あれから、男と会うことのないまま三週間が経過した。
ラブホのバイトがない日にも何度か裏口のところを覗きに行ったりもしたが、男の姿を見かけることはなかった。
このままもう会うこともないのかと諦めが滲んできた四週目。コンビニのバイトを終え店を出ると、そこにあの男がいた。
「「あ」」
見事にハモって、お互い黙り込む。
まるで幽霊でも見るかのようにゾロは男を見た。
確かにこの一ヶ月ずっと会いたかった。でもあまりに突然すぎて現実味がないのだ。疲れて幻でも見ているのかもしれないと右頬を抓ってみる。痛い。一応左頬も抓ってみた。やっぱり痛い。
ブッと男が吹き出した。
「何やってんの、アンタ」
「いや、夢じゃないよなと思って……どうしてここに?」
「この店の前を通りかかった時、急に雨が降ってきたから雨宿りしてただけだ。断じてアンタに会いに来たわけじゃないからな、勘違いすんなよ」
確かに、ついさっきまで降っていなかった雨が今は地面を濡らしている。大粒で勢いの強い雨だ、確かに雨宿りもしたくなるだろう。でも本当にそれだけだろうか?
「もしかしておまえ、また怪我したのか?」
「さあな」
そう言って男はシャツのポケットから煙草を一本取り出すと、慣れた手つきでいかにも安物なライターで火をつけた。
「煙草、吸うんだな」
「ああ。迷惑だったらやめるけど」
「いや、構わねェ」
煙草を中指と人差し指で挟み、気怠げに口元へと持っていく様を見るともなしに眺めていたゾロはふと違和感を覚えた。今は六月半ばだ。夜の気温も少しずつ上がり、梅雨で湿度も高いので長袖を着るには暑い。なのに、目の前のこの男は長袖シャツの袖のボタンを全て留めてきっちりと着込んでいる。
何かを隠したいからではないか?いったい何を?——そんなの怪我に決まっている。打ち身だか擦過傷だか鬱血痕だか知らないが、おそらく何らかの傷があるに違いない。
このコンビニの場所は教えてあった。さっきはああ言っていたが、本当は自分の意志でここに来たとしたら?
自分に、会いにきてくれたのだとしたら?
それなら、できることは一つだ。
煙草を持つ手の、手首のあたりをぐっと掴む。男の顔がわずかに苦痛に歪んだ。
「やっぱり。怪我してるんだろう、ここ」
黙り込んだまま男が顔を逸らす。返事がなくとも、この反応は「はいそうです」と言っているのと同じことだ。
「ちょっと待ってろ、傘買ってくる」
出てきたばかりのコンビニの自動ドアをくぐり、入り口付近にあった透明のビニール傘を一本引っ掴んでレジに行く。同じくバイトの大学生に精算を頼んで急いで店を出ると、男はまだぼんやりと煙草を吸っていた。ゾロが出てきたのを認めると、残り短くなっていた煙草をスタンド灰皿に押し付けて火を消す。
「ちょっと狭いけど我慢しろ」
「えー、野郎と相合傘なんて寒すぎんだけど」
ん、と広げた傘を掲げて見せると、文句を言いつつも傘の中に入り込んできた。
「こういうのは可愛いレディとするモンだろ」
「おまえ、男が好きなわけじゃないのか?」
「バーカ、誰が野郎なんか好きになるかよ。おれが好きなのはレディだけだ」
「じゃあなんで……」
既の所でゾロが飲み込んだ言葉を、男は正確に読み取ったようだった。
「おれがウリセンしてるのは、男が好きだからじゃねえよ。そっちの方が需要があるからやってるだけだ」
言いたいことは色々あった。でも今度はそういうの全部を完璧に飲み込んで、
「そうか」
とだけ口にした。
そこで会話が途切れる。一本の傘の下で身を寄せ合って黙々と家まで歩きながら、雨音があってよかった、とゾロは思った。
アパートにつくと、男は玄関先で躊躇うことなくゾロの家に上がった。どうしたってはみ出してしまう片方の肩がびしょ濡れになっていたので、ゾロは乾いたタオルで拭きながら前回同様ベッドに背をつけて床に座った男にも一枚タオルを放った。それから二人分の麦茶を氷を入れたグラスに注ぎ、こたつテーブルに置く。
「傷。見せたい所だけでいいから出してくれ」
そう言うと、男はシャツの袖を捲り、チノパンを膝まで引き上げた。両手首の内側はまだらに赤くなっており、一部水ぶくれになっている。足は一見して怪我がなさそうに見えたが、男が片方の膝を倒すと脹ら脛の部分に手首と同様赤みと水ぶくれがあった。きっと反対側の脹ら脛にもあるのだろう。
「火傷?」
「ああ」
