3.
「なあ、おまえから見て、おれはマトモか?」
エッグヘッドを脱出してようやく落ち着いた頃、久しぶりにカラダを重ねた後に、世間話でもするかのようにコックはおれにそう聞いた。
「……なんでそんなことを聞く?」
「質問に質問で返すなよ」
「少なくとも、今はマトモだろ」
抱き合っている最中、コックはいつものコックだった。快楽に身を任せつつ、決して受け身のみには収まらない、気を抜けばこちらを食わんとせんほどの強気な瞳。そのくせ、こちらの背中に爪痕一つすら付けまいとするいじらしさを見せる。この絶妙なバランスこそが、コックがコックである証だ。
それに、相変わらず女尊男卑が著しく、見慣れない食材とあらばガキみたいに目を輝かせ、作るメシはすべからく美味い。体の変化——やたらと硬い皮膚に異常な回復力——を除けば、コックはいつも通り、つまりはマトモだった。少なくとも、おれにはそう見えた。
ただ、エッグヘッドを出て以降、時折思い詰めたような顔をするのだけは気になっていた。脱出間際に、ベガパンクとCP0の女と真剣な顔をして何やらしばらく話し込んでいたが、それが関係しているのだろうか。
「それともなんだ、マトモじゃない自覚でもあるのか」
「……いや」
コックはうつ伏せから起き上がると、立てた片膝に気怠げに腕を乗せた。
仰向けに転がったおれの視線と、見下ろしてくるコックの視線が交差する。
「ただ、自分じゃ気づかないこともあるかもしれないだろ。だから聞いてみただけだ」
ごく自然な動作で、コックの目が微妙に逸らされた。
それでわかった。コックは嘘をついている。
既にもうマトモじゃなくなってきているのか、何か気になることがあったのかは知らないが、今ここでそれを問い詰める気にはならなかった。
目の前にいるコックがマトモに見えるのならば、おれにとってそれが全てだ。
「そうかよ」
「変なこと聞いて悪かったな」
話を切り上げたコックが、服と一緒に放り投げていたタバコの箱を手繰り寄せて一本咥える。すぐに手を伸ばし火をつける前のそれを抜き取ると、コックが睨みつけてきた。
「何しやがる」
「マトモかどうか、もう一度確かめてやろうと思ってな」
抜き取ったタバコを適当に放り、コックの腕を引く。
「……バカじゃねえの」
言葉とは裏腹に抵抗なく倒れ込んできた体を抱き止めると、つい今しがたの情事の名残を残し、まだやわく解れたままの場所へと手を伸ばした。
それからしばらくは何もなかった。
正確に言えば、「コックの身には」だ。
一方で、おれ達の航海は一つの区切りを迎えていた。
目の前に立ち塞がる敵を倒し、歴史の本文の導くままに進んで行った先で、おれ達はついにラフテルへと辿り着いた。
ルフィは海賊王になり、おれは鷹の目を倒し世界一の大剣豪に。ウソップは正真正銘の勇敢なる海の戦士となり、ロビンとフランキーの夢も叶った。
けれど、奇跡の海はまだその尻尾さえも掴めておらず、ナミとチョッパーはまだ夢半ば。それに、ラブーンに会いに行くという約束もまだ果たせていない。
結局誰一人船を降りることなく、おれ達十人を乗せたサニー号は更なる冒険へと旅立った。
ラフテルを出てから少しして迎えた、コックの誕生日。
誕生日当日は、皆の誕生日がそうであるように盛大な宴で飲めや歌えやの大騒ぎ。自分の誕生日の宴のために自ら腕を振るうコックは終始ご機嫌で、細々と動き回っては自分の作った料理を食べるおれ達を目を細めて眺めていた。
それがコックにとっての何よりの幸福だと知っている仲間達は、「主役なんだから」と時折諌めはするものの基本的にはコックのやりたいようにさせ、「美味い」「美味しい」と賛辞の言葉をシャワーのように浴びせかけていた。
それを受けてコックが、「クソ美味ェだろ」とニカリと笑う。
特に変わったことのない、いつも通りのあたたかな風景だった。
幸いと言うべきか、エッグヘッドを出て以降コックの体に新たな変化は起きていない。
それもあって、あまりにいつも通りな風景を眺めながら、きっとこの先もずっとコックはコックのままで、つまりはおれがコックを殺す日が来ることはないのかもしれないと、そんな楽観的なことを考えていた。
