紫陽花

♦出会い(1)

 サンジーノは、名の知れた名家であるヴィンスモーク家の三男として生まれた。両親がつけた名前は『サンジ』。兄弟は姉が一人と、自分を含め四つ子の兄が二人と弟が一人。厳格な父と、優しく美しい母の愛に包まれ、裕福で何不自由のない幸せな暮らしを送っていた——母が死ぬまでは。
 元々体の弱かった母は床に臥せりがちであったが、サンジが五歳の時、流行り病に罹って呆気なく死んでしまった。父が変わったのは、それからだ。
 兄弟の中で、母によく似ていたのはサンジと姉であるレイジュ。そして、サンジだけが母親譲りの美しい金髪をしていた。
 母親の面影を色濃く残す息子を見るのが辛かったのだろう。母の死後、父はサンジを避けるようになった。
 そしてある日、不注意で父が大切にしていたグラスを割ってしまったことをきっかけに、あの地獄のような日々が始まったのだ。
 そのグラスは母が生前父にプレゼントしたもので、母の形見であるグラスを割ってしまったサンジのことを父は激しく叱責した。罵倒するだけでは飽き足らず、まだ五歳の息子相手に振われる容赦ない暴力。初めて実の親から向けられる純然たる敵意に恐怖を覚えると同時に、そんな形であれ父の注目を得られたことに仄暗い喜びを感じた。
 それ以降、食事の席に座るのが少し遅いだとか、挨拶の声が小さいだとか、ほんの些細なことで兄弟と比べては出来損ないだ、お前はこの家に必要のない子供だと罵られ、時には暴力を振るわれた。
 幼い子供は両親の影響を強く受けるものである。だから、他の兄弟達が父と同じようにサンジーノを罵倒し、寄ってたかって殴る蹴るの暴行を加えるようになるのは自然の成り行きだったのだろう。
 レイジュだけは、酷い目にあって一人隠れて泣いているサンジの元にやってきては黙って頭を撫でてくれたり、傷の手当てをしてくれた。だが、当時レイジュはまだ八歳。父や他の兄弟の前では、直接手は下さないにしろただ見ていることしかできず、サンジはいつも一人孤独に地獄のような時間が過ぎるのを待っていた。
(お母さん。ぼく、早くお母さんのところに行きたい)
(ぼくが出来損ないだからいけないんだ)
 どんな形であれ父から目を向けてもらえることに喜びを感じたのは最初だけで、終わりの見えない地獄のような日々に幼いサンジの胸は絶望に黒く塗り潰されていった。
 
 そんな日々が一年ほど続いた頃。
 いつものようにサンジを言葉と暴力で痛めつけた父が、「おまえみたいなクズはさっさとどこかで野垂れ死ぬがいい」と最後に吐き捨てるように言った。
 それまでも散々酷い言葉を投げつけられてきたが、「死ね」と言われたのはこれが初めてだった。
 自分は父にとってもはや生きている価値のない人間なのか。
 その事実は、どんなに虐げられても心のどこかで父からの愛情を渇望していたサンジをひどく打ちのめした。
 もし死んだら大好きだった母の元に逝ける。それに、出来損ないの自分でも、死ぬことで最後に少しは父のことを喜ばせられるかもしれない。
 深い絶望の闇に、一筋の光が差し込んだ気がした。
 その光に導かれるように、心身ともにボロボロになったサンジは一人ひっそりと生家をあとにした。

