Blinding Lights

 ——いやだ、苦しい、気持ち悪い。
 
 夜の、誰もいない倉庫。
 髪を掴まれて無理やり上げさせられた視線の先には、息を荒げる一軍の男。
 男は下半身を露出して、俺の口の中に性器を突っ込んでいる。
 怒張して体積を増したそれが容赦なく喉の奥を抉って、俺の目には生理的な涙が浮かんだ。
 趣味の悪いことに俺が泣いていると勘違いして興奮が増したのか、さらに大きくした性器で再び喉の奥を抉られ、耐えきれずに嘔吐いた拍子にうっかり歯を立ててしまった。
「痛え!」
 男が喚き、口から性器が引き抜かれる。直後、思い切り横っ面を殴られて俺は地面に沈んだ。口の中が切れたんだろう、じわりと鉄の味が広がる。歯は折れていないはずだ。たぶん。
「この下手くそ! 歯を立てるんじゃねえって何度言えばわかるんだ!」
「ごめん、なさい」
 そっちが無茶するからだろうと思ったが、おとなしく謝った。その方が丸く収まるから。口答えなんかしようものならさらに殴られるだけだ。
 悲しいかな、こんなことはこれが初めてじゃない。だから俺は拷問のようなこの時間をできるだけ無難にやり過ごす術を身につけてしまっていた。
 
 チッと舌打ちした男が、倒れた俺の服を掴んで無理やり引きずり起こした。
「おい、さっさと下脱いでそこの壁に手ぇつけやがれ」
 言われた通りにズボンと下着を脱ぎ、男に背を向け壁に手をついて立つ。と、尻から太ももあたりにかけて冷たくヌルヌルとした液体をぶち撒けられた。
「内股に力入れてろよ……っ!」
 言うなり、さっき俺の口に突っ込んでいた性器を太ももの間に挿し込んできたので、慌てて内股に力を入れて締めつけた。
 
(よかった、今日は挿れられなくてすみそうだ)
 
 相手は一人だし、このまま挿入なしで終わるなら今日はかなりマシな方だろう。
 口でするか、こうやって太ももで挟んでやって済むならいい。気持ち悪いだけで、殴られさえしなければ体の負担もほとんどない。
 ただ、挿入となると話は別だった。向こうも何もせずに突っ込むと自分も痛いのかおざなりに慣らしてはくれるが、いかんせんおざなりなので肛門が切れて流血沙汰になるなんてことはしょっちゅうある。それに、こちらのことなんてお構いなしに好き勝手されるものだから、翌日ロクに動けなくなったり、中が傷ついて熱が出るなんてこともあった。中に出されればお腹を下すし、とにかく挿入があるのとないのとでは雲泥の差があるのだ。
 
 後ろからハァハァと犬みたいに速く荒い息が聞こえる。
 気持ち悪い。さっさと終わらせてほしい。ずっと内股に力を入れているから足が攣りそうだ。
 だから、気持ちよくなんかないけど喘ぎ声をあげた。わざとらしくならないように、控えめに、ちらりと男の方を見上げて。無駄に重ねた経験から身につけた術。こんなもの、身につけたくなんかなかったけれど、自分を守るためには必要だった。
「ハッ、こんなことされて感じるたぁとんだ淫乱野郎だな」
 嘲りの言葉を吐きつつもさらに息を荒げて抽送のスピードを上げた男に、もう一息とばかりに微妙に足の角度を変え、さらに内股に力を入れた。
「クッ……」
 腰を掴む男の手に力が入り骨が軋む。続いて男はグッと腰を押し付けてから動きを止め、低く呻きながら欲望の飛沫を放った。
 パタ、パタと床に白い染みが生まれるのを他人事のようにぼんやりと眺める。
 
(……終わった)
 
 全ての欲を吐ききった男の性器が太ももの間からずるりと抜かれる。次いで男の手が腰から離れると、支えを失った俺はその場に倒れ込んだ。
「今日はこれで勘弁してやる。あと綺麗にしておけよ」
 倒れた俺には見向きもせず、そそくさと服を整えた男が格納庫から出ていく。
 のろのろと起きあがろうとして、床に飛び散った精液の青臭いにおいが鼻についた。ぐっと胃の中身が迫り上がってきて、吐きそうになるのを口元を押さえて堪える。
 犯された後はいつもこうだ。
 相手に、望まない行為に——そして何よりろくな抵抗もせずにそれを受け入れるしかない自分自身への嫌悪感で吐き気がする。
 最初の頃は耐え切れずに吐いていた。時には泣きながら、吐くものがなくなるまで何度も、何度も。
 でもそれも最初のうちだけだった。心はだんだんと麻痺していって、今はもう吐き気がしても吐くことはほとんどない。涙も出ない。
 そんな自分に、さらに吐き気がした。
 