けれど誕生日を過ぎていくらか経った頃、そんなおれの考えを嘲笑うかのように、コックの体に新たな変化が起きた。
まずは、目。
コックの視力が異常によくなった。
チョッパーが診察した結果、コックは常人の十倍の視力があることがわかった。どうやら錐体細胞というものが異常に多くなっているらしく、そのせいでよく見えるらしい。普通ならばそれだけ遠くが見えると近くを見る時に負担がかかり目を痛めやすいはずであるのに、コックの目にはその形跡がないのが不思議だとチョッパーがしきりに首をひねっていた。
それから、耳。
聴力が異常によくなった。
イルカ並だと評されるほどのその聴力は、船の上にいながら海中の魚の群れを探し当て、おれ達の誰にも聞こえない音を正確に聞き取った。
変化は時間をかけて少しずつ進んだ。
耳の次は鼻で、嗅覚がチョッパーに引けを取らないくらいによくなった。
それからしばらくして、毒への耐性も獲得した。
厄介だったのは、その後に起きた変化だ。
コックは、疲労と眠気を感じにくい体になった。
もともと人一倍動き回り、睡眠もそう長い方ではなかったが、この変化が起きてからのコックは異常だった。眠れないせいで、戦闘があろうが嵐に遭遇しようが数日間は寝ずにひたすら活動し続ける。ただ、疲労を感じにくいとはいえ疲れが体に溜まらない訳ではないようで、日に日にやつれ顔色が悪くなったコックは限界を迎えるとぶっ倒れ、死んでしまったかのように昏々と眠った。それでも丸一日寝るなんてことはなく、六、七時間も眠るとすっかり回復して目を覚ました。
幽霊のように生気のない顔をして動き回る様はまるで自傷行為のようで、その痛々しさに仲間達は心を痛め、なんとか寝かしつけようと様々な方法を試みた。
ルフィはゴムの腕でぐるぐるに巻きついて無理やりベッドに寝かせ。
ナミはコックを酔わせて寝かせようと酒に付き合い。
ウソップは寝物語にと法螺話をいくつも聞かせ。
チョッパーはありとあらゆる睡眠薬を試し。
ロビンは安眠効果のあるハーブティーを淹れてやり。
フランキーは「寝つきがスーパー良くなる枕」を作ってやり。
ブルックはバイオリンで子守唄を奏で。
ジンベエは海中に潜り、揺りかごのように船底を優しく揺らした。
けれど、そのどれもがコックを寝かしつけるには至らず、ひどく申し訳なさそうな顔を向けるコックに仲間はさらに心を痛めた。
他に手はないかとチョッパーやロビンが片っ端から文献にあたり、同じく医者であるローやくれはに何度となく相談したが、結果は同じだった。
一方、おれはと言えば。
体力が尽きるまでコックを抱き潰した。それくらいしか、おれに出来ることはなかった。
しかし、体力を奪うという点では有用だったのか、抱き潰した後にはたいていコックはうつらうつらとうたた寝をした。タイミングが良ければ、そのまま熟睡することもあった。
腕の中で薄い瞼を閉じたコックの青白い寝顔を眺めながら、何度ひっそりと安堵の息を吐いたかしれない。
そしてコックの体に新たな変化が起き始めてから三年が過ぎた頃。
——コックは、味覚を失った。
夜のことだった。
日中ひどい嵐に巻き込まれ、その夜は皆疲れ切って早々に眠りについていた。
キッチンには、朝食の仕込みをするコックと、酒を飲むおれの二人きり。
おれは立ち働くコックを見るともなく見ながら、与えられたつまみを肴に酒瓶を傾けていた。
切り分けた肉を調味料らしき液に漬け込み終えたコックが、今度は火にかけていた鍋の蓋を開ける。途端に、美味そうな匂いが湯気と共にふわりと漂った。
「スープか?」
「ああ。この辺の海域は冷え込むから、明日の朝はクリームスープにしようと思ってな」
どれ、とコックが小皿に一口分のスープをすくい口をつける。こくりと白い喉に浮き出た喉仏が小さく上下し、そこでふいにコックの動きが止まった。
「?」
どうかしたのかと視線を上にずらしたところで、思わずおれの動きも止まる。
見上げた先で、コックの目が驚愕に大きく見開かれていた。その顔が徐々に色を失くし、人形のように固まったままの手からするりと小皿が滑り落ちる。実際には数秒にも満たない時間だったのだろうが、重力のままに床へと吸い込まれていく様がまるでスローモーションのようにひどくゆっくりと目に映った。
——バリン!
