my shining star

「……ノ! …………ノ!!」
 
 声が、聞こえる。
 水の中に潜った時みたいに、くぐもってどこか遠く聞こえるその声が段々と近づいてくる。
 
「シノ!!」
 
 瞼の裏を照らす光が翳ったと同時、近づいてきていた声が一段と近くで聞こえた。
 名前だ。俺の名前。声は俺の名前を呼んでいる。
 必死に、「シノ」、と俺の名前を。
 どうか生きていてと祈るかのようなその声が、沈みつつあった俺の意識の端っこを掴んだ。
 
「…………グハッ、ゲホッ……ゴホッ、ゴホッ」
 
 咳き込んで血を吐いて、肺に空気が入ってくる。
 息する度に胸が痛え。胸だけじゃなくて、全身どこもかしこもとんでもなく痛む。
 でも痛いってことは、生きてるってことだ。
 まだ朦朧としたままの意識でそう思う。
 出血がひどいのか、コックピットには鉄みてえな血の匂いと、ボロボロにされた流星号から漏れ出たオイルの匂いが充満していた。ひどい匂いだ。けどそこに、嗅ぎ慣れた匂いが混ざっているのを俺の鼻は敏感に嗅ぎ取った。
 
 火星の、桜農園のトウモロコシ畑を吹き抜ける風みたいな、ふんわりとした甘さの混ざった、からりとした清々しい匂い。
 
 間違いねえ、これはヤマギの匂いだ。
 いつの頃からか気づけばヤマギはいつもさりげなく俺のすぐ側にいて、だから俺は、いつの間にかヤマギの匂いを覚えちまってた。
 寝ても覚めても整備に励んでくれているヤマギからは、体に染みついたオイルの匂いとみんなと同じ石鹸の匂いに混じって、トウモロコシ畑を吹き抜ける風みたいなふんわりと甘くて清々しい、そんな匂いがした。
 俺は、そんなヤマギの匂いが嫌いじゃなかった。
 いや、どっちかっつーと好きだった。だから自然と覚えた。
 
「……っ、よかった……」
 
 揺れて掠れた声が鼓膜を揺らす。続いて、鼻を啜るような音も聞こえた。
 もしかしてヤマギ泣いてんのか?
 俺が生きてたから。
 俺なんかのために、泣いてくれんのか。
 ああ……でもそっか、よく考えたらお前はいつもそうだよな。
 戦いから戻った時、『おかえり』って迎えてくれるヤマギに俺が『ただいま』って言うと、ヤマギいっつも笑うだろ? 安心したような、でもどこか泣きそうな顔でよ。
 俺バカだから今になってやっと気づいたけど、あれは——俺の自惚れじゃなきゃ、俺が生きて帰ってきたことをすんげえ喜んでくれてるんだよな。
 
 なあ、ヤマギ。
 お前が俺に守る力をくれて、前に出て戦えるようになって、「死ぬ」ってことに俺は多分また一歩近づいた。
 でもよ、CGSの時と違ってそれは無駄死になんかじゃねえ。もう誰も死なせないために、鉄華団を、家族を守って未来につなぐための死だ。
 だからって死ぬのが怖くないって言ったら嘘になるけど、鉄華団のためなら俺は自分のちっぽけな命なんて全然惜しくねえ。むしろ俺一人の命でみんなを守れるなら安いもんだって思ってる。
 けど……けどよ。ヤマギが「おかえり」って言ってくれるから。俺が生きてて嬉しいみたいな顔してくれるから。俺、誰かにそんなあったかいモンもらったの初めてで嬉しくってよ。
 だから生きて戻らなきゃって。鉄華団のために命張る覚悟は変わんねえけど、何がなんでも生きて戻ってやるって、今はそう思える。
 俺にもし「還る場所」なんてものがあるんなら、それはきっと、ヤマギのとこなんだろうな。
 ヤマギはさ、俺に守る力だけじゃなくて、生きることへの執着もくれたんだ。
 やっぱりお前すげーよ。一生かかっても敵う気がしねえ。
 
 ありがとな、ヤマギ。
 俺なんかのために泣いてくれて。
 俺を、生かしてくれて。
 
 ……なあ、まだ泣いてんのか?
 ちゃんと生きてるから大丈夫、もう泣くなってヤマギの丸っこい頭を撫でてやりてえけど、ダメだ。ぜんぜん体が言うこと聞かなくて、指一本動かせねえ。
 ヤマギの泣き顔も見たいのに目も開かねえし。
 だってよ、絶対めちゃくちゃキレイだろ、俺のために泣いてくれるヤマギの泣き顔。
 なのに見れねえなんて勿体なさすぎるだろ。
 クソッ、動けよ俺の体!
 
 

 その時、ごしごしと何かを拭う気配がしてふいにヤマギの匂いが強くなった。胸の辺りが温かくなって、背中にも温かいものが回される。首筋に濡れてしっとりとしたものが触れて、鼻先をさらりとした何かがくすぐって。ようやく俺はヤマギに抱きしめられたんだってわかった。
 
「おかえり、シノ。…………生きててくれて、ありがとう」
 
 囁く声が首筋を撫で、鼓膜を震わせ、心の中にそっと降り積もる。
 なんでか猛烈にヤマギを抱きしめたい衝動に駆られたけど、やっぱり指一本動かなくて。
 代わりにアツいものが込み上げてきて、血と混じって頬を伝った。
 
「ヤ……ギ…………」
 
 バッと音を立てて触れていた熱が遠ざかる。
 ああ離れちまうの勿体ねえな、声かけなきゃよかったなって後悔してる俺の肩を、ヤマギが力強く掴んだ。
 
「シノ! シノ! 気がついた? 気がついたんだね!?」
「う…………」
「よかった……! いい、シノ。無理して喋らないでいいからここでじっとしてて。俺、シノをこっから降ろすための準備してくるから」
 そう言ってさらに離れて行こうとするヤマギに向かって反射的に手を伸ばそうとして、右腕がわずかに動いた。指先が、何かゴワゴワとしたものに縋りつく。これは——手袋?
 息を呑む気配がして、ややあってからヤマギの両手が俺の右手を包み込んだ。手袋をした指先で優しく俺の手を撫でながら、ヤマギが言葉を紡ぐ。
 
「大丈夫だよ、シノ。俺が絶対にシノを死なせない。死なせるもんか。だからそのためにも、今は少しだけ離れさせて。必ず戻ってくるから……シノをここに置き去りになんかしないから」
 
 ね、シノ、とそれでも俺の手を握ったままでいてくれているヤマギの手を、まだ動きのぎこちない親指で軽く撫でた。
 それだけでヤマギには意味が伝わったようで、そっと手を離すとコックピッドから飛び出して行く。
 その時ようやくうっすらと目が開いて、先ほど鼻先をくすぐった、光を弾いて輝く金が瞳の奥に残像を残した。
 
(……星、みてえ)
 
 俺がどこにいても迷わず帰って来れるように、一等星みたいにキラリと光る俺の星。
 俺の、還る場所。
 
(ただいま)
 
 胸の内でそう呟くと、俺はいまだ瞳の奥に残る光を閉じ込めるように目を閉じた。

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