それからしばらくは学校や部活が忙しく、久しぶりにラブホのバイトに入った時にはあの男の傷の手当てをしてから二週間が経っていた。今日のペアも深澤さんだ。
よくもまあ世の中にはこんなにヤリたい男女が溢れているものだと思うくらいに盛況で、息つく間もなくひたすら清掃を繰り返していたらもう夜明けの時刻になっていた。
「最近時々変な人がいるのよね」
掃除道具を片付けていると、普段滅多に雑談はしない深澤さんが珍しくゾロに話しかけてきた。
「変な人、ですか?」
「そうなのよ。裏口出てすぐの所に時々座り込んでるの。こっちに気付くとすぐどこかには行くけど、傷だらけのことも多くて気味悪いのよ」
そう聞いて、ゾロの頭の中にはすぐにある人物の顔が浮かんだ。あの日から、ずっと頭の片隅に居座っているあの男。
「そいつ、もしかして金髪ですか」
「そうそう!色白で金髪でスラリと背が高い男。もしかしてロロノア君も見たことある?」
やっぱり。間違いなさそうだ。
「あー、こないだバイト入った時にゴミ捨てしようとしたらおれも見ました、そいつ」
「その時はどんな感じだった?」
「おれが見た時も傷だらけでした。ドアの前に座って邪魔だったんで、どいてくれって声かけて」
「なかなか勇気あるじゃない。それで?どうなった?」
「傷のせいかしばらくは動けないみたいだったけど、しばらくしてどっか行きました」
半分は、嘘だ。自分が家に連れ帰って介抱したのが、本当。
「逆ギレとかされなくて良かったわね。それにしてもなんなのかしら。不良の喧嘩とか?……あ、それとももしかして」
深澤さんの目がキラリと光る。
「もしかして、何ですか?」
「いやね、他のスタッフから聞いたんだけど、この界隈ゲイ風俗が多いみたい。それでこのホテルが、いわゆるゲイデリヘル呼ぶのによく使われるらしくて、しかもSMプレイとか過激なプレイも何でもアリっていう噂」
だからもしかしてそこでウリしてる子なのかもね、と続ける深澤さんの言葉に、頭を思いっきり殴られたような気がした。
でも、言われてみれば思い当たる要素はいくつもあった。
滅多に人の通らないホテルの裏口に居たということ。鞭で打たれたような傷、体を見せることを拒んだ手。あの手の傷も、喧嘩で負った傷というよりは紐とか手錠が擦れた痕だと言われた方が納得がいく。
最初に感じたのは怒りだ。
それとも嫌悪感と言った方が正しいかもしれない。あの男に対してではない。あの綺麗な男をボロボロに傷つける行為そのものや、それをする人間がいるということを考えると虫唾が走った。
次に、会いたい、と思った。
会って自分が何を言える訳でもない。色々と事情があるのだろうし、もしかすると好きでしている仕事なのかもしれない。そもそもゾロ自身こういった仕事に特に偏見はない。
けれど、もしかしたらまたあんな風に傷だらけで一人座り込んでいるかもしれないと思ったら堪らなかった。大丈夫かと声をかけて、抱きしめて——
そこまで考えてハッと我に返る。
いったい何を考えているんだ、おれは。
でも、抱きしめて癒してやりたいと思うほどにあの男の体よりも心の方がもっと傷ついている、そんな気がした。
今日もあの男はあの場所にいるだろうか。
そう思ったら居ても立ってもいられなくなって、ゾロは深澤さんに声をかけた。
「そうだとしてもしょっちゅうあそこに居座られると困りますよね。おれちょっと、ゴミ出しついでに見てきます」
「いいの?そうしてくれるとすごく助かるけど……」
ホッとした顔をしてゴミをまとめるのを手伝ってくれた深澤さんにお礼を言って、裏口へ向かう。
どうかそこに居てくれ——祈るようにしてドアノブに手をかけると、掌に感じる抵抗。
きっとあの男だ。
力一杯ドアを押して外に飛び出ると、
「やっぱりいた」
そこには、きらきらと光る頭に朝日を浴び、膝に顔を伏せて座り込むあの男がいた。
男の姿を認めた時のおれは、かくれんぼで隠れていた子を見つけた鬼のように、多分うっすらと笑みすら浮かべていたと思う。
でも、声に反応して顔を上げた男を見た途端にそんなものは霧散した。
首にくっきりと残る手形。
まるで、首を絞められたかのような——。
「またアンタかよ……っていうか超顔怖いんですけど?」
「……その首」