鋭い音が耳を刺し、ハッと我に返る。床の上で小皿は粉々に砕け散っていた。
「おい、コック」
呼びかけても、コックは茫然と虚空を見つめたまま微動だにしない。
「おい!」
立ち上がり、カウンターから身を乗り出して肩を掴んで揺さぶると、ようやく焦点を結んだ目がこちらを見た。その顔はひどく青ざめている。
「あ? ああ……」
「『ああ』じゃねえよ、ひでえ顔色しやがって。一体どうした?」
「何って別に……うわ」
そこでようやく小皿が割れていることに気づいたらしいコックが慌ててしゃがみ込もうとするのを、掴んだままの肩を押さえて止める。
「まだ話が終わってねェ」
「だから何もないって——」
「嘘をつくな」
コックの体がわかりやすくビクリと揺れた。
「何もないこたァないだろう。明らかに動揺してやがんじゃねェか」
「……っ、」
取り繕うだけの余裕もないのか、コックはあからさまに目を逸らし、青ざめたままの顔で唇を噛み締めた。いつも平然と嘘をつく男がこれほどまでに動揺するとは、余程のことがあったに違いない。それも、状況からしておそらくはコック自身に。
ほんの数分前のことを思い出す。
あれは、スープの味見をした直後だった。驚くほど不味かった、なんてことはコックの場合あり得ない。だとすれば?
ここ数年続いているコックの体の変化が頭を過《よ》ぎる。視覚や聴覚、嗅覚。五感の変化。より優れていく能力と、欠落していくものと。そこから導かれること、それは——。
「もしかして……味覚か?」
この時のコックの顔をなんと形容すればいいだろう。あらゆる負の感情をないまぜにしたようなその表情を見て、答えを聞かずとも、自分の出した答えが正しいのだとわかってしまった。
「……そうなんだな」
コックの顔から少しずつ感情が抜け落ちてゆく。呆然とした眼差しだけを残し抜け殻のようになった頃に、ようやくコックは口を開いた。
「さっきまでは何ともなかったんだ……なのに。味が、しねェんだ」
「全くしないのか」
こんな時でもどこまでも澄んで青い瞳を覗き込むようにすると、空っぽの表情のまま、視線だけがこちらに向けられた。
「砂を、噛んだみてェだった」
「もう一度確かめてみろ」
肩を掴んでいた手を離し、倒れこまないのを確認してからカウンターを回り込んでコックの隣に立つ。点いたままのコンロの火を消すと、適当な皿を取り出してスープをすくった。その皿を、コックの目の前に突き出す。
「飲め」
ぼんやりと皿に視線は向けるものの、コックは動こうとしない。
「ほら」
焦れてもう一度皿を突き出すと、のろのろと上がった手がかろうじて皿を掴んだ。しかし、躊躇うようにしてそこで再び動きが止まる。仕方がないので皿を持つ手を上から握りこむようにして半ば無理やり口元へと持っていくと、そのままスープを流し込んだ。
「どうだ」
「……同じだ。味がしねェ」
「……そうか」
空になった皿をコックの手から取り上げると、もう一度スープをすくった。それを、今度は自分の口に含む。熱くとろりとした液体が口内に広がり、ほどよい塩気とコク、それにほんのりとした甘みを味蕾が拾う。
「美味い」
真っ直ぐに目を見てそう伝えると、コックの顔が一瞬にして張り詰めた。
「いつものテメェの味だ。美味い」
コックがくしゃりと顔を歪ませる。それはすぐに何かを堪えるようなものへと変わり、そのままふいと俯いてしまった。さらりと垂れてきた金糸に覆われ、表情が見えなくなる。
照明の光を弾いて明るさを増した金を、おれはただ黙って見つめた。
コックであるこの男にとって、味覚がなくなるというのがどういうことか、わかるつもりだった。それはおそらく、剣士であるおれが刀を失う、あるいは刀を持てなくなることと同義だろう。
自分の有り様に、魂に関わること。だからこそ、自分で乗り越えなければならない。
