流れ星
物心がついた頃から、自分の中にもう一人誰かがいるような気がしていた。
その人——多分『彼』は、干渉してくることなく、ただひっそりとそこに居た。そして、いつもずっと誰かを探し求めていた。
『彼』は自分にとって空気と同じくらいそこに在って当たり前の存在だったし、本当にただ居るだけだったから特に不都合を感じることもなかった。ただ一つ、時折胸が絞られるような痛みが不意に襲ってくることを除いて。
あれは多分……悲しみ、だろうか。なんとなく、この痛みに襲われる時は『彼』が探している誰かのことを思っている時だという確信があった。ただ痛みを共有するだけで何もしてあげられないのがもどかしい、そう感じるような、深い深い悲しみだった。
ああそれと、機械いじりが好きなのはきっと『彼』の影響だと思う。
『彼』の存在を意識するようになった頃から俺はやたらと機械いじりに興味を持つようになった。機械の中でも特に乗り物が好きで、子どもらしい遊びには一切興味を示さずに、ひたすらに電動式のミニカーや電車をバラしては組み立てたり改造することに没頭した。まだ学校で学ぶ前だったにも関わらず、不思議とどこをどういじればいいのか手に取るようにわかった。そんな時、自分の中の『彼』はなんだか嬉しそうだったから、俺もなんだか嬉しく思ったのを覚えている。
年齢にそぐわない技術や知識でひたすら機械いじりに没頭する俺は側から見れば相当異質な子どもだっただろう。けれど両親はそんな俺を気味悪がったり、機械を取り上げたりすることはせず、「そんなに好きならば」と好きなようにさせてくれた。
その結果、大人になった俺は今、大好きな機械いじりを仕事にして働いている。
——カッサパ・モーターズ。
おやっさんこと社長の雪之丞さんをはじめとして、事務関係の仕事を一手に担っているのが社長の奥さんであるメリビットさん、それから事務兼営業のユージンとチャドに、整備士が俺とザック、デインの三人という小さなバイクショップが俺の職場だ。規模は小さいけれど、おやっさんがバイクレースのメカニックとして有名だったこともあり仕事の依頼は多くその幅も広い。バイクの販売に整備やカスタム、レーシンググマシンの作製からレースメカニックまで仕事は多岐に渡り、忙しくも充実した日々を送っていた。
おやっさんとは、実はかなり付き合いが長い。出会いはまだ子どもの頃。おやっさんは俺の家の近所に住んでいた。その頃はもうすでに整備士として働いていたおやっさんは、時間があれば彼の住むアパートの前でバイクをいじっていた。俺は、おやっさんがそうやってバイクをいじっている所に遊びに行っては飽きもせずに眺めている子どもだった。
おやっさんは俺が行くといつも『おう、また来たか坊主』と笑って、いろんなことを教えてくれた。そして、少し大きくなってからは実際にバイクをいじらせてくれるようになった。
おやっさんと一緒にバイクいじりをするのは楽しかったけど、それよりももっと楽しかったのは時折連れて行ってもらえるバイクレースの現場だった。
緊張感と高揚感に包まれたサーキットのあの独特の雰囲気にワクワクしたし、レースメカニックとしてのおやっさんの仕事はめちゃくちゃにカッコよくて見ているだけで心が躍った。そんな魅力だらけのバイクレースの現場で何よりも俺の心を惹いたのは、メカニックとライダーとの揺るぎない信頼関係だった。
メカニックはライダーの命とも言えるバイクを最高の走りができるように作り上げ、ライダーはそんなメカニックに全幅の信頼を寄せてただ走ることだけに集中する。そんな、「信じて応える」関係になぜだかひどく懐かさを感じた。遠い昔、そんな信頼を誰かから受け取っていたような、そして自分はそれに必死に応えようとしていたような——。
そんな経験は、記憶のどこを探ってもないはずなのに。そして、そう感じる時はいつも、あの絞られるような胸の痛みに襲われた。
憧れと、痛みと。その二つに導かれるように俺は自然とレースメカニックを目指すようになっていた。おやっさんにくっついてたくさんのレースの現場を見て回り、資格を取るべく専門学校へと進み猛勉強に励んだ。
努力の甲斐あって無事資格を取って卒業するのと同じ頃に、おやっさんはメリビットさんと結婚し、小さいながらも自分の店を構えた。
『なあヤマギ、お前がよけりゃあ俺んとこ来ねえか』
そんなおやっさんの申し出を断る理由などなく、俺は晴れてカッサパ・モーターズの一員となったのだった。
*
「ヤマギ!」
先にサーキットへと向かったおやっさんを追いかけるべく機材を車に積み込もうとしていると、後ろから声がかかった。
「ユージン。どうしたの」
振り向いた先にいたのは、事務兼営業担当のユージンだ。
「ちょうど営業から戻ってきた所だったんだけどよ。お前もしかしてこれからサーキットか?」
「そうだよ」