「ああこれか。まあ、ちょっとな」
「……手当」
「別にいいって。こんくらい何ともない。それよりさ、アンタ単語しか喋れない病気にでも罹ったワケ?」
自分のことなんかどうでもいいみたいに、ヘラヘラ笑う男に無性に腹が立った。
「よくねェ!!」
突然声を荒げたゾロに驚いたのか、男の目が大きく見開かれる。
「な、なんだよ突然」
「いいか、傷の手当てしてやるから、おれの仕事が終わるまでそこを動くなよ」
「はあ!?なんでアンタに指図されなきゃならな——」
「いいから!……そこを動くんじゃねェ」
地を這うような声でそう言うと、男の返事も待たずに仕事に戻った。
あの男が素直に自分の言うことを聞いて待っていてくれるなんて確証はない。もしかするともう既にいないかもしれない。気持ちばかりがやけに焦る。
腹が立って腹が立って仕方なかった。自分を軽んじるあの男にも、あの男に傷をつける名前も知らない誰かにも、あの男を引き止めておくことすらできないかもしれない無力な自分にも。
退勤時刻まであと十五分。
ジリジリと進む時計の針を睨みつけていると、後ろから声がかかった。
「あ、ロロノア君!どうだった、金髪の男いた?」
深澤さんだ。
「いました。また座り込んでたんで退くように声はかけましたけど。帰りにもう一度確認しときます」
「えーまたいたの?やっぱり店長に相談した方がいいのかな……」
「いや、まだいるようならおれから話してみます。大事になってもなんですし」
「バイトの子にそこまでさせるのも気がひけるけど、ロロノア君がそう言うなら……でも危なくなったらすぐ引くこと。いいわね」
「うっす」
「そしたらあと少し時間あるけど、もう上がっていいわよ」
「ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げて、更衣室へダッシュする。ヘタに嘘をつくよりもと概ね事実を伝えたが、それで少し早く上がれたから結果オーライだ。
自分に出しうる全速力で着替えて裏口のドアの前まで行くと、いったん立ち止まって深呼吸をした。それから、逸る気持ちを抑えてそっとドアノブに手をかける。
ドアは呆気ないほど簡単に開いた。
そのことにひどく落胆して、でも念のためと外を覗き込んだゾロは、安堵のあまり思わず座り込みそうになった。
ドアから少し離れた所。そこに、さっきと同じように座り込んで不貞腐れたような顔でこちらを見る男がいた。
「よかった、ちゃんといた」
思わず素直な気持ちが口をついて出る。
「……っ、別にアンタに言われたからここにいた訳じゃねェよ。ちょっと体が痺れて動けなかっただけだ」
「そうかよ。んじゃ、おれんち行くぞ」
「だから行くなんておれは一言も……うわっ!ちょ、何だよこれ!おろせ!!」
いわゆる『お姫様抱っこ』のスタイルで抱えられた男が、長い手足をバタつかせて暴れる。
「痺れてるから動けないんだろ?いいから大人しくしとけ」
ニヤリと笑って言ってやると、男は顔を真っ赤にしてさらに暴れた。
「もう治った!治ったからおろせ!!じゃないと恥ずかしくて死んじまう!!」
あまりにもギャーギャー騒ぐので仕方なくおろすと、男は少しふらつきながらも自力で歩き出した。
「本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫だって言ってんだろ!……っとに、何なんだよアンタ……」
逃げられないと踏んだのか、ブツブツと文句を言いながらも大人しくついてくる。
それならばと好きにさせることにして、ゾロは男と二人、初夏の早朝の涼しくも瑞々しい空気の中をゆっくりと自宅まで歩いて行った。
「内出血なら冷やしときゃ早く治る」
玄関先で少し逡巡したものの結局家に上がり、ベッドに背を預けて床に座った男にタオルで包んだ保冷剤を手渡した。
それから自分の分と男の分、二人分の麦茶を氷を入れたグラスに注いでこたつテーブルへと運ぶ。ゾロは自分の分の麦茶を一気に飲み干すと、グラスを握ったまま、すいと保冷剤を当てた男の首へと視線を走らせた。
「それ……首締められたのか」
「アンタにそう見えるなら、そうかもな」
否定もせず、肯定もせず、ただ肩をすくめるだけ。まるで他人事のように振る舞う男に、先程から腹の底で燻っていた怒りの余燼が再びゆらりと燃え上がる。