同情や慰めの言葉をかけるのは簡単だ。けれどそんなものは何の役にも立たないし、コックも望んでなどいないだろう。そもそも、そんな甘ったれた関係など、初めからおれ達二人の間にはありはしない。
つまるところ、今おれがコックにしてやれることは何もなかった。
だからおれは、手にした皿をシンクに置いて水を張り、床の上に散らばる破片を片付けるべく箒とちりとりを取ってきて床にしゃがみ込んだ。細かな破片が残らないよう、丁寧に破片を掃き集める。一ヶ所にまとめた破片をちりとりに入れようとしたところで、頭上からぽつりと言葉が降ってきた。
「覚悟はしてたんだ」
意図的に感情を排除しているのか、平坦な声だった。
「五感に変化が起きてから、いつかこういう事も起こりうるんじゃないかって、ずっと考えてた。もちろん、そうならなきゃいいとは思ってたが、覚悟もしてた」
だけど、とコックが続ける。
「いざその時が来たら動揺しちまった。情けないところを見せて、悪かったな」
眉尻を下げ、申し訳なさそうにコックがかすかに笑った。
「んだよ、その顔」
軽く息をつき、集めた破片はそのままに立ち上がる。
「え?」
「まあ、そんな顔ができるってことはまだてめェはマトモってことだな」
「こんなんで……マトモって言えんのかな、今のおれ」
「ああ」
「……そっか」
軽い口調だったが、俯き加減のコックは何かを嚙み締めるような、そんな顔をしていた。
それからふいに顔を上げると、一変してどこか吹っ切れたような表情でこちらを見た。
「なあ、みんなには言うなよ」
「黙っとくつもりか? 隠しきれねェぞ」
「ちゃんと言うさ。ただ、みんなにはおれの口から伝えたいんだ。だからゾロ、おまえは言うな」
「わかった。……で、テメェはどうするつもりなんだ」
「そうだなぁ」
どこか遠い目をしてコックが言う。おれにはわかる。続く言葉はおそらく一つ。
「これじゃあメシが作れねェし、船を降りるよ」
コックの放った言葉は、概ねおれの予想通りだった。
「降りてどうする」
「そんなん、オールブルーを探すに決まってんだろ」
「ルフィが認めるかわかんねェぞ」
「それでも、降りる」
静かだが強い声だった。揺らぐことのないであろう決意。近いうちに必ずコックは船を降りる。きっと、ルフィでも止めることはできない。それならば——。
「なら、おれも降りる」
「はぁ!? なんでおまえが降りるんだよ。関係ねェだろ」
「関係ならある」
「ねェよ」
どうやら本気でわかってないらしいコックをじろりと睨みつけた。
「テメェとの約束があるだろうが。だから、隣にいてマトモかどうか見張っといてやる」
「いや、だからってなにもおまえまで船を降りることは——」
「おい。テメェにとってあの約束はその程度のものなのか」
コックがはっと息を呑む。
「おれは、そんな軽い気持ちで約束したつもりはねェ」
睨みつけるおれと、目を見開いたコックと。二つの視線が真正面からぶつかり合う。睨み合いのような時間が続き、やがて、視線は逸らさないままにコックが口を開いた。
「違う」
「なら異論はないだろう」
「……そうだな。悪かった」
「悪いと思うなら、二度と中途半端なことを口にするな」
「ああ」
「……話はついたな」
あとは頼む、と手にしたままの箒とちりとりをコックに押し付けると、残っていた酒とつまみを空にする。
「ご馳走さん。つまみ、美味かった」
最後にそれだけ言いおくと、見張りに戻るべくキッチンを後にした。
*
「ルフィ、話があるんだ」
とある日の朝食の席でコックがそう切り出したのは、あの夜からしばらく経ってからのことだった。
「話ってなんだぁ? サンジ」
