天国だろうと、地獄だろうと

6.

 パチンとスイッチが入るように、唐突に覚醒した。
 まばたきを数回繰り返すうちにぼやけた視界が鮮明になる。一面の白。ここはいったいどこなのだろう。何か手がかりはないかと顔を少し横に向けると、やわらかく清潔な香りのするものが頬に触れた。これは、枕? 掛け布団だろうか、視線を下にずらせば、体には薄手のふわふわとしたものが掛けられていた。どうやら自分はベッドに寝かされているらしい。枕の下の淡いブルーのシーツと、揃いの布団カバーには見覚えがある。
「家……?」
 どうして自分が家のベッドで寝ているのかわからなかった。トラムの店に行って、胸糞悪い海賊野郎どもと店の外に出たところまでは覚えている。たしか、薄暗い路地に連れ込まれて——そこからあとの記憶がすっぽりと抜け落ちていた。記憶をなくすほど酒は飲んでいない。自分の味覚が正しければクスリを盛られたなんてこともないはずだ。なのになぜ。
 思い出そうとすると頭が鈍く痛んで吐き気がした。冷たい水でも飲もう。そう思って起き上がることにする。ゆっくりと上半身を起こせばくらりと目眩がしたのを目をつぶってやり過ごし、落ち着いたところであたりを見回した。
 開け放たれたクローゼットの中には緑のロングコートが見える。白い窓枠の腰窓では、風をはらんでマリンブルーのカーテンがふんわりと波打っている。部屋の中には、大きめのベッドの他は小さなサイドテーブルがあるだけで、余計なものは何もなかった。見覚えのある光景に確信する。間違いない。ここはゾロと二人で暮らすアパートの寝室だ。
 部屋の中にゾロの姿はなかった。扉の向こうにも気配がないので、どこかに出掛けているのだろうか。
 ベッドの脇に並べて置いてあった、なぜかどす黒いシミがついた靴を履くと、扉を開けて寝室を出た。
 家の中にはやはりゾロはいないようだった。
 ダイニングテーブルに何かが置いてあるのが見えたが、ひとまず冷蔵庫に直行し、水のボトルを取り出してグラスに注ぐと一気に飲み干す。目が覚めるような冷たさに、薄く靄がかかったようだった頭が一気にクリアになる。気づけば頭痛と吐き気は綺麗さっぱりなくなっていた。
 気分が落ち着いたところでダイニングテーブルに引き返す。テーブルの上には、ザルをかぶせた皿と書き置きが一枚あった。
 