「シャワー、浴びなきゃ」
 
 こんな格好で倒れていたらまた別の奴にヤられる。
 吐き気を堪えながら、脱ぎ捨てていたパンツで精液と体にかけられたローションを雑に拭き取り、ズボンを履こうと手に取る。
 その時だった。
 
「誰かいんのか?」
 
 入り口から漏れる光の中に人影が伸びた。反射的にびくりと体を固まらせ、息を詰める。
 声には聞き覚えがあった。一軍の奴じゃない。
 
 ——ノルバ・シノ。
 
 自分と同じ参番組に所属する古参メンバーの一人。体も声も大きくて、気さくな性格でいつも人の輪の中心で笑ってる。よく目立つから、話したことは一度もなかったけれど彼のことは知っていた。
 その彼が、こんな時間になんでここにいるんだろう。この時間にここを訪れる人間はほとんどいないはずなのに。だからこそあの男は俺をここに連れ込んだのだ。
 とにかく、こんな姿を見られるわけにはいかない。どうか気づかれませんようにと祈りながら、暗闇に溶け込むようにさらに身を縮めて気配を殺した。
 けれど。祈り虚しく、彼は慎重な足つきで格納庫の中へと侵入すると真っ直ぐにこちらへと向かってきた。
 気づかれてしまったのだろうか。ああそういえば、彼は白兵戦のプロだと聞いたことがあったな、と絶望的な気持ちで思い出す。
 どんくさくて落ちこぼれで戦闘はからっきしの俺に、最初から勝ち目なんかないじゃないか。
 
「ん? この匂い……」
 
 気配に聡い男は鼻も効くのか、格納庫の澱んだ空気に混じる独特な匂いを嗅ぎ取ったらしい。
 匂いの元を辿るように彷徨った視線が、固まって動けないままの俺の視線とぶつかった。
 
「おい、大丈夫か!?」
 
 即座に走り寄ってきた彼に手を伸ばされて、びくりと体が竦む。
 これは条件反射のようなもので別に怯えたわけじゃなかったけれど、彼はハッとしたように動きを止めた。
 伸ばされた手が、行き場をなくしたように宙に浮く。俺の体を上から下へとなぞった彼の大きな目が、剥き出しの下半身に辿り着いたところでさらに大きく見開かれ、小さく息を呑む音がした。
 
 ——見られた。
 
 最悪だ。何をされていたか多分バレた。どうしよう。なんとかして誤魔化さないと。
「あ……これは、その、」
 こんな時でも俺はどんくさくて、うまい言い訳の一つも出てこない。情けなくて、俯いて下唇をきつく噛み締めると、「クソッタレ」と低く唸るような声が聞こえた。視界の端で、宙に浮いたままだった彼の手が何かに耐えるかのように強く握りしめられる。
 
「わりぃ、驚かせちまったな」
 どうしていいかわからずに縮こまっていると、ふいに衣擦れの音がして、ぱさりと足に何かが掛けられた。見慣れた緑色のそれは支給品のジャケットで、大きくてほんのりと温かい。
 もしかしなくとも、気遣ってくれたのだろうか。
「あの、これ」
 戸惑いつつ顔を上げると、いつの間にしゃがみ込んだのか目線の高さに彼の顔があった。
 申し訳なさそうに眉尻を下げた、大きくて優しげな目が、真っ直ぐに俺を見る。
「いいんだ、気にすんな。ところでよ。お前、これ……一軍の奴か?」
「…………」
 〝これ〟が何を指すかなんて明らかだった。
 黙り込むのは肯定しているのと同じことだなんてわかっていたけれど、俺は否定も肯定もしなかった。
 だって、たとえバレているとしても言える訳がない。俺は犯されました、だなんて。
 
