けてくれるのがいつしか習慣となっていた。
「休暇はまだあるんだ、もう少しゆっくりしてくればよかったのに」
「いや、十分だ」
おまえこそ帰らなくて良かったのか、とゾロは聞かなかった。サンジが自分で決めたことだ、そこに自分が口を挟む必要はない。だからその代わりにこう言った。
「なあ、いつもの河原行こうぜ」
ニヤリと笑うと、サンジもニヤリと笑みを返してきた。
「いいぜ。ちょうど体を動かしたいと思ってたとこだ」
ゾロは吸いかけのタバコを灰皿に押し付けて、サンジはそのまま咥えタバコで立ち上がる。
「どっちが先に河原に着くか競争だ」
サンジの声を合図に、二人は全力で駆け出した。
河原に着いたのはサンジが先だった。僅差でゾロが走り込んでくる。
「くっそ、あと少しだったのに!」
本気で悔しがるゾロに、サンジは笑って言った。
「ばーか。走りでおれに勝とうなんて百万年早いんだよ」
「うるせえ、喧嘩ならおれの勝ちだ」
ゾロが背中に担いでいた竹刀を取り出して真っ直ぐに構える。
サンジは咥えていたタバコを足で踏み消すと、軍靴の爪先をトントンと鳴らした。
「いーや、おれの勝ちだね」
ふっと腰を下ろし、二人同時に飛びかかる。
蹴って、振り下ろして、薙ぎ払って、突いて。生き生きと瞳を輝かせ、汗を飛び散らせる二人の、まるで演舞を見ているかのような、息のぴったり合った掛け合いが続く。
ようやく疲れが見えてきた頃、互いの放った一撃で同時に吹き飛ぶと、二人は草むらの上に大の字になって倒れ込んだ。荒い息に合わせて胸が忙しなく上下する。
「引き分けだな」
「いいや、おれの方が地面に着くのが一瞬遅かった。だからおれの勝ちだ」
「はあ?なんだよそのガキみたいな屁理屈」
「屁理屈だろうがなんだろうが勝ちは勝ちだ」
いやいやちょっと待て、と起きあがろうとしたサンジが、ほんの少し頭を持ち上げただけでまたすぐ大の字に逆戻りした。
「あー、ダメだ。起き上がれねェ」
「おれはまだ動ける。やっぱりおれの勝ちだな」
そう言ってゾロがやや緩慢な動きで立ち上がる。それから勝ち誇ったような顔で歩いてきたゾロの足を、にゅっと伸びてきたサンジの長い足が引っ掛けた。
「ぐえっ」
完全に油断していたゾロが、綺麗に顔面から着地して潰れたカエルのような声を出す。
「ブハハハハッ、油断するからだ。ざまあみろ」
サンジは腹を抱えてひとしきり笑うと、ゾロが動いたのを見て慌てて立ち上がった。すぐさま走って逃げようとする足を、今度はゾロが掴んで引っ張る。ビタン!と音を立ててサンジが顔から地面に突っ込んだ。
「いい気味め。油断してるのはそっちだろ」
「この野郎、やったな!」
がばりと起き上がったサンジが寝転ぶゾロに飛びかかる。
まるで子犬がじゃれ合うみたいに、二人は取っ組み合って草むらの上をゴロゴロと転がった。転がりすぎて目が回って、髪も軍服も葉っぱだらけになって、ようやく転がるのをやめると、二人はゲラゲラと声をあげて笑った。発作みたいな笑いが収まると、満ち足りた気持ちがひたひたと打ち寄せてくる。
川を渡る風が、汗ばんだ二人の肌を優しく撫でていった。
頭を突き合わせて草むらに手足を伸ばして寝転がり、心地よい疲労感に包まれて空を流れる雲を見ていると、戦争なんてものは遠い国の出来事で、自分達は明日も明後日もその次の日も、こうやって気の済むまで喧嘩して、ビールやタバコを片手に他愛のない話に耽るのだという気がしてくる。
けれど現実には出征が間近に迫り、殺すか殺されるかという戦場が自分達を待っている。
唐突に、サンジは気付いてしまった。
「なあゾロ。もしかしたら、こうやって一緒に喧嘩するのもこれが最後になっちまうのかな」
「……そうだな」
「死んじまったら、喧嘩できないもんな」
「……そうだな」
「おれ……おまえともう喧嘩できないのは、ちょっと嫌、かも」
ふと、頭の中に『死に急ぐなよ』というエースの言葉が甦った。
死にたくないと思ったことなどなかった。むしろエースの言う通り、死に場所を求めてやまない気持ちが確かに自分の中には存在している。
けれど、今初めて。
死にたくない、と思ってしまった。
これが未練というやつなのだろうか。
「……そうだな、おれもそれはちょっと嫌かもしんねェ」
ちらりとサンジの方を見て、ゾロはまた視線を空に戻した。
「おれ達、生きて帰ってこれるかな」
「さあ。どうだろうな」
そこで会話が途切れる。
青かった空に、オレンジ色が混ざり出した。いつの間にか夕方になっていたらしい。もう帰らなくてはならない。
どちらからともなく立ち上がると、二人は無言で兵営までの道を歩いた。
「じゃあな」
兵営に辿り着き、自分の部屋へと向かうために別れる段になってようやくサンジが口を開いた。
「じゃあな」
ゾロもそう言って軽く手を上げると、くるりと後ろを向いて歩いて行く。
「ゾロ!」
その後ろ姿に向かって、サンジが叫んだ。呼び止められたゾロが、立ち止まって振り返る。
「GOOD LUCK」
親指を立てて、綺麗に笑って。流れるような美しい発音でサンジが言った。
「グッド……なんて言ったんだ?」
「グッドラック。おれの故郷の言葉で、『幸運を祈る』って意味だ。発音うまいだろう?」
サンジが誇らしげに胸を張り、それから急に真面目な顔になる。
「……必ずまた生きて会おう」
小さな声だったけれど、それは確かにゾロの耳に届いた。
「ああ」
目を逸らさずに、しっかりと、強く頷く。そんなゾロを見てサンジは再び綺麗に笑うと、ゾロに背を向けて歩いて行った。
「……グッドラック」
その背中に向かってゾロも親指を立てる。小さな呟きは、サンジの耳に届くことなく空気に溶けて消えた。