『仕事に行ってくる。夜までには戻る』
 
 いないと思えばどうやら仕事に出ているらしい。ゾロに話を聞くつもりだったのに当てが外れた。さてどうしようかと考えながらザルを取り去ると、皿にはピラフが盛られていた。
 仕事に行く前に作ってくれたのだろうか。そんなことを思いつつこんもりと盛られたピラフを見ていたら、キュウと腹が鳴って空腹を知らせてきた。ありがたくいただくことにして席につく。
「いただきます」
 行儀よく手を合わせたところではたと気がついた。朝食にしてはやや重めのメニューだ。ということはこれは昼食のつもりで作られたものだろうか。そもそも今何時だ? というか仕事は?
 慌てて電伝虫を掴み取ると、職場であるマーレへと回線を繋いだ。
『もしもし、サンジか? 調子はどうだ?』
 電伝虫から聞こえてきたのはボブの声だった。こちら気遣うような声音と、紡がれる言葉に引っ掛かりを覚える。
「調子?」
『今朝ゾロが店に来て、サンジの調子が悪いから今日は休ませてくれって言うもんだから心配してたんだよ』
「あ、ああ……悪い。寝てたらだいぶ良くなったんで、明日にはまた仕事に出れるはずだ」
『そうか。それならよかった。帰りに店に寄るようゾロに伝えてあるから、何か精がつくものを持たせるよ』
「いつも悪いな、ボブ」
『なに、気にするな。じゃあお大事に』
「ああ、ありがとう」
 ガチャリと音を立てて通話が切れる。
 いつまでもおれが起きなかったせいか、ゾロが気を利かせてマーレに休みの連絡をしてくれたらしい。おかげで仕事の件はなんとかなった。あとで礼を言わなきゃならない。ボブの話ぶりから察するに何日も寝ていたわけではなさそうだが、今が昼だとするとおそらく最低でも半日近くは寝ていたことになる。
 そもそもが不眠、眠れたとしても六、七時間が関の山である自分がそんなに長い時間寝ていたなんておかしな話だ。記憶が抜け落ちていることと何か関係があるのだろうか。
 せっかくゾロが作ってくれたというのになんの味も感じられないピラフをもそもそと食べながら、もう一度昨夜の記憶をなぞった。何度思い返してみても、クソ海賊どもに路地に連れ込まれてから家のベッドで目覚めるまでの間が、本のページを破りとってしまったかのように抜け落ちている。
 けれど辛うじて、一つだけ思い出せたことがあった。たしか、路地に連れ込まれた時にレディが一人いたような——。
 再び頭痛が襲ってきて、おれはそれ以上考えるのをやめた。
 思い出せないのであれば、行動をなぞるしかない。あの場所に行ってみれば、何か失った記憶の手掛かりになるものがあるかもしれない。夕方までここでぼんやりとゾロを待っていても時間の無駄だし、一人で行ってみることにしよう。
 善は急げとばかりに手早く片付けと身支度をすませる。少し悩んだが、書き置きは残さなかった。トラムの店まで行って帰って約一時間。店の周りを見て回ったとしても、ゾロより帰りが遅くなることはないだろう。
 