「そうなんだな。で、誰だ? お前にこんなことした奴は」
 案の定、彼は無言を肯定と受け取ったらしかった。容赦なく問いただしてくる声は低く、目の奥がちっとも笑ってない。
「……そんなこと聞いてどうするの」
「決まってんだろ。そいつをぶん殴りに行くんだよ」
「何でそんなこと……やめてよ。俺が悪いんだから、あんたがそんなことする必要ない。だいたい、そんなことしたらあんただってタダじゃすまないだろ」
「お前が悪い? 何だよそれ」
 彼が不機嫌そうにギュッと眉根を寄せる。
 なんでそこに引っかかるんだよ、頼むからもう放っておいてくれよと戸惑いから一転して腹が立ってきて、半ば自棄になって答えた。
「俺がとろくて弱くて落ちこぼれで、それに女みたいな顔してるからだよ! わかったらもう——」
「ちょっと待て。それでなんでお前が悪いってことになんだよ」
「……え?」
「だから! それお前なんも悪くねえじゃん」
「でも、みんな俺が悪いって……」
「みんなって誰だよ」
 
 みんなは、みんなだ。俺の体を好き勝手にする奴、みんな。
 |CGS《ここ》に入る前から、金髪と女みたいな見た目のせいで一方的に欲望の対象にされることがあった。あの頃は幼すぎて自分がされていることの意味はよくわからなかったけど、そいつらは決まって「お前が悪いんだ」と言うから、これはきっと罰みたいなもんなんだろうと思っていた。
 |CGS《ここ》に入ってからも同じで、俺を犯す奴はみんなお前が悪いからだと言った。
 金髪だから、女みたいだから、色が白いから、のろまだから、弱いから、仕事をちゃんとこなせないから。俺が悪いと言われる理由は様々だったけれど、ただ一つ確かなのは「俺が悪い」ということだ。
 だから、成長して何をされているのか理解できるようになっても、罰だから仕方ないという意識は変わらなかった。
 けど、そんなの言える訳がない。

「あのなあ」
 黙り込んでいると、ため息の後に小さい子に言い聞かせるみたいな声が降ってきた。
「みんなってのが誰か知らねえけど、悪いのはそいつらだろ。とろいとか、弱いとか、女みたいな顔してるとか、そんなんはどれもお前にこんなことしていい理由にはならねえよ。だからお前はなーんも悪くねえ」
「なんだよ、それ」
 
 思わず声が震えた。
 俺は悪くない? なんだそれ。罰だと思ってこれまで耐えてきたのに、俺が悪くないんなら——。
 ああ、なんだ。そうか。
 ふと気づいてしまった。
 あいつらはきっと言い訳がほしかっただけなんだ。俺を悪者にして、薄汚い欲を一方的にぶつけることを正当化するための言い訳が。
 そんなことに今の今まで気づかなかったなんて、俺はなんてバカなんだろう。
 身も蓋もない事実はだからこそ残酷で、俺をひどく打ちのめした。

「……そんなこと、知りたくなかった」
 
 自分が悪いと思っていた方がよっぽどマシだったと小さく呟けば、「それは違えだろ」と咎めるような声が返ってきた。
「何が違うんだよ! おれと同じ目に遭ったこともないくせに、あんたに何がわかる……!」
 弾かれるように顔を上げて彼を睨みつけ、瞬間的に湧き上がる怒りのままに叫ぶ。
 睨みつける俺の視線を真正面から受け止めた彼は、突然詰られたことに驚くでも戸惑うでもなく、静かな目をしていた。そして、ほんの少し躊躇ってから大きな手をそっと俺の肩に置いた。
「お前の言う通り、たしかに俺は全部はわかってやれねえ。けどよ、お前は何も悪くないのに、自分が悪いって、罰だって思うのはダメだってのはわかる。それはやっぱ間違ってる」
「そんな正論、あんたが強いから言えるんだ! 俺は弱いから…………」
 頼むからもう黙って。放っておいて。そう伝えようとした時だった。
「何言ってんだ。お前つえーじゃん」
 あっけらかんと言い放たれた言葉に思考がフリーズする。
 俺が、強い? 何を根拠にそんな。固まる俺なんてお構いなしに彼は続けた。
「それに、俺だって別に強くねえよ。悔しいけど、所詮は髭付きのガキでしかない。圧倒的に力が足りねえ。だから、もう二度とお前がこんな目に遭わないように守ってやるって言ってやりたいけど、今の俺にはまだ守り切るだけの力がねえ」
 そう話す顔が、ひどく苦しそうだった。
 なんであんたがそんな顔するんだ。まるで自分のことみたいに怒って傷ついて、バカじゃないのか。 そう思うのに、苦しそうな彼の顔を見たら、なぜか胸をぎゅうっと握り潰されるような心地がした。
「なんであんたがそんな顔するんだよ。守ってくれなんて頼んでない、放っておけよ俺のことなんか……どうせ俺の名前も知らないくせに」
 そうだ、もうこれ以上構わずに放っておいてくれれば、きっとこんな風に胸が苦しくなることもない。あんたがそんな苦しそうな顔をすることもない。
 だから、突き放すようにそう言った。けれど彼は、嫌だとでも言うように俺の肩に置いた手に力を込めた。
 