相も変わらず旺盛な食欲で、はちきれんばかりに膨れた腹をさすりながらルフィが呑気に聞き返す。そんなルフィの目の前に立つと、コックはいつになく真面目な顔で姿勢を正した。コックの纏うどこか張り詰めた空気に、食後のティータイムを楽しんでいた他のクルー達も何事かと二人に視線を向ける。
「船長《キャプテン》、おれに船を降りる許可をくれ」
途端にテーブルのあちこちから上がった驚きの声を手のひら一つで黙らせると、ルフィは顔から笑みを消してコックを見上げた。
「理由は?」
ルフィにそう問われ、コックが躊躇うように目を伏せる。けれど、すぐ意を決したように顔を上げると皆の方に向き直った。
「ルフィ、それにみんなに言わないといけないことがある。実は……少し前から味覚がなくなっちまったんだ」
そんな、とナミが短く悲鳴をあげる。周りを見れば、程度の差こそあれ皆それぞれに動揺が顔に表れていた。表情ひとつ変わらないのはルフィだけだ。
「ほ、本当なのかよ、サンジ」
「ああ、本当だ」
「少し前って……おれ、医者なのに全然気づけなかった……」
「チョッパー、おまえは悪くないさ。黙って隠してたおれが悪い。ごめんな」
「味がわからないというのはどの程度なの? サンジの作るご飯はいつも通り美味しかったけれど」
「ロビンちゃん、ありがとう。味は全然わからない——何を食べても味がしないんだ。レシピ通りに作ったからそれなりにいつもの味を再現できたんだと思う。それに……」
そこでコックはチラリとおれの方に視線を寄越した。
「あら。ゾロがどうかしたの」
目敏くそれに気づいたらしいロビンが興味深げに問う。
「ゾロに、その……味見してもらってたんだ」
ルフィとコック以外、全員が一斉にこちらを振り返った。
「なんだよ」
「ゾロさんは知っていらっしゃったんですね」
味見をしていた、その言葉の意味をブルックは正しく理解したらしい。相変わらず察しの良い男だ。
「ああ。成り行きでな」
「知ってたならどうしてすぐ言わなかったのよ!」
ナミの咎めるような声が響いた。すぐにヒステリーを起こすところは相変わらずだ。心の中でそう独りごち、目尻を吊り上げたナミに向かって溜息と共に言葉を吐き出した。
「コックが言わねえのにおれが勝手に話す道理はねェよ」
「そうかもしれないけど、でも!」
「いいんだ、ナミさん」
さらに言い募ろうとするナミを、コックの静かな声が遮った。
「おれがゾロに頼んだんだ。みんなには言わないでくれって」
「どうしてそんなこと——」
「大事なことだから、ちゃんと自分の口からみんなに伝えたかったんだ。——言うのが遅くなってごめん」
「謝るくらいならもっと早く言いなさいよ……ばか」
「うん、ごめんね。ナミさん」
繰り返される謝罪の言葉にナミが唇を噛み締める。
ナミの気持ちもわからないでもなかった。これまでの航海を経て多少は人に頼ることを覚えたコックではあるが、こんな大事なことを相談すらしてもらえなかったのだから、ナミの悔しさや遣る瀬無さは押して知るべしだ。
「ところでよォ、一度なくなった味覚ってのはもう戻らねェのか?」
静まり返った空気を破ったのはフランキーだった。
「そ、そうだ! おれ調べてみるよ。何か治療法が見つかるかもしれない」
「確かにそうね。私も文献をあたってみましょうか」
見るからにしょぼくれていたチョッパーがやにわに活気を取り戻し、それを後押しするようにロビンが言葉を繋ぐ。そういえば治る可能性があるのかどうかは確認していなかったと耳に意識を集中させたところで、それまで黙り込んでいたルフィが徐に口を開いた。
「で、治るのか? サンジ」
皆の視線が再びコックに集中する。
「あー……」
言い淀みつつ、胸ポケットのあたりで彷徨わせた手を誤魔化すようにさらに上へと持ち上げて、コックはガシガシと頭を掻いた。金色の髪が空気を孕んでわずかに乱れる。
「水を差すみたいで言いにくいんだけどよ……一度失った味覚は、もう二度と戻らねェと思う」