 
 昨日はゾロと一緒に歩いた道を、一人で歩く。考えてみれば、昼にこの辺にやってくるのは久しぶりだった。
 明るい昼の光にさらされた通りは閑散としていて、夜以上にうらぶれて見える。明かりの消えた娼館の看板がひどく寒々しい。
 うら寂しい街並みを眺めながらぶらぶらと歩いていくと、トラムの店の前に辿り着いた。当たり前だが、この時間店は閉まっている。万が一と引いてみた扉には鍵がかかっていた。
 トラムに話を聞くという選択肢は消え去ったので、連れ込まれた路地に行ってみることにする。この辺りは細い路地が無数にあるため、さて一体どの路地だったかと昨夜の記憶の断片を頼りに店の近くを歩き回っている時だった。
「ヒッ」
 後ろから、息を呑む細く高い音が聞こえた。何ごとかと振り向くと、綺麗なレディが一人、怯えきった様子でこっちを見ている。あの子はたしかこのあたりの娼館で働いている子で……そう、「ベル」という名前だったはずだ。
「ベルちゃん、だよね。どうしたの」
 いったい彼女は何をそんなに怯えているのか。
「何かあったのかい?」
 怖がらせないよう、優しく話しかけながら一歩前に近づくと、彼女が慌てて一歩後ろに下がった。人通りのない路地に、彼女のヒールの音が虚しく響く。
「こ、こっちに来ないで!」
「え?」
「人殺しッ!!」
 唐突に投げつけられた物騒な言葉に思わずたじろぐ。
「ちょ、ちょっと待って、ベルちゃん。どうして急に『人殺し』だなんて」
「しらばっくれないで! 昨日の夜、わたし見たもの!」
 じりじりと後退りしながら彼女が叫ぶのを聞いて、ふいに昨夜の光景が断片的に蘇った。
 暗い路地、海賊どもの下卑た笑い声、嫌がるレディ——あれは、ベルちゃん?
「昨日の夜……もしかして、あの場に居合わせたのは、君……?」
「そうよ。助けてくれたことには感謝してる。でも、あなたがあんな酷いことをする人だったなんて」
 彼女の言葉が鍵となった。閉ざされていた蓋が開き、少しずつ鮮明になる記憶。
 そうだ、おれがあの海賊どもに路地に連れて行かれた時、ちょうどベルちゃんが通りかかったんだ。あいつら、おれだけじゃなくベルちゃんにまで手を出そうとしやがったから、彼女に手を出さないことを条件にあいつらの汚ねえイチモツを咥えてやろうとして——。
 ズキン、と頭に痛みが走った。痛みに思考が散らされて、そこから先が思い出せない。けれどおそらくは、その後に何かがあったのだ。彼女をここまで怖がらせるような何かが。
 これ以上思い出すなと頭の中で警告が鳴り響いている。知りたくない気持ちと、知らなければならないと思う気持ちと。両方がせめぎ合った結果、おれは恐る恐る彼女に尋ねていた。
「酷いことって、おれはいったい何を……?」
「まだしらばっくれるつもり? いくらなんでも、あんなこと……っ」
 彼女の顔が嫌悪で歪む。
 それほどまでに酷いことをおれはしたのだろうか。思い出そうとするのに、ひどくなる一方の頭痛が邪魔をする。
 ぐわんぐわんと脳みそを鷲掴んで揺らされるような痛みに、怯える彼女の顔がぐにゃりと歪む。頭痛からくる猛烈な吐き気に思わず口を押さえて下を向くと、狭まる視界の中、靴のシミが目に入った。身に覚えのない、まるで血痕のようなどす黒いシミ。もしこれが本当に血痕だとすれば。彼女の反応からするにあの海賊どもの血で、おそらく、俺が記憶をなくしている間についたものだ。
 その時ふいに、何年も前のエッグヘッドでの出来事を思い出した。
 コジンベエとの戦いの最中にあやふやになった記憶。我に返った時、目の前に転がっていた、原型をとどめないほどに蹴り潰されたコジンベエ。自分がやったという記憶はなかった。けれど、やったのは俺だった。ナミさんとブルックという目撃者がいたのだ。間違いない。
 あの頃すでに、レイドスーツを使った影響かおれには外骨格と異常な回復力が発現していた。そして、あいつらのように心までも失ってしまうのではないか——つまりは人間の見た目をした、「人間ではない何か」になってしまうのではないかと密かに恐れていた。
 だからおれは、ぐちゃぐちゃになったコジンベエを前に、恐れていたことが現実になってしまったと戦慄した。少しずつなのか一気になのかはわからないが、心を失ってしまうのかと絶望した。
 しかし、そんな不安も絶望も杞憂だとでも言うように、それ以降おれが心を失うことはなかった。体の方は着実に人間離れした変化を遂げていたが、心だけはおれのままでいられた。
 そんな状態がもう十年以上だ。このまま心だけは失わずにいられるのではないかと思ってもおかしくはないだろう? そう、おれは心のどこかで油断していた。それなのに、この状況はまるで——。
 思い当たってしまった結論に、心臓がドクドクと嫌な感じで脈打ち手足の先が急速に冷えていく。まるで奈落の底に落ちていくように平衡感覚を失った体がぐらりとよろめき、倒れまいと手を伸ばしたところで、彼女の目が恐怖で見開かれたのを視界の隅で捉えた。
「いやよ……いや! お願いだから殺さないでっ!!」
 彼女は半狂乱で叫びながら後退り、そのままくるりと向きを変えると足を縺れさせながらも死に物狂いで逃げ出した。
「た、頼む、待ってくれ……!」
 呼び止める声も虚しく、彼女は角を曲がって走り去っていく。路地にはただ一人、呆然と立ち尽くすおれだけが取り残された。
「いや、まさか……でも……」
 再びぐらりとよろめくのに今度は逆らわず、地面に座り込むと俯いて頭を抱え込んだ。
 受け入れたくはない。信じたくなんかない。けれど、記憶の抜けているあの空白の時間に心を失っていたと考えると全ての辻褄が合う。なぜ部分的に記憶がないのかも、靴のシミも、彼女があれほどまでに怯えていた理由も。
 もしかすると、彼女にも手をかけようとしたのかもしれない。他でもない、このおれがレディを手にかけるなど信じたくもないが、心を失っている間にレディに手をあげていないと断言する自信はなかった。
 