「俺、知ってんよ、お前の名前——ヤマギ。ヤマギ・ギルマトン」
 
 薄闇に、ぽつんと俺の名前が浮かぶ。それもフルネーム。
「な、んで……俺の名前」
 思わず息を呑み、見開いた目で彼を見つめた。
「あん? そりゃ仲間なんだから知ってて当然だろ」
 事も無げに言うのを聞きながら、当然なんかじゃないだろうと心の中で呟く。
 だってここでは、毎日たくさんの人間が死んでいく。その度に新たに子どもが補充され、その一部は阿頼耶識の手術に失敗して姿を消す。入れ替わりが激しすぎるし、そもそも自分がその日一日を生き延びるのに精一杯で、いちいち全員の顔と名前なんて覚えてられない。長く一緒にいる奴や目立つ奴、あとは同じ班のメンバーくらいは覚えているにしても、俺みたいに目立たないようになるべく存在を消して過ごしている奴のことなんて知らない方が当然だ。
 なのに知っていたと言うのだろうか。俺のことを。
 
「それによ、ヤマギってなーんか目につくんだよな。髪の毛キンキラしてっし、まあ確かに訓練中はしょっちゅう怒鳴られてボコられてるし? でもそんな小さくて細っこいのに、あんだけボコられても泣きごと一つ言わねえで立ち上がる背中見てすげえなって思ってたんだ。あいつ根性あるなって」
 
 嘘だろ目立ってたのかとか、他にもいろいろ、言いたいことはあった。けど。
 
「なんだよ、それ」
 
 口から出たのは、情けなく掠れた一言だけだった。
 
 ひたすらに虐げられて、誰にも認められず、誰の記憶にも残らず、そう遠くないうちに呆気なく死んでいくんだろうと思っていた。まるで、宇宙に漂うちっぽけな塵みたいに。
 でも、俺を見てくれている人がいた。こんな俺をすごいって認めてくれる人がいた。——初めて、この世界に存在することを許された気がした。
 
「なあ、ヤマギよぉ」
 
 優しい声が俺の名を呼ぶ。
 
「一緒に、もっともっと強くなろうぜ。そんで、いつか一緒に一軍の奴らも理不尽もぜーんぶぶっ飛ばして自由になんだ!」
 
 ああ、すごいな。不敵に笑う彼を見て、素直にそう思った。
 クソみたいな毎日なのに、優しさも、笑顔も、未来への希望も失くさないなんて、やっぱり彼は強い。
 俺も彼みたいに強くなれるんだろうか?
 
「俺は……そんなに強くなれる気がしない」
 
 俺にはとても無理だと思った。物理的にも精神的にも、どんなに頑張ってもあんな風に強くなれる気がしない。
 卑屈になる俺に、彼は「なーに言ってんだ」と相変わらずの優しい声で言った。
「そんなん、やってみないとわかんねえだろ?」
「でも俺……」
「あ、もしかしてお前なんか勘違いしてねーか? 強いってのは何も体力があるとか武器の扱いが上手いとかそんなんばっかじゃねえぞ。強さにもいろいろあんだ。みんなと同じようにできなくても、自分にしかできねえことがあればそれは強さになる」
「自分にしかできないこと……?」
「おう! なんかありそうか?」
 しばらく考えてみたけれど、自分にしかできないことなんて、女の代わりにされることなんていう最低最悪の自虐しか思いつかなかった。
「ダメだ、そんなのないよ」
「おいおい……そうだなー、じゃあ得意なことは? 読み書きできるとか、計算できるとか」
「得意ってほどじゃないけど、読み書きとか計算なら少しはできるかな」
「マジか! スッゲーじゃんヤマギ!! 頭いいんだなぁ」
「いやだから、少しならって……」
「少しでもすげーよ。だって俺、ぜんっぜん出来ねえもん。ここじゃ他の奴らも読み書きできない奴のが多いけど、できた方がいいことっていっぱいあんじゃん? だからさ、それはヤマギの武器だし強さだな」
「俺の、強さ?」
「そうだ! なあいいか、ヤマギ。自分の武器を磨け。自分の強さを大事にして伸ばせ。そうすりゃ絶対に強くなれる」
 