「なんでそんなこと言うんだよ! まだ調べてもないのにわかんねェだろ!」
半泣きになって食ってかかるチョッパーの肩にふわりと手が咲く。ロビンだ。咲かせた手で宥めるように背中を撫でてやっていると、チョッパーの隣に座っていたジンベエが水色のふかふかの帽子の上にぽんと手を置き、それからコックの方を見た。
「断定するような口調じゃが、何か心当たりでもあるのか?」
コックはすぐには答えず、今度は迷いなく胸ポケットへと手を伸ばすと煙草を一本取り出して口に咥えた。キンと短く澄んだ音が響き、次いでシュッという摩擦音が耳に届く。わずかに俯けた顔の口元を覆う手が離れると、ふわりと嗅ぎ慣れた匂いが広がった。皆が固唾を飲んで見守る中、その薄い唇から細く長く紫煙が吐き出される。
「みんなも知っての通りだが」
たっぷりと時間をかけて煙を全て吐き出すと、ようやくコックが口を開いた。
「おれの体には少しずつ異変が起こってる。そして、そのどれもが今のところ治る気配はない。眠れなくなったのだって、みんながあれだけ調べてあらゆる手を尽くしてくれたのに良くならないままだ」
そこでもう一度コックが煙草を吸った。チリとオレンジ色の火が灯り、その部分が灰に変わっていく。
「おれの体の変化は、おそらく血統因子ってやつが原因だ。つまりは科学の分野だな。——数年前、体の変化が起こり始めてすぐの頃に、おれはエッグヘッドでベガパンクに聞いた。変化を止めることができるのか、ってな。その質問にベガパンクはこう答えた。『いわば時限爆弾みたいなもんじゃな。スイッチが入らなければ何も起こらない。じゃが、スイッチが入る、つまり血統因子が一度発現してしまえばもうどうすることもできんのじゃ。変化が一気に進むのか、時間をかけてじわじわと進むのかはケースバイケースじゃが、いずれにせよ変化は進みこそすれ戻りも止まりもしない』ってな」
ゆっくりと、コックが煙草を吸った。長くなった灰が、重さに耐えきれずポトリと床に落ちる。
「スイッチは入っちまった。だからもう、どうすることもできない」
でも、と声を上げたチョッパーをコックが手で制する。
「もちろん、おれも自分で可能な限り調べたさ。でもベガパンクの言う通り、今のところ打つ手はないみてェだ。もしかするとこの先何かいい方法が見つかるかもしれねェけど、それまでの間、味覚のない状態でこの船の食事の責任を負うことはできない。おれはこの船のコックだ。コックとしての役割を果たすことができないなら、おれは船を降りる」
こいつがコックという仕事に対してどれだけ誇りを持っているか、この船に乗る誰もが知っている。だからこそ、それ以上誰も何も言うことはできなかった。——この船の船長である、ルフィを除いて。
「諦めるわけじゃないんだな?」
ただ一人、言葉を発したルフィの問いにコックは小さく頷いた。
「ああ。まだ可能性はゼロと決まったわけじゃない。何か方法はないか探し続けるつもりだ」
「オールブルーは」
「もちろん探すさ。おれの夢だからな」
そこでようやく、ルフィはニカリと笑った。
「それならいい。船、降りていいぞ」
「……ありがとう、船長」
噛み締めるように言う声を聞きながら、おれは立ち上がりコックの横へと並び立った。
「話はついたみてェだな。——ルフィ、おれもコックと一緒に船を降りる」
「あ? なんでゾロも降りるんだ?」
ある意味当然の疑問をルフィが投げかける。
「そうよ、なんであんたまで降りるとか言いだすのよ」
「ええ、ゾロまで降りちまうのか!?」
「これはまた突然ですねえ」
「おいおいおい、マジかよゾロ〜。冗談だろ?」
他にもあれこれとかけられる声を適当に聞き流しながら、おれは真っ向からルフィを見据えた。
