紫陽花

♦別れ

 孤児院暮らしで、同年代の子供が周りにたくさんいても心を閉ざしてあまり関わりを持つ事のなかったゾロシアと、ゼフと二人暮らしでそもそも同年代の子供と関わる機会のなかったサンジーノ。
 そんな二人が親友として、寄り添うように時を重ねるうち、互いを特別に思うようになるのはある意味自然の流れだった。
「一緒にいたい」が「離れたくない」になり、「触れてみたい」「自分だけのものにしたい」へと変わっていく。けれど、互いにその思いを口にできないまま時だけが過ぎていった。
 ある日、いつものように些細なことから喧嘩になり、額を突き合わせてくだらない言い合いをしていた。互いに一歩も引かず、「あぁん!?」とより一層額を擦り合わせようとした時。勢い余ってうっかり唇が触れ合った。
 一瞬で真っ赤になり動揺して飛び退ろうとしたサンジーノの手を、ゾロシアが強く掴んだ。熱を帯びた強い瞳を直視できなくて、思わず俯く。
「なあ、今の……もう一回してェ」
 ピクリと、ゾロシアの手の中の腕が揺れた。
「…………」
「ダメか?」
 俯いたまま黙り込むサンジーノに焦れたゾロシアが、顔を覗き込んできた。ゾロシアの薄く形のいい唇に、サンジーノの目が釘付けになる。
 ——アレにもう一度触れてみたい。
 強い衝動がサンジーノを突き動かした。
 ストッパーを外したのはゾロシアだ。それならもう、何も恐れることはない。
「だ、めじゃ……な」
 のろのろと顔を上げつつ、掠れる声をなんとか絞り出す。最後の音が紡がれるより早く、柔らかな感触が口を塞いだ。角度を変えながら何度も何度も唇を食まれるのに、不器用に、でも必死に応える。
 それが、二人の最初のキスだった。
 一度境界線を踏み越えてしまいさえすれば、若さという勢いもあって体を重ねるようになるまでそう時間はかからなかった。ゼフの目を盗んでは、サンジーノの部屋の男二人で寝るには狭いシングルベッドで、飽きもせず互いを強く求め合う。
 その日もゼフが出かけたのをいいことに体を重ね、二人とも生まれたままの姿で事後の余韻に浸っている時だった。
「なあ、おまえのジジイ、いったい何者だ?」
 うつ伏せになってタバコを吸うサンジーノの背中にじゃれるようにのし掛かりながら、ゾロシアが言った。
 ここのところ、ゼフが家を空ける頻度が増していた。ヤリたい盛りの二人にとっては喜ぶべきことなのであるが、あのゼフが店を閉めて何日も帰ってこないことも最近は多くなっており、何やら事情があるのは間違いなさそうだった。
(相変わらず、勘の鋭いやつだな)
 サンジーノは、吐き出す煙に隠して小さくため息をついた。
 直接本人から聞いた訳ではないが、おそらくゼフには裏の顔がある。
 時々店にやってくるゼフの知り合いらしき面子を見るに、マフィアとの関わりがあるのではないかと踏んでいる。最近やたらと家を空けるようになったのも、おそらくそちらで何か問題があったからだろう。
 敢えてゼフが何も言わないのには理由があるのだろうし、時期が来ればきちんと話してくれるはずだとサンジーノは信じていた。
 だからそれまでは、いくら相手がゾロシアでもゼフに関することを口にするつもりはない。
「ジジイか?蹴りが半端なく強くて、でも料理の腕は一流の、おれの育ての親だ」
 短くなったタバコを灰皿に押し付ける。
「そんなことよりさ、」
 サンジーノは軽く首をひねると、わずかに色を含んだ上目遣いでゾロシアを見上げた。
「もっかい、やろうぜ」
 分かりやすく反応を示した下半身を押し付けるように覆い被さってくるゾロシアに、サンジーノは再び身を委ねた。

 
 ゼフから話があると呼ばれたのは、それから少し経ってからだった。
「今まで言ってなかったが、レストランのオーナーっていうのは表向きの顔だ。おれには、マフィアの幹部カポ・レジームっていう別の顔がある」
 テーブルを挟んで向かい合って座る育ての親の顔を見ながら、サンジーノはやっぱりな、と思った。そこまでの地位にあるというのはいささか想定外ではあったが、驚きは全くない。
「なんとなくそうなんじゃないかって思ってた。でもなんで、今になって言うんだ?」
「言うつもりはなかったが、事情が変わった」
「事情?」
「これまでも小さないざこざはあったんだが、抗争が激化してな……うちの首領と若頭アンダーボスがやられた。それで——おれが次の首領になることになった」
「は?ジジイが首領!?」
「おれにはこの店があるし何度も断った。でも、決まっちまったものはしょうがねェ」
「え、じゃあこの店どうなるんだ?」
「閉めるしかねェな。——なあ、サンジーノ」
 普段あまり聞かないような柔らかさを含んだ声音で、ゼフがサンジーノの名前を呼んだ。目尻の皺がほんの少し深くなる。
「おれがこのことをずっと黙ってたのは、おまえをこの世界に引き込みたくなかったからだ。できることならこのままずっと真っ当に生きてほしい。おまえももう十八、そろそろ独り立ちする頃合いだろう。これを機に、ここを出て好きに生きろ」
 