 ——ゾロは、何か知っているだろうか。
 
 結局のところ、何もかも推測の域を出ない。事実確認のためには、やはりゾロに話を聞くしかないだろう。直前まで一緒に飲んでいたのだし、なかなか戻ってこないおれの様子を見に来た可能性は高い。タイミングによっては心を失っている状態のおれを見たかもしれない。
 でも、じゃあなぜおれは生きているのだろう?
 ふと、そんな至極単純な疑問が浮かんだ。ゾロは一度交わした約束は必ず守る男だ。もしゾロが正気じゃないおれを見たのなら、今頃おれはこの世にいないはず。まさかゾロに限って土壇場で躊躇したなんてことはないだろうし、おれが今生きてここにいるということは、やっぱりゾロは正気じゃないおれのことは見ていない?
 ああダメだ、ここでグルグル考えても埒があかない。とにかくまずは家に帰らないと。
 頭痛も吐き気もさっきよりはマシになっていた。これならなんとか歩いて帰れるはずだ。そう判断し、おれは家へと戻るべくまだうまく力の入らない体を叱咤して立ち上がった。
 
 
 *
 
 
 ふらつく体を引きずって家に戻った。玄関を開けると、家の中に人の気配はない。まだゾロは帰ってきていないようだ。
 なんだかそこで一気に体の力が抜けてしまい、玄関の壁にもたれてズルズルと座り込んだ。これ以上、もう一歩も動けそうになかった。体的にも、気持ち的にも。
 そのまま項垂れて頭を抱え込み、おそらくかなり長い時間、まるで置き物にでもなったかのようにじっとしていた。その間ずっと、「なんで今さら」という疑問だけが頭の中をぐるぐると回っていた。
 なぜ。どうして。なんで今さら。たしかに体はどんどんとバケモノじみていったけれど、エッグヘッド以降、もう十年以上心を失うようなことはなかったのに。それだけ長い時間何もなかったくせに、なんで今さら。おれを嘲笑うみたいに。
 そんなことを思う一方で、なんで今さらという不毛な問いに対する答えをきちんと知っている自分もいた。
 結局おれは、長年変化が起きないのをいいことに見たくない現実から目を背けていただけだ。
 一度変化が始まってしまえば、一気に進むか、じわじわと進むかの違いがあるだけで、変化は戻りも止まりもしなければ進む一方——それが血統因子が発現するということであり、おれはそれを身をもって知っていた。だから一度でも、一時的とはいえ「心を失う」という変化が起きた以上、どれだけ時間がかかったとしても完全に心を失うまで変化が止まらないということは、よく考えなくてもわかることだった。今さらなんで、というのは愚問でしかない。
 今までも、これからも、変化は止められない。いずれおれは完全に心を失う。その未来が近いか遠いかの違いだけで。
「……ははっ」
 思わず乾いた笑いが漏れた。
「とんだ時限爆弾だぜ」
 もう爆弾のスイッチは入ってしまった。もちろん最後まで足掻くつもりではいるが、現実的に考えれば、おそらくどんなに抗ったとしても時限爆弾のカウントを止めることは難しいだろう。だとすれば、大事なのは残り時間だ。あとどのくらい、おれは正気でいられる?
 最悪の可能性も考えておかなければと思った。最悪とはつまり、残り時間があとわずかであること。
「ゾロに、話さねえと」
 手遅れになる前に、話しておかなければならない。昨夜、一時的とはいえ心を失っていたであろうこと。一時的に心を失うのは今回が二度目であること。それから——遅かれ早かれ自分は完全に心を失うであろうことを。
 あんな約束を持ちかけた以上、それがおれの果たすべき義務だ。
 
 
 