「こいつと、約束をした。その約束を守るにはおれも船を降りなきゃならねェ」
「……それは大事な約束なのか」
「ああ」
視線がぶつかり合う。と、ふいにルフィが破顔した。
「そっか。ならいいぞ」
「ちょっと、ルフィ!」
「何だよナミ」
「サンジ君だけじゃなくてゾロも船を降りるだなんて、そんな大事なこと、こんな簡単に決めないでよ!」
「でももう決めたんだ」
「決めたって……あのね、二人が抜けるってことは、戦闘力が大幅にダウンするってことなのよ」
「大丈夫、おれ強えし。それにみんなも十分強えだろ」
ニシシ、とルフィが笑う。
「いやいやいやそれほどでも……ってちがーう! いや違くないけど!! 仮に戦闘面での穴は何とかなるとしても、問題は食事だわ。サンジ君が船を降りるなら何か対策を練らないと」
「そのことなんだけど、ナミさん」
それまで黙ってやり取りを眺めていたコックが口を開いた。
「傘下の船のコックで腕も度胸もある奴を一人鍛えといた。ルフィさえ良ければいつでもこの船のコックとして働けるはずだ。他にも何人か目をかけてた奴もいるし、一人で回らないようならそいつらにも声かけてくれ。それに、食材の保存方法や加工法、レシピなんかを書いたノートがあるから、それも役に立つと思う」
「……呆れた」
ナミが大きく溜息をついた。
「大事なこと言うのが遅いと思ったら、隠れてそんなことしてたのね。一人で何とかしようとしないで、みんなに相談してくれればよかったのに」
「でも、これはおれの仕事だから」
ナミの目にどこか寂しげな色が滲む。
「そう……まあいいわ。二人が抜けてもこの船は何とかなるってことね。それで? いつ頃船を降りるかは決めてるの?」
「具体的には決めてないけど、仕事の引き継ぎが出来次第早めに降りようとは思ってる」
「わかったわ。じゃあ私はあんた達が降りても問題なさそうな島を探して連れてってあげる。それくらいはさせてもらうわよ——いいでしょ、ルフィ」
「おう。問題ねェぞ」
「アーウ! そしたらおれは小型船を作ってやるぜ。この先足が必要だろ?」
「ああそうだな。頼むよ、フランキー」
「スーパー任せろ!!」
「じゃあおれは救急道具持たせてやるからな」
「おれ様の素晴らしい発明品も持ってけよ!」
次々に温かな言葉をかけられる中、コックがふいに下を向いた。
「みんな、ごめん……ありがとう」
小さく、掠れた声だった。
「あら。謝る必要はないわ、サンジ」
ロビンがにっこりと、でも見えない圧を感じる笑顔を向ける。
「そうですよ。さあ、顔を上げてください」
「私達にできることはこれくらいしかないんだから。こういう時は大人しく甘えとけばいいのよ」
「おまえさんにはいつも世話になってばかりじゃからのう」
「でも……」
「おいコック、柄にもなくしおらしくしてんじゃねェよ。気持ち悪ィ。いつものデカい態度はどうした」
「ああん!? 態度がデカいのはテメェの方だろクソマリモ!」
いつまでもうじうじした様子なのが気に入らなくてつい喧嘩を売ると、いとも簡単に挑発に乗ったコックがチンピラよろしく睨みつけてきた。その反応が久しぶりな気がして、思わず口角が緩む。
「そりゃテメェの方だろクソコック」
「ああん!? やんのかコラ」
「上等だ」
「いい加減にして!」
額をグリグリと突き合わせて睨み合い、互いに刀と足が出そうになったところで脳天にナミの天候棒《クリマ・タクト》が降ってきた。
「ったく、そんなんでこの先二人でやっていけるのかしら。——とにかく、これからの動きを相談しましょう」
「そんなことより、まずは宴だ、宴!」
「アホかー!!」
ナミの天候棒が、今度はルフィの頭に思い切り振り下ろされた。
それから約一ヶ月後。海軍の手の届かない、とある島で。
仲間達からたくさんの餞別の品と共に送り出され、おれとコックは船を降りた。