♦出会い(2)
食事を食べ終わったサンジに、男は「もう遅いから今晩は泊まっていけ」と言った。余計なことは何一つ聞かないその優しさに、一晩だけならと自分に言い訳をして甘えた。
翌朝。結局朝ご飯までご馳走になり、さらに決心が揺らぎそうになるのを俯いてやり過ごしていると、それまで黙って食べていた男が口を開いた。
「食べたら出ていくのか」
「…………」
そうだと言えばいいものを、なぜか口が縫い付けられたように開かない。
本当の本当は、出て行きたくなんかない。一人になるのは怖い。
男は持っていたカトラリーを置くと、サンジを真っ直ぐに見た。
「行く当てがないんなら、この店で働け」
「えっ?」
予想だにしない提案に、サンジは思わず顔を上げきょとんとした。
「最近客が増えて忙しくなってな、ガキの手でもいいから借りたいところだった」
「え、でも」
大人の人を雇った方が、と言葉にする前に男が畳み掛けるように言う。
「ちょうど部屋も一つ余ってる。給料は出ないが住み込みで食事付きだ。悪い話じゃないだろう」
話が急すぎてパクパクと金魚のように口を開け閉めすることしか出来ずにいるサンジを見て、
「文句がないなら決まりだな」
と男は強引に結論付けた。
勢いに流されそうになりつつも、辛うじて頭に浮かんだ疑問を口にする。
「どうして……どうしてぼくなんかに、そんなにしんせつにしてくれるんですか?」
「まずはその、自分なんかって言うのはやめろ。あとな。おれァガキだろうが何だろうが腹減らしてる奴は放っとけない。理由なんてのはそれで十分だろう」
出来損ないと呼ばれ、存在まで否定された自分にたったそれだけの理由で優しくしてくれる人がいるという事実に、サンジの両目から涙があふれ出た。こんな自分でも、生きていてもいいのだと言われた気がして嬉しかった。
サンジが泣き止むのを待ってから、男が尋ねた。
「おまえ、名前は」
一瞬、名前を言うべきか躊躇する。でも、この人に隠し事はやめようとぎゅっと手を握りしめた。
「……サンジ。でももう、そのなまえはすてました」
「いい名前だ。おまえみたいなガキが自分から名前を捨てるなんざ余程の事情があるんだろうが……話したくないならそれでいい」
「あなたには……はなしておきたいです」
そう言うと、サンジは途中詰まりながらもこれまでの経緯をポツリポツリと話した。話すのはとても辛かったけれど、聞いてもらったことで苦しかった胸が少し軽くなる。最後まで男の目に同情が浮かぶことはなく、サンジはやっぱりこの人に話してよかったと思った。少しでも同情されようものなら、あまりの惨めさにきっと耐えられなかったから。
「本当にそれでいいんだな?」
口を挟むことなく最後まで話を聞いた後、男が静かにサンジに問いかけた。
「はい」
あの家に自分の居場所はない。だから戻れない、戻らない。この人の元で、サンジという名を捨てて生きていくと、今覚悟を決めた。
サンジの瞳の強さを見て、男が「わかった」と頷く。
「おれの名前はゼフだ。なんとでも好きに呼べ。敬語もなしでいい。おまえも名前がないと困るだろう……そうだな、『サンジーノ』なんてのはどうだ。元の名前の面影があるのは嫌か」
「おかあさんがつけてくれたたいせつななまえなんだ。イヤなわけない」
「それなら、今日からおまえは『サンジーノ』だ」
「うん!」
男が口にした新しい名前に目を輝かせる。
その日から、サンジーノとゼフとの共同生活が始まった。