 ——ああ、眩しい。
 
 真っ暗で何もなかった俺の世界に、一筋の光が差す。
 光を放ったのは彼だ。
 真っ暗闇を色鮮やかに塗り替えて、見えなかったものを見えるようにして、俺の世界を作りかえる希望の光。
 そんな光を放つ彼は、さながら太陽のようで。
 
「ほんとうに? そうすれば、俺でも強くなれる?」
「もちろんだ。この俺が言うんだから間違いねえ!」
 
 な! と笑い、肩に置かれていた大きな手が今度はくしゃりと頭を撫でる。
 眩しい笑顔も、触れた手から伝わる確かな熱も。そんなところも太陽みたいだと、そう思った。
 
 
 *
 
 
 
 あの夜から程なくして、俺は突然整備班への異動を命じられた。
 整備の仕事には読み書き、それに計算ができる必要がある。つまりここは、彼が俺の武器であり強さだと言ってくれた力を存分に発揮することができる場所だ。
 整備班を仕切るのは雪之丞さん——みんなからおやっさんと呼ばれている——で、ここでは数少ないまともな大人だった。仕事には厳しいけれど、たくさんのことを教えてくれる。相変わらず仕事が遅い俺にも、『丁寧にミスなく、これが整備士の基本だ』と言ってくれて、理不尽に暴力を振るうこともない。そんなおやっさんのテリトリーである格納庫では他の一軍の奴らもあまり勝手なことはできないのか、整備班に異動してからは今のところ望まない行為を強要されるようなこともなかった。
 信頼できる大人がいて、安全で、自分の力を活かせる場所。
 そんな場所にタイミングよく異動できるなんて、偶然にしては出来過ぎていた。もしかしなくとも、きっと——。
 頭の中に浮かんだ考えは、きっと間違ってはいないはずだ。
 
 
  
「おい、ヤマギ……ヤマギ!」
 名前を呼ばれて目を開けると、こちらを覗き込む茶色の大きな瞳が目に入った。ちょっとタレ気味のその目の上には太くて凛々しい眉。ああ、この顔は。
「あれ、シノさん……なんでここに……?」
 なんでここに彼がいるんだろう? あれ、っていうか俺何してたんだっけ。たしか薬莢を片付けてくるように言われて……
 
「——ッ! 俺、いつの間に寝て……!? すいません、戻るんで! それじゃあ、また」
 
 こんなところで寝こけるなんて大失態だ。どれくらい寝てたかわからないけれど、とにかく早く戻らないと。
 慌てて立ち上がり挨拶もそこそこに走り去ろうとする俺を、「まあ待てって」と彼が呼び止めた。
「もう夕飯時だ。急がなくていいんじゃねえか? 食堂行こうぜ」
「ううん。薬莢の片付けと補充、まだ終わってないから」
 今日中には片付けないと、と胸に抱えたままのケースをぎゅっと抱き込むと、片方の眉毛だけをあげて彼がニッと笑った。
「おやっさんから大目玉か?」
「うん……ううん」
 どっちともつかない返事を返した俺に、どっちだよと彼が至極真っ当なツッコミを入れる。
「……いいのかな、って」
 俺は少し迷ってから、躊躇いつつ言葉を口にした。
「おやっさんは厳しいけど、すごく良くしてくれる。怒鳴るのだって、全部俺のためだってわかるんだ。一軍の奴とは大違い」
「あー、ま、こんなところで居眠りなんかかましてたらな。前だったらボコられまくって、一週間はなーんもできずベッドでおねんねだ」
 全身ボロボロになって寝込んでいる自分が容易に想像できて、俺は素直に「うん」と頷く。
 前だったらたぶんどころか、絶対そうだった。でも今は——。
「仕事だって、俺だけが安全なところで作業してる。シノさんやみんなは、命かけて戦ってるのに」
 整備班に異動してから、ずっと胸の内で燻っていた罪悪感。
 落ちこぼれの自分だけがのうのうと安全な場所にいることが後ろめたくて、情けなくて。俺はここにいるべきじゃない、そんな気持ちがたぶん仕事にも表れていたと思う。
 項垂れる俺の頭上から、怒ったような低い声が降ってきた。