 ガチャリと音がして、膝の上に伏せていた顔をのろのろと上げる。玄関に一歩踏み込んだゾロが、顔を顰めておれを見ていた。開いたままの扉の隙間から見える外は薄暗い。どうやらおれは、あれからもずっとここに座り込んでいたらしい。
「遅くなって悪ィ……って、てめェは明かりもつけずに何やってんだ」
「ああ……おかえり。暗いってことは、今は夜か」
 質問には答えず思ったことをそのまま口にすると、ゾロは呆れたようにため息をついた。
「いつ目が覚めた」
「……たぶん、昼頃」
「それからずっとここで座り込んでんのか」
「いや。トラムの店の辺りまで行ってた」
「トラムの店? 何しに」
「店っつーか、あの辺にな。——何しに行ったかは、てめェもわかってんじゃねェの?」
 ゾロはそうだとも違うとも言わなかったが、おれにはわかった。ゾロは間違いなく、おれがトラムの店まで行った理由を察している。ということはつまり、昨夜のおれを——正気じゃないおれを、見たんだろう。
 それなら話が早い。さっさと本題に入ろうじゃないか。ただそれは、ここで立ち話で済ませるようなもんじゃない。
 おれは立ち上がると、ゾロに向かって顎をしゃくった。
 
「こんなところで話すのもなんだ。向こうで座って話そうぜ」
 
 リビングのランプに火を灯すと、あたたかな光が部屋を照らした。
 ダイニングチェアに座りながら、冷蔵庫から酒を取り出しているゾロを横目で見る。こうしていると、いつもの夕食の時間みたいだった。けれど残念ながら、これからするのはあたたかな食事なんかじゃなく、重苦しい、できれば口になどしたくない話だ。
 酒を呷りながら戻ってきたゾロが、ボブが持たせてくれたらしい包みをテーブルに置き、どかりとダイニングチェアに座り込む。そのタイミングを見計らい、おれは単刀直入に切り込んだ。
「昨日の夜、見たんだろ」
「何を」
「正気じゃないおれ」
 視線が絡み合う。互いに誤魔化しはなしだと瞳に乗せれば、それを正確に読み取ったらしいゾロがわずかに目を細めた。
「てめェの言う正気じゃないってのがおれの思ってるのと同じなら、見た」
 やっぱり、予想はアタリだ。でもだからこそ、確認しなきゃいけないことが一つある。
「なら、なんでおれを殺さなかった。——まさか、土壇場で怖気付いたわけじゃないよな?」
「ふざけんじゃねェぞ」
 隻眼がギラリと光り、獣のように低く鋭い声でゾロが唸った。
「おれを腑抜け扱いするのは許さねェ」
 怒気がビリビリと肌を刺す。
 本気で疑っていたわけじゃないとはいえ、ゾロの覚悟を疑うようなことを言ったのだ。そりゃあ怒って当然だろう。おれが逆の立場でも、たぶん同じように怒る。そう思うからこそ、素直に謝った。
「……だよな。悪かった」
 フンとゾロが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「あの時、やり合ってる途中でいきなりてめェがぶっ倒れたんだよ。しかも、倒れた途端にいつものてめェの気配に戻りやがって……だから殺さなかっただけだ。正気に戻ったてめェを殺す理由はないからな」
「なるほどな」
 筋は通っている。実際、今のおれはいわゆる「正気」の状態なのだし、ゾロの言う通りなのだろう。となると、確認したいことがもう一つ。
「……なあゾロ、おまえの見た正気じゃないおれって、どんなだった?」
「覚えてねェのか」
「ああ。その間の記憶だけ綺麗さっぱり抜け落ちてやがる」
「それなら教えてやるが——」
 ほんの一瞬、言い淀むような間があった。けれど、おれが何かを言う前に、ゾロは躊躇いなどなかったかのように淡々と言葉を続けた。
「正気じゃないてめェは、あの海賊どもを殺したうえに死体を甚振り、おれに剣で斬りかかってきた。挙げ句の果てには女に手をあげようとしやがった」
「そう……か。まあ、だいたい予想通りだな」
 乾いた笑いが漏れる。自分が何をしたか、なんとなく予想がついていたとはいえ、改めてゾロの口から事実として突きつけられると反吐が出そうだった。全部が全部、おれの騎士道に反する。クソみてェだと思うのに、それをしているのが自分だという現実が一番クソだ。
「それから、正気じゃないてめェはこんなことも言ってたな。『おれは元のサンジの記憶はそのままに、余計な|感情《もの》だけを取り除いた人間だ』って」
「余計な感情、ね」
「昨夜のてめェの行動から考えるに、あながち嘘ってわけでもなさそうだが」
 どうなんだ、とゾロが目で問うてくる。
 返事をする代わりに、煙草に火をつけた。あえてゆっくりと煙を吸い込み、やるせなさと共に吐き出せば、少しだけ気持ちが落ち着いた。
「まあ、どのみちおまえには説明するつもりだったしな」
 話すよ、全部。わずかに残った躊躇を断ち切るように静かに宣言する。
 どこか遠くで、ままごとのようなゾロと二人の生活の、終わりの始まりを知らせる音が聞こえたような気がした。
 