慌ただしく過ぎる日々の中でサンジーノはゼフからたくさんのことを教わった。計算や文字などは家庭教師について学んでいたので最低限の知識はあったが、家のことは家政婦さんがしてくれていたのでからっきしダメ。そんなサンジーノにゼフはまず家事全般を叩き込み、それから店の買い出しに連れ出しては見て覚えさせつつ料理や飲み物なんかの知識を教えた。ウェイターの仕事まで一通りサンジーノがこなせるようになると、ようやく少しずつ料理にも関わらせてもらえるようになった。調理場の掃除、食器洗いに始まり、皮剥きなどの食材の下処理、盛り付け、調理の技術。
口より先に足が出るタイプのゼフには、しょっちゅう「このボケナス!」と義足で蹴り飛ばされた。この辺では有名な足技使いのようで、正直めちゃくちゃ痛い。でも、痛いのは一緒でも、父親に蹴られるのとは決定的に何かが違っていた。それはきっと、ゼフの蹴りは温かい気持ちからくるものだったから。名前をつけるとすれば愛情とでも言うのだろうか。だから、体は痛くても心は全然痛くなかった。
そんな温かくて充実した日々にサンジーノの心は次第に癒え、いつしか、心の底から笑えるようになっていった。
*
サンジーノが〈アイツ〉と初めて出会ったのは、十歳の時だ。
開店前に店の周りを掃除するのはサンジーノの仕事。その日は雨で、店先の鉢に植えられた紫陽花が雨に濡れてしっとりと美しく咲いていた。掃き掃除はできないから、ブラシで汚れているところだけでも磨こうと外に出ると、店の前に誰かが倒れているのを見つけた。
「おいっ、大丈夫か!?」
慌てて走り寄ると、それは自分とさほど年が変わらないような子供だった。呼びかけてもピクリとも動かない。まさか死んでるんじゃ、とびしょ濡れの体に触れてみるとちゃんと温かかった。
とりあえず生ているらしい事に安堵し、改めて全身をじっくりと眺める。
芝生みたいな緑色の髪。意志の強そうなキリリとした眉毛。何があったのかは知らないが、全身は泥や葉っぱがあちこちついて汚れている。この辺では見ない顔だから、遠くからきたのかもしれない。
と、そこで緑髪の少年が「ん……」と身じろぎをした。
「気がついたか!?」
声をかけながら揺すってみると、閉ざされていた目がゆっくりと開かれる。
「怪我とかしてないか?おまえ名前は?どうしてこんなところで倒れてるんだ?」
ぼんやりと彷徨う視線が、矢継ぎ早に質問するサンジーノの顔に焦点を合わせて止まる。。
「こ……?」
「なんだ、どうした?」
「ここは……どこだ?腹減って、動けねェ……」
そう言うと同時に、グウゥゥゥと腹の虫が盛大に鳴いた。
サンジーノがキョトンと目を見開いて固まる。
「えっ、腹減りすぎて倒れてんのか?とにかくここじゃなんだ、いったん中に入るぞ」
肩を貸して少年を立ち上がらせると、半ば引きずるようにして自室へと少年を連れて行った。タオルで全身を軽く拭いてやり、びしょ濡れの服を脱がせて適当に選んだ自分の服を着せるとベッドに横たえる。
「ちょっと待ってろ、すぐ食いもん持ってきてやるから!」
返事を待たずに部屋から飛び出すと、サンジーノは厨房へと走った。
厨房では、ちょうどゼフが仕込みをしていた。
「ジジイ!食材ちょっともらうぞ!」
「あァ?」
「外で腹空かして倒れてる奴がいたんだ」
「好きにしろ」
そう言ってゼフが断る訳はないとわかってはいたが、一応返事を聞いてから調理に取り掛かった。まだそんなに多くはないレパートリーの中から、一番得意な海鮮ピラフを選んで作ることにする。あとはオニオンスープに簡単なサラダも。作り慣れているだけあって手際よくあっという間に作り終えると、食器をトレーに乗せて自室へと急いだ。
「待たせたな!」
部屋に飛び込むと、食事の匂いを嗅ぎつけたのか少年がむくりとベッドから起き上がった。
「どうぞ、召し上がれ」