 季節は初冬。
 昼間はまだそれなりに暖かくても、日が沈むと一気に冷え込む。
 そんな寒さの中では、お金も、行く当てもない六歳の子供など簡単に死んでしまう。
 着の身着のまま家を出て、とにかく家から離れなければと闇雲に歩き、サンジは気付けばあまり治安の良くない場所にたどり着いていた。日が落ちた今、ろくに街灯もなく暗い路地の奥からは、退廃と暴力の匂いが色濃く漂ってくる。
「どうしよう……」
 我に返った途端、急に不安が押し寄せてきた。
 衝動のままに飛び出てきたものの、どうやったら死ねるのかなんて分からないし、歩き疲れた足はもう一歩も動きそうもない。
 サンジは途方に暮れて立ち尽くした。
 時折通りすぎる人影はあっても、一人ぼっちで佇む小さな男の子をちらりと見こそすれ声を掛ける者は誰もいなかった。みんな厄介ごとを背負いたくないのだ。
 どうしていいか分からずにサンジは只々立ち尽くしていたが、やがて立っているのも疲れてしまったので近くの壁に背を預けずるずると座り込んだ。
「さむいなあ」
 冷え切った手はもうあまり感覚がない。少しでも温めようと両手を口に当ててはーっと息を吐くと、白い筋が夜の闇に立ち上った。
 頬に冷たさを感じて空を見上げると、目に入ったのは音もなく舞い落ちてくる無数の白い粒。
「……ゆきだ」
 そういえば、人は寒すぎても死ぬことができるらしい。昔読んだ絵本にそんな話があった。まるで眠るように死んでいたから、たぶん痛くも苦しくもないんだろう。だから大丈夫、怖くない。このままここで眠れば明日の朝にはきっとお母さんに会いに行ける。
 そう思ったらふっと肩の力が抜けて、疲れが一気に押し寄せてきた。立てた膝を傷だらけの細い両腕で抱き寄せ、そっと目を閉じる。
 夢と現実の間を行ったり来たりしながら、漂ってきた美味しそうな匂いにお腹がすいたなぁ、とぼんやり思った。
 そのまま眠り込みそうになっていると、突然すぐそばで扉がバタンと音を立てて開きサンジはびくりと肩を震わせた。
 眠りの淵から急に呼び戻されたせいで朧げな意識のままぼんやりと視線を彷徨わせていると、「おい坊主。人の店の前でくたばるつもりか」と嗄れ声が頭上から降ってきた。
 どうやら自分に向けてかけられたらしい声に、一瞬で覚醒する。首を捻って自分に向けて放たれた声の方を見上げると、そこにはブロンドの口髭を三つ編みにした厳つい出立ちの男が立っていた。真っ白なコックコートに身を包み、その頭にはやたらと背の高いコック帽がのっている。コツリと音がしたので足元を見てみると、本来右足がある部分には木製の義足がついていた。
(コックさん?いいにおいがしてるし、ここはレストランなのかな)
 そこでハッと気付く。こんな時間に子供が一人で外にいたら通報されるかもしれない。そんなことになったら家に戻されてしまう。それはダメだ。
 それに、店の前で子供が死んだりなんかしたらきっとこの人に迷惑がかかる。だから別の場所に行かないと。
 そう思うのに、空腹と疲労で弱った体では立ち上がることさえもう出来そうになかった。
「おねがいします。すぐにどこかへいくから、つうほうだけはしないで……!」
 ひとまずこの場をやり過ごさなければと、額を地面に擦り付けて必死に頼み込む。
 男はその様子を物言わずにただ眺めていた。男の反応がないことに焦れて様子を伺おうとした時、
「おまえ、腹ァ減ってるか」
 と再び嗄れ声が降ってきた。
「え……?」
 予想外の言葉にサンジは思わず顔を上げた。
 朝食べてから何も口にしていないので、正直お腹は空いている。けれど、それを聞いてどうするというのだろう。食事を食べさせている間に通報でもするつもりなのだろうか。
 第一、これから死ぬつもりの自分に『食べる』ことは必要じゃない。
 そう思って「いいえ」と答えようとした瞬間、グキュルルルと盛大にお腹が鳴った。
「……それが答えだな。腹が減ってるならまずはメシを食え。話はそれからだ」
 男の声には有無を言わさぬ力があり、気付けばコクリと頷いていた。
 首を縦に振る動きで我に返ったが、後の祭りだ。
 サンジが頷いたのを見て男はついて来い、と踵を返し扉に手をかける。
 半ばやけくそな気持ちで、もうどうにでもなれ、と思った。この男の言う通り、食べてからその後のことを考えればいいのだ。ただ——。
「あの、ごめんなさい。もううごけなくて」
 正直に伝えると、男は黙ってサンジを抱き上げた。無骨な見た目に反して、優しく労るような腕だった。
 
 店に入った男は、サンジをカウンター席に座らせるとキッチンで何やら作業を始めた。
 少しして、
「メシが出来るまでこれでも飲んでおけ」
 とカウンターにカップが置かれた。
 湯気のたつ白いカップの中は、とろりとした乳白色の液体で満たされている。
 両手でカップを持つと、かじかんだ指先からじわりと熱が伝わった。
 顔を近づけると、ほんのり甘い匂いがする。
 フーッと息を吹きかけて少し冷ましてから一口飲むと、匂いそのままの優しい甘さが口いっぱいに広がった。
「……おいしい」
 思わずそう呟く。
 その声に男がほんの一瞬視線を寄越してきた。すぐに俯いてしまったので、その口角がかすかに持ち上げられていたことをサンジは知る由もない。
 コクリ、コクリ。一口ずつゆっくりと飲むたびに、冷えた心も体もほぐれていく。誰かにこんな風に優しくされたのは久しぶりだった。母が生きていた時は、毎日無条件に与えられていた優しさ。
 ふいに、カップの中のホットミルクに波紋が広がった。
 何事かと思えば、自分が泣いているのだった。
(おかあさん、おかあさん)
 そう気付いたら、後から後から涙が溢れ出してきた。とうとう堪えきれずサンジはしゃくり上げ始め、それに気づかない振りをしてくれている男の優しさに更に泣いた。泣きながら飲んだホットミルクは、少ししょっぱい味がした。
 ひとしきり泣いて落ち着いた頃。
「さあ食え」
 と目の前に置かれたのはトマトとチーズのリゾットに、コーンスープ。
 トマトの少し酸っぱい匂いに、口の中に唾液がじゅわりと滲み出てくる。
「いただきます」
 きちんと挨拶をしてから、まずはリゾットをスプーンで掬って口に含んだ。トマトの酸味がたっぷりのチーズによってまろやかになり、バターのコクも合わさって子供でも食べやすい味になっている。
「……おいしい」
 次はコーンスープ。
 コーンの甘さと牛乳の甘さに、プリッと歯ごたえのある粒コーンがアクセント添えている。
「これも、おいしい」
 それだけ言うと、あとはただひたすらに食べることに没頭した。
 お皿が空になり、胃が温かく満たされた頃には体の隅々まで力が漲り、気力のようなものすら湧いてきていた。
 サンジはスプーンを置くと、、姿勢を正して男に向き直った。
「しんせつにしてくれてありがとうございます。ごはん、ほんとうにおいしくて……こんなおいしいもの、はじめてたべました」
 本当だった。家では日々お抱えの料理人が作る贅を凝らした食事を食べていたが、そのどれよりも、今この男が作ってくれたご飯が一番美味しかった。
「ああそうだ、おれの作るメシは美味いだろう」
 そう言って、男は初めてサンジの前で笑った。
 
 それが、サンジと男——育ての親であるゼフとの出会いだった。

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