「……お前、本気でそう思ってんのか」
「え?」

 思わず顔を上げると、真剣な瞳に射すくめられた。
 
「整備士のこと、俺はなんも知らねえけどよ。少なくともおやっさんは、戦ってんよ」
「戦ってる……?」
 おやっさんが? 戦ってる? 
 どういうことか理解できずにいる俺に、彼は噛んで含めるように言葉を続けた。
「ああ。MWに乗ってるとよ、この機体、おやっさんがいじってくれてるなら心配することなんざ何もねえって思える。自分の手足みたいに動いてよ、おやっさんがすぐそばで見てくれてる気がする」
 
 ボコボコにして返しちまうけどな、と苦く笑うのを聞きながら、俺の心は驚きでいっぱいだった。
 知らなかった。彼がおやっさんのことをそこまで信頼していたことも、おやっさんの存在が戦場で彼の支えになっていることも。
 
「次乗るときには、ちゃんとまたしっくりピッタリ整備してくれてる。——戦場に出てねえだけだ。おやっさんはちゃんと、一緒に戦ってくれてるんだよ」
 
 また心に驚きが満ちる。一緒に戦ってるだなんて、今までそんな風に考えたことなんてなかった。
 でも、実際に戦場で戦っている彼がそう思うんなら、きっとそうなんだろう。
 
「そっか……うん、そうだね」
「お前も、そういう整備士になれよ。っつか、なれる素質あんじゃね?」
「え?」
「お前、近頃メシ食う時でも寝る時でも、ずーっと整備のためのマニュアル読んでるって噂だぜ。どうせろくに寝てねえんだろ。だからこんなゴミ捨て場で行き倒れ」
 呆れたように言われて、思わず反論する。
「そりゃあ、だって、俺みたいな落ちこぼれを拾ってもらったんだ! せめておやっさんに迷惑かけないように——」
「せめてって、そんな低いところ目指すんじゃねーよ。どうせ徹夜すんなら、志は高えところに持っとけ!」
 
 ガツンと、思いきり頭を殴られたような衝撃だった。
 こんな俺でも、上を目指すことが許されるんだろうか。
 身に染みた卑屈さのせいで尻込みしてしまうけれど、彼の力強い声が、いいから前へ進めとそんな俺の背中を押した。
 許されるなら、俺も目指したい。おやっさんみたいに、戦場に出なくても戦えるような整備士になりたい。
 湧き上がる気持ちのままに、高らかに誓う。

「うん、俺なるよ! シノさんやみんなと戦える整備士に!」
「よーし、よく言ったぁ! それじゃあよ、将来俺がMSに乗る時には、ヤマギ、その機体はお前が整備してくれ!」
「えぇ? CGSにMSを配備できる資金なんてあるはず……」
「へっへん! 俺も高く持つんだよ、志をよぉ! あー、想像するだけでションベンちびりそうだぜ。俺専用の機体に、専属のメカニック! 最っ強じゃねえか!!」
「専属って……」
「だはー! もう誰にも負ける気しね〜! 俺らどこまでも行こうぜ! なあ、ヤマギ!」
 専用のMSに専属のメカニック。今の俺たちからすればそんなのは夢物語だ。なのに、まるで小さな子どもみたいに目をキラキラさせて大袈裟な身振り手振りで話す彼を見ていたら、そんな夢も叶うかもしれないと思えてくるから不思議だ。
 彼の専用機の専属整備士。俺が持てる全ての力で以て整備した機体で、彼が戦場をどこまでも自由に駆けて行く。そんな未来に胸が弾んで、自然と頬が緩む。
「ふふ、もう。シノさんは」
「はいストーップ! パイロットとメカニックっつったらよ、バディだろ? お前は俺の相棒なんだ、『さん』づけなんていらねえって」
「相棒?」
「ほれ、遠慮せずに呼んでみろよ。いちにのさんはいっ!」
「わかった。これからよろしく……シノ」
「おう、よろしくな! ヤマギ!」
 そうやって、手を差し出して屈託なく笑いかけてくる顔が。
 
 ——ああ、まただ。眩しい。俺の世界に光が差す。
 
 シノ。俺の世界を照らす太陽。
 あんたの放つ光は、真っ暗闇から俺を救い出してくれて、見たことのない景色を見せてくれる。
 そして今。俺に夢を、生きる意味をくれた。
 俺は、返しきれないだけのものをあんたからもらったんだ。
 ねえ、シノ。
 だから俺は、あんたのために俺の全てを捧げるよ。あんたのためにできる事は何だってする。
 そうして俺に——あんたの夢を叶えさせて。

 目を焼くほどの眩い光に向かって手を伸ばす。
 そうして触れた手からは確かな熱が伝わってきて。
 やっぱり太陽みたいだと、そう思った。

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