コトリ、と優雅な手つきで机に置かれたトレーを見て、少年の喉がごくりと鳴る。フラフラと机までやって来て席に着くと「いただきます」と手を合わせ、ガツガツとものすごい勢いで食べ始めた。
「よっぽど腹減ってたんだな」
あまりに豪快な食べっぷりに圧倒され、サンジーノが呟く。それも耳に入らないくらい食事に集中しているようで、少年は顔も上げず無言で食べ続けた。
全部の皿が空になると、少年はようやく顔を上げた。それから、対面に座っているサンジーノの顔をじっと見ると、手に持っていた皿をズイッと突きつけてくる。
「おかわり、あるか?」
「まだあるからついで来てやる。メシ、そんなに美味かったか」
「ああ。こんな美味いメシ食べたの初めてだ」
「そーかそーか。実はこれ、全部おれが作ったんだぜ」
それを聞いて、少年の目と口がポカンと開いた。口の周りにご飯粒まで付けたマヌケ面に思わずサンジーノが吹き出す。
「おまえすげーな!……って何笑ってんだよ」
笑われてバツが悪いのか睨みつけてくる少年に「何でもねーよ」と答え、皿を受け取って立ち上がる。この四年でだいぶ喧嘩っ早くなり、普段なら睨まれれば睨み返すところであるが、なんせ今日は手放しで褒められて気分がいい。足取りも軽く部屋を出ようとしたところで、サンジーノははたと立ち止まった。
「そういえばおまえ、名前は?」
「ゾロシアだ」
「おれはサンジーノ。よろしくな」
結局、その日ゾロシアはサンジーノの部屋に泊まった。
翌朝ゼフも一緒に朝食を食べながら店の前に倒れるに至った経緯を聞いたところ、とんでもない事実が判明した。孤児であるゾロシアは隣町にある孤児院で暮らしているのだが、数日前に用事があって孤児院を出たところ、なぜか目的地にも着かなければ孤児院に戻ることもできず、ひたすら彷徨い歩いた結果ゼフの店〈バラティエ〉の前で力尽きたらしい。
そんな方向音痴有り得るのか?とにわかには信じ難かったが、ゼフが隣町の孤児院に電話をすると真実だと知れた。電話に出た職員によると、『信じられないほどの方向音痴なので孤児院の外に出る時は必ず職員が同伴していくのだが、こないだは手違いで一人で外に出てしまい案の定行方がわからなくなり、警察にも相談して探していた』のだそうだ。
本人によると、どうやら迷子になるのはこれが初めてではないらしい。一人で帰るとまた迷子になるからと慌てて迎えに来た職員に連れられ、ゾロシアは大人しく帰って行った。
住んでいる町も違うしもう出会うことはないだろうと思っていたのに、数週間後ゾロシアは突然バラティエにやってきた。
口をあんぐりと開けて幽霊でも見るような目で眺めてくるサンジーノに「てめェのメシ食いたいからまた来た。金はねェ」とふんぞり返って言い放つ。
「〜〜〜っ、偉そうに言ってんじゃねえ!!」
ゾロシアにサンジーノ渾身の蹴りが炸裂した。
*
それからも、ゾロシアは孤児院を抜け出してはちょくちょくサンジーノの作る料理を食べにバラティエにやってくるようになった。動物的勘なのか来る時は迷わないらしいのに、帰りはいつも迷う。毎回職員に迎えに来てもらうのも悪いので、なんだかんだで食事を作って食べさせた後はサンジーノが孤児院まで送り届けるのがお決まりになった。くだらない話をして笑い合ったり、時にはケンカをしたり。十歳の子供にとっては当たり前にあるこのような時間を、サンジーノは貪欲に楽しんだ。ゼフと暮らしてこの方、同年代の子供との関わりがほぼなかったのでそれも当然のことだろう。
互いに生い立ちが複雑で響き合うものもあったのか。
すぐに親友と呼べるほどに打ち解けあった二人は、共に過ごす時間が長くなるほどに心の深い部分での結びつきを強めていった。