「じゃあとりあえず冷やさないとだな。風呂場使っていいから、シャワーで冷やしてこい」
大人しく風呂場に向かった男がシャワーで傷を冷やしている間に、きれいなタオルを一枚風呂場のドアにかけておく。次に救急箱からガーゼとテープを取り出すと、冷蔵庫の中を漁り出した。
「確かこの中に入れておいたはず……あった」
冷蔵庫から小瓶を取り出してガーゼやテープと一緒にこたつテーブルに置き、麦茶を飲んでいると男が風呂場から戻ってきた。
「よし、そこ座れ」
男が座ると小瓶を手に取り、中身を指で掬って赤くなった所に塗っていく。
「これ薬か?なんか甘い匂いがする……」
「馬油だ。知らねェのか?」
「ばーゆ?」
「名前のまんま、馬の油だ。火傷とかに効くから持って行けって、一人暮らしする時にばあちゃんに持たされたんだが、結構効くぞ」
「そうか。おまえ、愛されてるんだな」
ふわりと、男が笑った。どこか寂しそうなその笑みは渇望と諦めがない混ぜになっていて、ゾロの胸をひどく締め付ける。
「なあ、こないだみたいに抱き締めてもいいか?」
本能でそうしないといけないような気がした。それに何よりゾロ自身がそうしたかった。
「…………」
「嫌か?」
「嫌、ってわけじゃない……けど」
拒否はされていない。そうわかると、ゾロは手にしていた馬油の瓶を床に置くと、そうっと男を抱きしめた。大切なものを慈しむように、抱きしめたまま髪や背中を優しく撫でる。そうしていると、最初は強張っていた男の体から徐々に力が抜けていき、くたりと体を預けてきた。
「アンタ、優しいんだな」
小さく小さく、男が呟く。
「そうでもないぞ」
「優しくない奴はこんなことしねェよ」
「……本来のおれは、他人に興味はねェし、自分のやりたいことだけできればそれでいい人間だ。だから、もしおれが優しいんだとすれば、それはきっとおまえ限定だ」
「何でおれ限定になるんだよ……ほんとアンタって意味わかんね」
「ほんとだな」
ハハッと笑うと、男が不意に顔を上げてゾロの目を見た。
「それからさ……おまえじゃなくて、『サンジ』な」
「そうそうサンジ——え?」
「言ったろ、次に会うことがあれば名前教えてやるって」
目を見開いて驚くゾロを見て、男が悪戯っぽく笑う。
初めて見る楽しそうな笑顔だった。乾いた自嘲的な笑みなんかより、寂しそうな笑みなんかより、断然こっちがいい。そんな気持ちが自然と口をついて出ていた。
「その顔いいな。おまえにはそっちの方が似合ってる」
「え、ちょっ……マジで何なんだよアンタ」
パッと下を向き、そろそろ離せとぐいぐいゾロの体を押してくる。その白いうなじと耳がほんのり赤く染まっているのを見たらなんとなくゾロも恥ずかしくなって、抵抗せずに男の体を放した。
「よ、よし。じゃあ傷の手当ての続きするぞ」
残りの赤い部分に馬油を塗り、水ぶくれの部分はそっとガーゼで覆ってテープで止める。
「水ぶくれのところは深いかも知んねェからちゃんと病院に行った方がいい」
「わかった」
「なあ、そんなことない方がいいんだろうけど、また怪我したらいつでもあのコンビニに来い。もしおれが店にいなければこの家に来てくれてもいい。鍵閉めてないことも多いから、だいたいは入れるはずだ」
「いや物騒だから鍵は閉めとけよ」
「じゃあドアポストの内側に合鍵貼っつけておく」
「行くとは言ってねェけどな。……おれそろそろ帰るわ。今日はありがとう」
そう言って立ち上がると、男はさっさと行ってしまった。
「『サンジ』……か」
ようやく知った名前。しかも、向こうから教えてくれた。さらには笑顔まで。
サンジがこの部屋にいたのは、今日もやっぱり麦茶の氷がほとんど溶けないくらいの短い時間だったけれど、少しだけ距離が近づいたような気がして、ゾロの心は明るかった。
それから、時々サンジはゾロのバイト先であるコンビニに現れるようになった。ゾロが上がる間際にやって来て、ゾロが出てくるのを外で煙草を吸いながら待っている。週に一回くらいのこともあれば、二日続けてやってきたりとその頻度はまちまちだった。サンジなりの線引きがあるのか、決して直接ゾロの家に来ることはなかった。
変化もあった。たまにではあるが、怪我をしていない時にもやってくるようになったのだ。傷があれば手当てをしたし、そうじゃない時はただ静かに抱きしめて髪や背中を撫でて過ごした。傷を見せてくれる範囲も徐々に広くなって、上半身は全部晒してくれるようになった。