「なら俺もたまには見に行きてえし、乗せてってやるよ」
「それはありがたいけど……仕事はいいの?」
「今日はメリビットさんに直帰していいって言われてんだ。だから問題ねえよ」
「それじゃあお言葉に甘えて」
おう任せとけ、とニカリと笑うユージンと一緒に、彼が乗っていた社用車に機材を積み込む。助手席に乗り込むと、ブオンと一声鳴いた車は滑るように走り出した。
「どうだヤマギ、仕事の方は」
頭の中で今日のスケジュールを確認していると、横からユージンが話しかけてきた。
「そうだね……まだまだ勉強することは多いけど、だいぶ出来ることも増えてきたかな」
ここで働き出してそろそろ一年が経つ。一人前と呼ぶにはまだ未熟な面が多いけれど、少ない人数で多くの仕事を回すために経験値はそれなりに積んでいて、一人で仕事を任されることも増えてきていた。
「最近客からお前のことよく褒められるぜ。まだ若いのに腕がいいってな」
「ほんと?」
「ああ。お前はよくやってるよ」
後輩というよりは、弟を可愛がる兄のような気やすさで左手を伸ばしたユージンが頭をポンポンと叩いてくる。それがなんだか気恥ずかしくて、ユージンの手から逃げるように身を引いた。
ユージンを含め、カッサパ・モーターズの同僚達には初めて会った時から仕事仲間というよりは兄弟に近い感覚を抱いていた。それはたぶん、年が近いというのもあるし、みんな何かしらの形でおやっさんの世話になっていたという共通点があるせいでもある。けれどそれだけじゃなくて、俺は言葉では説明できない絆のようなものを彼らに感じていた。そんな兄弟のような同僚の中でも、ユージンは一見適当そうに見えつつその実周りをよく見てさりげなく気にかけてくれる優しさを持っており、頼れる兄のような存在だった。
「……っ、褒めても何も出ないよ」
「っとにお前は素直じゃねえなぁ。褒め言葉は素直に受け取っとけ」
呆れたような物言いとは反対に優しく笑うユージンに、「ありがとう」と小さく口にした。けれど、素直じゃない俺はつい余計な一言を付け加えてしまう。
「でもさ、頑張ってるといえばユージンもだよね。最近はヘタレが抜けてきたってもっぱらの噂だよ」
「だーれがヘタレだ! 俺くらい頼り甲斐がある奴なんてそういないぞ」
「はいはい」
「このヤロ、それが先輩に対する態度かよ」
「先輩って言っても、入社したのは同じ時期なんだから同期でしょ」
「俺はここにくる前からおやっさんと働いてたんだから俺のが先輩だ!」
「それ言うなら子どもの頃からおやっさんと付き合いある俺のが先輩じゃない?」
「ああん!?」
違うだの生意気だだのとグチグチと呟いているのを右から左に聞き流していると、愚痴を言うのにも飽きたのか「そういやさ」とふいに話題を変えてきた。
「今日のレースの整備ってあいつらか? ほら、何だっけか、鉄……鉄…………」
「鉄華団、ね」
「そう、それだ」
おやっさんは今、最近結成された『鉄華団』というレーシングチームの専属メカニックとして整備を担当していた。元々は三日月という名前のレーサーの整備を半分ボランティアのような形で担当していたのだが、三日月の幼馴染のオルガという男が三日月のためにレーシングチームを作り、それをきっかけに正式にチームの専属メカニックとなることに決まったのだ。チームにはもう一人昭弘というレーサーがいて、整備するべきバイクは二台。俺はまだ修行中の身なので、毎回おやっさんに同行してはサポートという名の勉強に励んでいる。
「今日走るのは三日月だけみたいだよ」
「あー、あいつか。三日月の走りってこう、誰も寄せ付けない感じがカッコイイよなあ」
「だね。三日月が気持ちよく走れるように整備頑張らないと」
「おう、しっかりやって来い」
「うん」
レースの現場のざわめきと慌ただしさ、そしてピンと糸が張ったような緊張感を思い出して自然と心が逸る。
早くあの中に身を投じたかった。あそこには、俺が求めてやまないものがある。
——ゆるぎない信頼関係。
今はまだ無理でも、早く一人前になって、自分を信じて全てを預けてくれるような、そしてその信頼に持てる全てを懸けて応えられるような、そんな関係を築ける誰かと出会えたらいい。
(そのためにも、もっと腕を上げるんだ)
窓の外を流れる景色をなんとはなしに眺めながら、改めてそう心に誓った。
駐車場に車を停めて荷物を下ろしていると、サーキットの方から歓声が聞こえてきた。
「おー、やってんな! 早く行こうぜ」
「ちょっと待って」
今にも駆けて行き出しそうなユージンに待ったをかけて、部品や道具の最終チェックをする。一つも漏れがないのを確認してから自分の荷物が入ったバッグを肩にかけ、最後に車のトランクを閉めた。
「お待たせ。さ、行こう」
