仙人掌の花が咲いたなら

7th time

 面会室のドアが開く。
 一拍遅れて、金色の頭が覗いた。
 いつもと同じ白いスーツ、それから瞳と同じコバルトブルーのシャツに、丁寧に磨き上げられた黒の革靴。腕に抱えられた緑のサボテン。
 サンジーノが入ってきた途端、殺風景だった面会室が鮮やかに色づき、息づき始める。
 ここまではいつもの光景だ。
 しかし今日はそれだけではなかった。
 毎回必ず身につけられていたサングラスの黒が姿を消し、その下に隠されていた瞳の青が露わになっている。
 それから、丸く可愛らしい緑のサボテンのてっぺんには、小さく可憐な黄色い花が精一杯存在を主張するように咲き誇っていた。
 サンジーノは抱えていたサボテンの鉢をいつものように机の上に置くのではなく、足元にそっと置くと、黒いパイプ椅子に腰を下ろした。
 顔を上げ、まだ誰もいないアクリル板の向こうを見つめる。
 何かを決心したようなその瞳は、凪いだ海のように静かだ。

 少しすると、ドアが開いて囚人服に手錠姿のゾロシアがやってきた。
 向かい合って座ると、顔をあげて真っ直ぐにサンジーノを見る。
 無防備に晒された青い瞳を見ても、ゾロシアが前回のように我を忘れることはなかった。
 それは全てを思い出したからなのか、時間が経って冷静になったからなのか、サンジーノにはわからない。
 答えを探すようにゾロシアの目の奥をじっと見る。
 光を取り戻しつつある瞳の奥には、わずかにワインの澱のような濁りがあった。
 ということは、少なくとも全てを思い出したわけではないのだろう。
「記憶、まだ戻ってないんだな」
「どうしてわかる?」
「そんなの、目を見ればわかるさ」
「目、か」
 今度はゾロシアがサンジーノの瞳の奥を探る。
「おまえは、何かを腹に決めたような目だな」
 サンジーノは一瞬軽く目を見開いた後、かすかに笑った。
 肯定も否定もなかったが、別に答えを求めていたわけではなかったのでゾロシアは構わずに話題を変えた。
「サングラスはどうした?」
「もういいんだ、あれは」
 さっぱりとした表情でサンジーノが言った。
「それより、今日はお前に見せたいものがあるんだ」
 そう言って、サンジーノは足元にあったサボテンの鉢を机の上に置いた。
「ほら。今朝、咲いたんだ——サボテンの花」
「サボテンの……花?」
 ゾロシアが怪訝そうな顔をして、サボテンのてっぺんにちょこんと咲いた花を見ようとアクリル板に顔を寄せた。
「約束を覚えてるか?もしも、サボテンの花が咲いたなら——って」
 サンジーノの言葉に考え込むような素振りを見せたと思ったら、ゾロシアの目が突然一気に見開いた。
 続いて顔が苦悶に歪み、頭を抱え込んで苦しげな呻き声をあげ始めた。
 よほど痛むのか、呻き声は徐々に大きくなっていく。
 その様子をサンジーノは期待と不安がないまぜになったような、張り詰めた面持ちで食い入るように眺めた。
 最初のうちはいつもの頭痛かと傍観していた刑務官がさすがに放っておけないと慌てて近寄ってきたところで、ピタリとゾロシアの呻きが止まった。
「おい、大丈夫か」
「もう治まった、問題ない」
 肩に置かれた手を、ゾロシアが軽く振り払う。
 それから頭を抱えていた手を下ろすと、顔をあげ、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
 
 朝日が昇るように、澄み渡った金色の光が瞳を満たしていく。
 現れたのは、強く気高い、全てを統べる王者の目。
 
 その瞬間、サンジーノは悟った。
 ゾロシアは全てを思い出し、自分は賭けに勝ったのだと。
 安堵、喜悦、充足感。そんなものがひたひたと全身を満たしていく。
 サボテンの花が咲いていることに気づいた時、最後の賭けに出ることに決めた。
 これでダメなら、潔く身を引こう。そう思うくらいには、少なくとも自分にとってサボテンの花が咲くということは大事で意味のあることだった。
 
「やっと戻ったんだな」
 記憶が、とは口にしなかったが、ゾロシアには正しく伝わったようだった。
「ああ」
「で?覚えてるのか、あの約束」
 ゾロシアがニヤリと意味ありげな笑みを浮かべる。
「ああ……おれは今、おまえのことを殺したくてたまらねェ」
 囁くような掠れ声が耳に届いた瞬間、サンジーノの頭の中にいつかの光景が走馬灯のように流れ込んできた。
 
 
 