そしてやっぱり、サンジはゾロの出す麦茶の氷が溶ける前に帰ってしまうのだった。
でも、その短い時間でゾロとサンジは少しずつ、いろんな話をした。
怪我の経緯だとか。
煙草のこととか。
ゾロの学校や部活のこととか。
バイトでの面白いエピソードとか。
サンジにねだられれば家族の話もした。
ゾロは決してサンジの事情に自分から深入りしなかったから、サンジがゾロのことをたくさん知っていっても、ゾロがサンジについて知っていることといえば、ウリセンをしていて過激なプレイを要求する固定客がいること、煙草を吸うこと、その銘柄がDEATH LIGHTであること、くらいだった。でもそれで別に構わなかった。だってゾロに会いにくる時のサンジはいつも心か体のどこかしらが痛そうで。ただただその痛みを少しでも癒すことができるのならば、それだけでよかった。
七月に入り、前期試験に向けての勉強や部活で忙しく前半はほとんどバイトに入れなかった。サンジが直接家に来ない以上、バイトに入らなければ会うこともない。連絡先くらい聞いておけばよかったと後悔したが後の祭りだ。
何とか試験をクリアし、久しぶりにコンビニのバイトに入ったのは七月も終わりかけの頃だった。そろそろ上がる時間、という時に窓の外に見慣れた金色が現れてて、ゾロの気持ちがぐんと上向きになる。
サンジが会いにくるということはつまり、サンジがどこかしらに痛みを抱えているということなので喜べることではないのだが、やはり会えるというのは純粋に嬉しかった。
「すまねェ、試験でしばらくバイト入れなかっ——」
時間になると同時にそそくさと帰り支度をし、外で待っているサンジの元へと駆け寄った途端、ゾロは言葉を失った。
ひどく憔悴した顔は顔色も悪かった。元々細かったが、さらに痩せたような気もする。真夏だというのにきっちりと着込んだ長袖シャツには所々に赤い染みが——血痕?
「おい、なんだよその怪我!?急いでうち行くぞ」
「わり……ちょっと肩かしてくんねェ?」
サンジが自ら手助けを求めるなど滅多にない。それほどひどいのだろうか。足は怪我してないか?そもそもこの血痕はなんだ?
その場でシャツをはだけて確認したい気持ちをグッと抑え込む。
一刻も早く家に連れて帰りたいが、この様子だと支えて歩くよりも背負って帰った方が早い。そう判断して背中を差し出すと、大人しく覆いかぶさってきた。らしくない従順さ。鼻先を掠める鉄の匂い。軽くなった身体。
そんなものを感じ取った瞬間、腹の底から唐突に怒りが湧き上がった。マグマのようなそれが一瞬で体を満たし、心がどす黒く塗り潰されていく。
けれど、このドロドロしたものをぶつける先は自分や名も知らない誰かであって、サンジではない。こいつは何も悪くない。
それなのに、どうして。どうして。どうして。
行き場のない怒りが内から身を焦がす。その痛みに歯を食いしばって耐え、ゾロはサンジを背負い家までの道を急いだ。
家に連れ帰ったサンジを、ゾロはそっと床に座らせた。
「傷……全部見せてくれ」
「……あんま気持ちのいいもんじゃないぞ」
「いいから!」
思わず大声が出る。
拒否しても無駄だと悟ったのか、サンジはのろのろとシャツのボタンを外し始めた。一個、二個、三個……時間をかけてボタンを全部外し、シャツをパサリと落とす。覆う物のなくなった、剥き出しの裸の上半身を見てゾロは息を呑んだ。
白い肌を鮮やかに彩るのは、無数の剃刀で切ったような切り傷、皮膚が裂けて血の滲む鞭痕、縄の痕。
「足、は」
情けないことに少し声が震えた。
シャツを脱ぐ時と同じように時間をかけてズボンと靴下を脱ぎ、ボクサーパンツ一枚になったサンジの足には上半身と同じような傷が散らばっていた。
呆然としながらも大腿から下腿へと下ろしていったゾロの視線が足の指で止まる。
左足の小指が、変な方向に曲がっていた。
「おまえ、これ……」
「ああ、折られた。小指一本四万だってさ、笑えるよな」
それを聞いた瞬間、箍が外れた。ずっと押し殺していた言葉が溢れ出てくるのをもう止められなかった。
「……んだよ、それ…………笑えねェよ…全然笑えねェ!!何でここまでされてこの仕事続けてるんだ!?もっと自分のこと大事にしろよ!!」