「前にも説明したが、血統因子っつうのは時限爆弾みたいなもんだ。一度発現、つまりカウントダウンのスイッチが入っちまえば、もう誰にも止めることはできねェ。結論から言うと……遅かれ早かれ、おれは人の心のない怪物になる」
「ルフィには諦めるつもりはないって言っただろうが」
「その言葉に嘘はねェよ。ただ、客観的に考えれば変化を止められない可能性の方が高い。だから、最悪を想定して動かなきゃならねェ。——ちなみに、今回が二回目だ」
「あ?」
「正気じゃなくなったのは今回で二回目だ。エッグヘッドで、おれは一度正気を失ってる。次また正気を失うのがいつかも、その時に今回みたいに元に戻れるのかも何もわからねェ。が、『次』が確実にあるのだけはわかる」
 もう一度、ゆっくりと煙草を吸う。
「残り時間はどれくらいなんだろうな……案外猶予があるのか、もう残りわずかなのか。まあどっちにしろ、おれが完全に怪物になったその時は——おれのことも、後のことも、頼む」
 頭は下げなかった。ただまっすぐにゾロを見る。ランプの光に映える琥珀色の瞳は、風のない海のように凪いでいた。
 少しの沈黙を挟んで、ゾロが呆れたようにため息をつく。
「ったく、てめェは本当に人使いの荒い野郎だな」
「……おまえにばっかり、悪いとは思ってる」
「そりゃ殊勝なこった。まあでも、悪いって思ってんなら」
 ちょっと付き合え、と立ち上がったゾロが親指でくいと寝室の方を指す。
「何にだよ」
 寝室。それが何を指すかわからないほど鈍くはないし、わかるだけの時間をゾロと重ねてきた。ただ、すぐに応じるのもなんだか癪でわざとわからないフリをしてみれば、ゾロはそれはそれは悪い顔でニィと笑った。
「てめェが正気かどうか、隅から隅まで確かめてやるって言ってんだよ」
「ふざけんな」
「別にふざけてなんかねェよ」
「じゃあただの変態じゃねェか」
「ハッ、言ってろ」
 そう言い捨て、さっさと背を向けて行ってしまう。
 
 バカだと思った。ゾロも、おれも。
 でも、その愚かさがどうしようもなく胸に沁みて、おれにはゾロに応える以外の選択肢を選ぶことなんかできなかった。
 後ろ手に、寝室のドアをパタンと閉める。
 すぐに伸びてきた手に抵抗することなく身を任せれば、雑にベッドへと放り投げられた。組み敷かれ、裸に剥かれ、頭からつま先まで余すことなくゾロの指が触れてなぞって暴いていく。
 さっきの雑さからは想像もできないほど、ゾロの手つきは丁寧で優しかった。
 慰めでもない、憐れみでもない。ただ不器用な愚かさに、おれは心の中だけで泣いた。それは、おれが今はまだ心のある人間である何よりの証拠だった。

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