 草深い地。
 人目を忍ぶように建てられた一軒の家。
 一糸纏わぬ姿で泳ぐシーツの海。
 触れ合う肌。
 
 敵対するマフィアのボス同士、決して許されることのない関係だった。
 誰にも知られぬよう一人で行動できることなど滅多になく、会えるのは年に数度だけ。
 二人だけの秘密の隠れ家で落ち合い、慌ただしく体を重ねる。たまに自分が料理を作り一緒に食べることはあったけれど、共に夜を越すことなど一度もなかった。
 ベッドの上でおれを攻め立てながら、ゾロシアはよく「おまえのことを殺してやりてェ」と口にした。
 おれはその度に「ばぁか、その時はおまえも道連れだ。でもそう簡単には殺されてやらねェよ」と甘く掠れた声でゾロシアの耳に吹き込んだ。
 お互いに、それが精一杯の「愛してる」の表現だったのだ。
 そんな歪で制約だらけの関係でも、互いの肌に触れ合えるのなら、それで十分だった。
 
 あのサボテンは、花屋の店先で見かけて衝動的に買ったものだ。
 なんとなくゾロシアの頭に似てると思ったら、どうしても欲しくなった。
「ほら見ろよこれ、おまえの頭にそっくりだ」
 そう言ったらゾロシアは呆れたような顔をしていたけれど、おれは満足だった。
 サボテンには「トゲマリモちゃん」と名前をつけた。おれはサボテンを大切に育て、たまの逢瀬の時は必ず一緒に連れて行き隠れ家の窓辺に置いた。
 あれはいつだっただろう。
 性急に身体を重ねあった後、束の間まどろんでいた時に窓際のサボテンが目に入った。
「なあ知ってるか?このサボテン、花が咲くまでに二十年以上かかるらしい」
「へえ」
「この子は今、何歳くらいなんだろうな」
「さあなァ」
 眠たいのか生返事ばかり寄越すゾロシアに思い切りデコピンをしてやった。
「! 痛ェな」
「うるせェ、これがチャカだったらおまえとっくに死んでるぞ。——でも真面目な話、二十年後もまだ生きてんのかな、おれら」
 そんな先の未来に自分達が生きているのかも、この綱渡りの関係が続いているのかも、全く想像できなかった。でもだからこそ、無責任に夢物語を口にできたのかもしれない。
「あのさ、もしこのサボテンに花が咲いて、その時おれ達がまだ生きてこの関係が続いてたら。その時は、全部捨てて二人で生きるってのはどうだ」
 正直そんな日がくるとは思っていなかったから戯れに近い言葉だったし、そんな女々しい約束にゾロシアが首を縦に振るとも思えなかった。
「ああ、いいぜ。約束だ」
 だから、ゾロシアが存外真剣な顔をしてそう言った時は驚いた。
 そしてその日から、それが二人の間の密かな約束となったのだ。
 
 
 
 ——幾度も繰り返された「|殺してやりてェ《あいしてる》」
 それが、こいつの答えなら。
 
「もうおれを縛るものは何もない」
 唐突なサンジーノの言葉に、ゾロシアが首を傾げた。
「捨ててきたんだ、全部」
「そうか」
「ただ、これはおれが自分で勝手に決めて勝手にやったことだ。強要するつもりはない、おまえはおまえの好きにしろ」
「そんなの、答えは一つだろう」
 迷いなく、即座に返された答えにサンジーノが泣き笑いのような表情を浮かべた。
 しかしそれはすぐに不敵な笑みへと変わる。
「捨ててきたとはいっても、そう簡単に自由にさせてはもらえないだろうな。そもそもおまえはなんのケリもつけてないし、この先死んだ方がマシな地獄が待ってるかもしれないぜ?」
「構わねェよ、おまえさえいれば」
「バカだなあ、おまえ」
「おまえもな」
 二人の不穏な会話に、後ろに控えていた刑務官が立ち上がった。
「ところで、おれはもう一秒だって待てそうにないんだ」
 その姿を目の端で捉えたサンジーノが、立ち上がりながら言う。
「奇遇だな、おれもだ」
 ゾロシアも、続けて立ち上がる。
「それじゃあ、マフィアらしく力づくでいくとするか」
 サンジーノが右脚をスッと上げる。
「そりゃあいい」
 ゾロシアが手錠のついた両手を振り上げる。
 蹴りと、殴打と。衝撃は同時だった。
 刑務官が駆けつけるよりも早く、二人を隔てる透明な壁が砕け散る。
 すぐさま伸ばした手が重なり合い、温かさに触れた。
「行くぞ」
「ああ。どこまでも」
 強く手を握り合い、出口へと駆け出していく。
 
 たとえ行き着く先が天国だろうと地獄だろうと地の果てだろうと。二人一緒なら、もうどこへだって行けるのだ。

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