「……おれさ。兄弟の中で一人だけ頭も出来も悪くて。『それなりの家系』ってヤツだったから、この家の恥だって親にも見捨てられて……カラダ売るくらいしか能がねェんだよ、おれ」
幸い需要はあったしな、とサンジはどこか諦めたようにさっぱりと笑った。
その笑顔を見たらダメだった。もう耐えられなかった。
どうしてそれでも笑ってんだよ。だって——
「痛ェだろ……」
目の前の傷だらけの体を腕の中に閉じ込めて、囁くような声を絞り出した。込み上げそうになる涙を必死に抑え込む。
「痛くねェよ。確かに体はちょっと痛いけど、痛くねェ。……アンタの方がよっぽど痛そうだ」
「ああ痛ェよ!こんなおまえ見てると心臓の辺りが痛くてたまらねェ……なのに、何もしてやれない自分に死ぬほど腹が立つんだ!」
「そんなことない。なんでアンタがおれなんかを気にかけてくれるのかはいまだに分からねェけど、こんな風に人から優しくされるのって初めてでさ。……アンタがいたから。こんな人生でも、続けるのも悪くねェなってやっと思えたんだ」
言葉と同時に、ふわりと首の後ろにぬくもりが触れた。
サンジの腕——これまでゾロが何度抱き締めても、一度だって抱き返してくることのなかったサンジの両腕が、初めてゾロを抱きしめているのだった。
「ありがとう。なのに痛い思いさせて、ごめん」
必死に抑え込んでいた涙が下瞼を越えてこぼれ落ちた。
一度堰を切った涙はゾロの意志とは無関係に次から次へとこぼれ落ち、頬を伝い顎を伝ってサンジの裸の肩にポトリと落ちる。
濡れた感触に、サンジが驚いてゾロの顔を覗き込んできた。
どこまでも澄んだ、青。
こんな目に遭っても尚、この男はこんなにも綺麗だ。
「泣いてる、のか?」
人前で泣くのも、自分ではない誰かのことで泣くのも初めてだった。
だから誤魔化し方も知らないし、この涙を誤魔化したくもなかった。
この男の痛みを癒したい、その思いは今も変わらない。でも上辺だけじゃ足りない。もっと深いところに触れたい。
もう一歩踏み込むなら、今だ。ゾロの本能が叫ぶ。
「おまえがっ……こんなに痛ェのに、なかったことにするから……おれも、それを分かってて見て見ぬふりをしてた。けどやっぱ、それじゃあダメだ。これ以上見ないふりなんて出来ねェ!時間がかかってもいい、それまではおれがおまえの痛みをちゃんと受け止めるから…………だから、きちんと自分の痛みと向き合ってやれよ……サンジ!」
まん丸に見開かれていた目が、不意に歪んだ。
「おれ……痛いのか?」
「痛ェよ。これまでずっと、痛かったんだ」
「そっか……ずっと痛かったのか、おれ」
コロン、とサンジの目から宝石みたいな粒がこぼれ落ちた。
たまらずに、ぎゅうと抱き締める腕に力を込める。
ヒクッと喉の鳴る音が聞こえた。
「————うー……」
ゾロの腕の中で、サンジは時々しゃくり上げながら咽び泣き、その泣き声を聞いてゾロもまた泣いた。泣きながらサンジの髪や体を撫で、傷の手当てをし、またぎゅうと抱き締めた。サンジも、まるで子供がしがみつくようにゾロのことをぎゅうと抱き締めた。
そうやって泣いて泣いて、瞼が腫れぼったくなった頃。
「この仕事、やめねェか」
ポツリと、ゾロが言った。
「そうだよなぁ……もう潮時か」
「やりたい事とかねェのか?」
「やりたいこと、ねえ」
考えたこともなかったな、とサンジが苦笑を浮かべる。
「必要とされたくて必死だったから、おれ」
「ならもう大丈夫だ。これから考えりゃいい」
「大丈夫って、何が?」
「おれにはおまえが必要だから、心配いらねェってこった」
「…………え?」
「言っとくけど、必要なのはカラダじゃねェぞ。他人に興味のないおれがおまえのことだけは気になって、ほっとけなくて、何かしてやりたいと思うんだ。それっておれにとっておまえは特別で、つまりは必要としてるってことだろう?」
「そう、なのか?」
「絶対そうだろ」
「へへ……そっか」
幸せそうに笑うサンジを見ていたら、胸の奥がぎゅっとなった。甘く切なく疼くような痛み。この痛みはきっと、初めて出会ったあの日から、胸の中にある。
「なあ。用なんかなくていいからさ、またいつでもここに来いよ。合鍵はドアポストに貼っつけとくから」
「わかった。……ゾロ、本当にありがとう」
初めてちゃんと呼んでくれたな、名前。そう言って、ゾロもようやく笑った。
麦茶の氷が溶ける頃