キャリーワゴンをガラガラと引きながら歩いて行き、IDパスをかざしてレース参加者用の入り口から中に入る。鉄華団に割り当てられたパドックに辿り着いた時、レース会場の方から一際大きい歓声が上がった。
興奮と期待に満ちた声に誘われるように、少し先にあるコースへと視線を向ける。ゴール前の最後の直線。次の瞬間、先頭を走っているらしいバイクが一台、爆音を響かせて目の前を一瞬にして駆け抜けていった。
時間にすればコンマゼロ秒。けれどそれは、強烈な光を浴びた時のように網膜に焼き付いて離れなかった。
バイクが、ではない。色だ。バイクと、レーサーが身につけていたスーツの色。ハッと目の覚めるような鮮やかなマゼンタ。
マゼンタの塊が残像の尾を引くように——そう、そうだ、まるで流れ星みたいだった——走り抜けて行ったのを見て、なぜだか胸の内がざわりと騒ぐ。気づけば、荷物をその場に放り出してコースに向かって走り出していた。
「おい、ヤマギ?」
慌てたように呼びかけるユージンの声が聞こえたが、足を止めることはできなかった。コース脇のフェンスにガシャンと体当たりするように取り付いてゴールの方を見る。ちょうど先ほどのマゼンタの車体が一位でゴールしたらしく、車体と同じマゼンタに染められたスーツの腕が空に向かって突き上げられるのを見た。
全身で喜びを表す男から、まるで縫い止められてしまったかのように目が離せない。何か予感めいたものに胸のざわめきが次第に大きくなっていく。フェンスにしがみついたままの指に無意識に力がこもった。
『……?』
「え?」
耳に届いた微かな声。『彼』の声だ。根拠も何もないけれど、直感的にそう思った。
『……? ……!』
胸のざわめきに合わせ、声がだんだん大きくなっていく。砂嵐のような音が邪魔で何を言ってるのかがわからない。でも。
(誰かを呼んでる……?)
一定のリズムで繰り返されるそれは、誰かを呼んでいるようだった。
いったい誰を呼んでいるのか——その答えは探さずともわかる。『彼』の声は胸を締め付けるような切実な響きに満ちていて、誰を呼んでいるのかは明白だった。きっとあの人だ。『彼』がずっと探し求めている人。
でもどうして突然? 今までにこんなことは一度もなかった。こうなったのはあのマゼンタのバイクが走り抜けるのを目にしてからだ。何か関係があるんだろうか。
その時、待ち構えるクルーの元に戻ってくるマゼンタのバイクが見えた。バイクから降りたレーサーに飛びついて肩を抱き祝福と労りを示すクルーに見覚えがあるような気がして、あれ、と思う。けれど、そんな疑問は次に目に入ってきた光景にすぐに頭の中から消え去ってしまった。
ひとしきりもみくちゃにされたレーサーがヘルメットを脱ぎ去るのが、まるでスローモーションのようにコマ送りで目に入ってくる。短く刈られた茶色の髪、耳元で光を弾いて輝く金。ヘルメットの下に隠されていたものが一つずつ明らかになるのを、息をするのも忘れて食い入るように見つめる。だんだん速くなる鼓動。喧騒が遠のき、ドクドクと血の巡る音ばかりがやたらと耳につく。
それは多分、俺の中にいる『彼』も同じだった。今までは別々の〝個〟であった俺たちがまるでシンクロするように同じ反応を示し、俺と『彼』の境界線が薄くなる。
相変わらず縫い止められたままの視線の先で、レーサーがこちらを振り返った。観客に向けられた笑顔。太く凛々しい眉を垂らして顔いっぱいで笑うその顔に、薄くなっていた俺と『彼』の境界線が、シャボン玉が割れるようにパチンと音を立てて消えた。
「『…………シノ』」
シノ。ノルバ・シノ。あの人の名前。
境界を失って混沌と化した頭の中でたった一つ、ぽつんと浮かんで光を放つその名前はさながら一番星だ。
一番星に遅れて次々と夜空に星が現れるように、『彼』の記憶が次々に流れ込んできた。ともに過ごした日々。最後に交わした会話。家族を守って宇宙で散っていった最後の輝き。シノのために咲かせた赤い氷の華。大切な大切な記憶のカケラ達。その全てが混ざり合って、俺と『彼』が一つになる。
ずっとずっと、シノのことを探していた。
ちゃんと見送ったから、絶対に生まれ変わってどこかで幸せに暮らしているはずなのに、なかなかシノには出会えなかった。一回目に生まれ変わった時には結局見つけ出せず、その後も何度生まれ変わったか、とうの昔に数えるのをやめたので覚えていない。それでもどこかにシノがいると信じて諦めずに探し続けた。我ながら、筋金入りのしつこさだと思う。
(けど、やっと会えた)
シノはちゃんと生まれ変わってた。それだけじゃなく、元気で、幸せそうに笑ってる。よかった……本当によかった…………シノ。
どうしようもなく胸がいっぱいになって涙が溢れる。涙のせいで滲んで歪んでも、目に映るシノの笑顔はやっぱり太陽みたいに眩しく輝いていて。俺はそんなシノの笑顔につられるように、ぼろぼろと泣きながらも心から笑った。そして——パタリと気を失った。