 ——どれだけ深く愛されているのだろう。
 
 分かってはいたつもりだったが、サンジーノは改めてゼフの愛情の深さを思い知った。
 死にかけのガキだった自分を拾い、それから十二年もの間育ててくれた。分かりやすい形ではなかったけれど、実の親から疎まれて育った自分にたくさんの愛を注いでくれて、どれだけ救われたか知れない。それだけでもう十分すぎるくらいなのに、自分が思う以上にゼフは自分のことを大切にしてくれていたようだ。
 この先一生かかったって返しきれないものを、ゼフは惜しみなく与えてくれた。自分は、その恩に対してまだ何も返せていない。

「ジジイ、おれさ、あんたに拾われてここまで育つことができたんだ。名前をもらって、食わせてもらって、コックとして育ててもらって。そうやって、ずっとおれのこと守ってくれてた。なのに、おれはまだ何一つ返せちゃいねェ。だから、ここではいサヨナラって訳にはいかないんだよ」
 ゼフは仏頂面で、ふうと息を一つ吐いた。
「全部おれが勝手にやったことだ、おまえが恩を返す筋合いはねェ」
「じゃあさ、これは恩返しじゃなくて親孝行だ。まだしばらくジジイの側にいて仕事を手伝うのがおれなりの親孝行。だいたい、マフィアだから何だってんだ。たとえ真っ当な道じゃなくても、ジジイがそこにいるならおれにとっては誇るべき道だ」
「おまえな……」
「悪ィが、こればっかりは譲れねェ」
 こうなった時のサンジーノはテコでも動かない。そのことをよく知っているゼフは、長く深いため息をつくと言った。
「……好きにしろ。ただし、抜けたくなったらいつでも言え」
 この日を境に、サンジーノの運命の歯車は再び大きく動き出した。
 
 
「——という訳なんだ。なあ、おまえもうちのファミリーに入れよ」
 ゼフと話をしてから数日後。サンジーノの部屋で逢瀬を果たし、ひとしきり体を重ねた後にサンジーノはゾロシアに切り出した。
「おまえもそろそろあそこ出ないとだろ」
 ゾロシアも今年で十八歳。孤児院を出なければならない歳だ。だから二つ返事で了承してもらえるだろうという予想に反し、ゾロシアは「少し考えさせてくれ」と答えた。何を悩むことがあるのかとは思ったが、最終的にはいい返事がもらえるだろうとサンジーノは楽観視していた。
 ゾロと一緒に過ごすようになってしばらくしてからは、二人で街に繰り出しては不良相手によく喧嘩を吹っかけた。サンジーノはゼフ直伝の蹴り技、ゾロシアは孤児院の院長から手解きを受けた剣技。二人で喧嘩をするうちに鍛え上げられた技に太刀打ちできるものはほとんどおらず、今となっては二人ともこの辺りでは向かうところ敵なしだ。そんなゾロシアがファミリーに入ってくれれば心強い。何より、これまで以上に一緒にいられる。ゾロシアだってきっと同じ気持ちのはずだ、そう思って疑わなかった。
 だから、「悪いが、おまえんとこのファミリーには入らねェ」と言われた時、サンジーノはひどく狼狽えた。まさか断られるなんて想定外もいいところだ。
「は?入らないっておまえ、じゃあどうすんだよ」
「孤児院は出る」
「出て、その後は?当てはあるのか?」
「ああ」
「……っ、そもそも断る理由はなんだ?悪い話じゃなかったはずだ!」
 感情的に言い募るサンジーノを、ゾロシアは苦しげな顔で見た。しかしそれは一瞬で、すぐに元の表情に戻るとグッと口を引き結んだ。
「おれは、鷹の目のファミリーに入る」
「……え?」
 呆気に取られたサンジーノが「え」の形のまま口を開けて固まる。
 それもそのはず、鷹の目ファミリーといえばゼフのファミリーとは対立関係にある。ゾロシアが鷹の目ファミリーに属するということは、サンジーノとも対立関係になることと同意義だ。
「少し前から鷹の目ファミリーのやつから誘われててずっと考えてた。剣の道でもっと強くなるために、名のある剣豪のミホークが首領である鷹の目ファミリーに入る。それが、考え抜いて出した結論だ」
「……おまえが鷹の目ファミリーに入れば、おれとおまえは敵同士になる。それは承知の上か?」
「そうなることは理解してる」
「マフィアで敵同士ってことは、もうこれまでみたいに会えないだけじゃない、おれたちの関係は今日ここで終わるってことだ。おまえはそれでいいって言うのかよ……!」
 サンジーノの瞳が揺れる。胸の底から絞り出すような叫びに決心が揺らぎそうになりながらも、ゾロシアは努めて冷静に言葉を紡いだ。
「たとえ敵同士になっても、おれがおまえを想う気持ちは変わらねェ」
「だったらなんで……っ」
「なあ、」とゾロシアはサンジーノの両肩を掴むとゆらゆらと揺れる瞳を覗き込み、一つ一つ言い聞かせるようにした。
「確かに当分は会えない。だから、その間に力をつけるんだ。ファミリーの中でのし上がって地位を築く。そうすれば、いずれまた会える。だからそれまでは耐えろ。おれ達の関係を今日ここで終わらせないためにも」
 本当はサンジーノの誘いに乗れたらどれだけ良かったかと思う。でも、道を分つからこそ守れるものもあると信じた。
 血生臭い稼業だ、この先命に危険が及ぶこともたくさんあるだろう。
 ああ見えてゼフはサンジーノのことをとても大事にしている。だからファミリーの中ではゼフに任せておけばいい。
 それなら自分にできるのは、ゼフの手の届かない外から守ること。そのために、ゾロシアは敢えて敵対する道を選んだ。
 孤独だった自分に、初めてぬくもりを教えてくれた男。その陽だまりみたいな優しさと温かさを守れるのなら、たとえ選んだ道の先に別れが待っていたとしても構わなかった。

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