どうしてこんなに腹が立つのだろう。
友達でもなければ家族でもない、赤の他人がどんなに自分自身を雑に扱おうがこちらには関係のないことだし、口を出す権利もない。プライベートに土足で踏み込むなんてもっての外だ。
頭の中の冷静な部分ではそう理解していた。だから、それとは真逆の言葉を放ってしまったのは、急速に勢いを増す炎の熱にあてられたからだとしか思えない。
「誤魔化すな。客にやられたんだろう」
ダン!と空のグラスをこたつテーブルに叩きつけると、残った氷がカランと場違いに爽やかな音を立てた。
そんなゾロの行動にではなく、『客』という言葉に男がピクリと反応した。
ほんの一瞬能面のように顔から表情が消え、それからすぐに取って付けたような笑みが浮かぶ。
「あー悪ィ悪ィ、おれとしたことが気付かなかった。そうだよな、見ず知らずの他人に何の見返りもなく親切にするわけねェよな。おれとヤリたいならこんな回りくどいことせずに、最初からそう言ってくれればいいのに」
その台詞にもだが、首を冷やしていた保冷剤を床に置きおもむろにシャツのボタンを外しだした男の目を見て、ゾロは言葉を失った。
あんなに綺麗で透き通っていた瞳は、雨が降り出す前の曇天のように暗く濁っていた。
そうしている間にも男はどんどんボタンを外していき、隠されていた白い肌が晒されていく。いっそ神秘的なまでの清らかな白を汚して点々と散らばる、血痕のような朱《あか》。
「あっちこっち傷とか痕とかついてるから、萎えちまうかもだけど」
ハハ、と男が乾いた笑いを浮かべた瞬間、ぐわりと得体の知れない感情がゾロを襲う。
気付けば、男を抱き締めていた。
「……違う。そんなこと、しなくていいんだ」
ようやく出た声は、みっともなく掠れていた。
その声を聞いて、突然のことに体を硬直させていた男がため息とともに力を抜いて、ポツリと言った。
「違わねェよ。おれの仕事、知ってたんだな」
「知ってる訳じゃねェ。ただ噂を聞いてそうなんじゃないかって思っただけで——」
「それも多分、間違ってねェよ。まあアレだな、いわゆるウリセンってやつ。で、やんの?やんねえの?」
まるで、『どうする?メシ食う?』くらいの軽さだった。
そんな簡単に自分を放り出すなんて、この男は自分のことを道端の石ころくらいにしか思っていないのだろうか。
そんなことないのに。こんなに綺麗なモンは、もっと大事に慈しまれるべきだ。
「やらねェ」
「じゃあ他に何が望みだ?」
「何もいらねェよ。ただ単に、傷の手当てをしてやりたいと思ったからしたまでだ」
「……なんで」
今度は男の声が戸惑いを含んで掠れた。
「痛そうだったから」
——体だけじゃなく、心も——
「んだよ、それ……」
ガクリと下げた頭をゾロの肩にもたせかけるようにして、「ほんと、何なんだよアンタ」と消え入りそうな声で男が呟く。ゾロは、その声のように頼りない痩身を抱く腕に力を込めた。
「なあ、また怪我してるおまえを見かけたら、こうやって手当てさせてほしい」
「おれがあそこに行かなければ、もう二度と会わねェだろ」
「もし必要な時は、おれのとこに来い。あそこのバイトはたまにしか入らねェけど、近くのコンビニでならよくバイトしてるし。ってか、そのうち通報されそうだからラブホの裏口に座り込むのはやめろ」
「勝手なことばっかり言うなよ」
男が軽くゾロの胸を押して立ち上がった。そのままスタスタと玄関まで歩いて行く。
「だいたいコンビニなんてあの辺たくさんあるじゃねェか」
「……! ラブホから少し行ったところに小さな郵便局があるだろ。その横の駐車場のあるコンビニだ。大体いつも日付が変わる時間まで働いてる」
聞こえてはいるのだろうが、振り向きもせず世話になったとだけ言って寄越して出て行こうとする男の背中にゾロは声をかけた。
「名前!名前教えてくれ。おれはゾロだ」
玄関のドアを開けながら、男が振り向いて目を細めた。
「万が一次に会うことがあれば、そん時に教えてやる」
パタンとドアが閉まり、部屋にゾロだけが取り残される。
こたつテーブルの上には手付かずのままの麦茶のグラス。溶けずに残った氷が、陽の光を浴びて冷たくキラキラと輝いていた。