すぐそばにあるはずの温もりを求めて彷徨った手が、空を切ってぱたんと落ちる。
ぱたん、ぱたん。猫が尻尾をタシンと地面に叩きつけるように何度か腕を持ち上げてはあちらこちらに落としてみても、一向に求めている温もりが手に触れる気配はない。
「んー……」
半分ねぼけたままうっすらと目をあけた。窓から差し込んで来たまばゆい光が目を焼き、思わずぎゅっとまぶたを閉じる。
「んんん」
不機嫌な声で唸りながら顔を思い切り顰めた。まぶたの裏に広がるスクリーン。そこに映し出された歪な形の残像が、青から緑、そして赤や黄へとストロボのように明滅しながら色を変えていく。
二人で住む家を決めた時、『遮光カーテンなんかにしたら、ヤマギぜってぇ起きないだろ』とシノに押し切られて寝室はいわゆる普通の、遮光ではないカーテンにした。実際のところ朝は苦手で、シノが夜勤でいない朝はカーテン越しに部屋を照らす光に何度助けられたか知れない。とはいえ、いつもはここまで眩しく感じることはない。たぶん、ひと足先に起きたシノがカーテンを開けたのだ。その証拠に、リビングからは炒め物をしているらしい音とともにバターのいい匂いがしてくる。
ベッドの上の、ひと一人分の空白。ぽっかり空いたそれが、なんだかひどく寒々しかった。
ぶるりと小さく体が震える。まるでエネルギーの塊のような、シノの高い体温が恋しい。それから、そこだけはいつだってヒヤリと冷たい左手も。
「……しの」
思わず名を呼んだ声は、紙が擦れあう音のようにガサガサとひび割れていた。
風邪でもひいたかな。そんなことを考えながら、冷えた体を温めようと毛布をぎゅっと巻きつけて、両足を抱え込むようにして体を小さく丸める。と、腰のあたりに鈍い痛みが走った。
「っあ、」
覚えのある痛みに、昨夜の記憶がまざまざと蘇ってくる。
枯れた声は風邪のせいなんかじゃない。腰の痛みも、重だるい下半身も、明け方までさんざんシノに啼かされたせいだ。
生々しい記憶に居た堪れなくなって毛布の中に潜り込むと、一糸纏わぬ裸体が目に入った。生白い肌の上に紅い花が点々と咲いている。どう見ても歯形にしか見えない跡も一つや二つじゃない。
またもや居た堪れなくなって毛布から顔を出すと、部屋の隅に投げ捨てられた下着が目に入った。その近くに部屋着もぐしゃぐしゃになって落ちている。取りに行きたくても、この体じゃとても動けそうにない。
「……サイアク」
「なーにがサイアクだって?」
てっきり台所にいるものだと思っていたから、寝室のドアからひょこりと顔を覗かせたシノに心底驚いた。白兵戦が得意だったシノは、その名残か今でも歩く時に足音を立てない。おかげで知らない間に背後に立たれて驚かされることがしょっちゅうある。
「びっくりした」
「うわっ、ヤマギ声ガッサガサじゃねえか!」
「うるさいな、誰のせいだよ」
ありったけの恨みを込めて睨みつけたのに、当の本人は「へへ、やっぱ俺のせい?」なんてだらしない顔で笑っている。
「昨日のヤマギ、めちゃくちゃエロかったもんな〜」
「……シノ」
「だってよぉ、本当のことなんだから仕方ねえじゃん」
「もう。バカなこと言ってる暇があるならそこのパンツ取ってよ」
「パンツ?」
「そう、パンツ」
言いながら、毛布から右手だけを出し部屋の隅を指差した。片眉だけを器用に持ち上げ、シノの目が指先を追うように動く。
「別に構わねえけど……あ」
目線をこちらに戻したシノの口角がみるみるうちに吊り上がった。反比例するように、ただでさえ下がり気味の目尻がさらに下がる。これは、シノがろくなことを考えていない時の顔だ。なんだかすごく嫌な予感がする。
「もしかしてヤマギ、ヤリすぎて腰が立たな——」
ほらやっぱり。
「いいから! とにかく早く取って!」
大声を出そうとして、思いきり声がひっくり返った。ああもう、ほんとにサイアクだ。
「ん〜ちょっとよく聞こえないなあ」
「だから、パンツ取ってって言ってるだろ!」
「え? パンツは取らなくていいからこっち来てって?」
すっとぼけたことを言いながら、シノはパンツの方ではなくベッドに向かってまっすぐ歩いてきた。
ギシリとベッドが鳴り、背中が軽く沈む。覆い被さるような格好で覗き込んできたシノを、ため息をつきながら恨めしげに見上げた。
「ちょっとシノ、ふざけるのもいい加減に——」
言いかけて、思わず息を呑んだ。だって、明るい茶色の瞳の奥には、濃密な夜の気配。
「そんなコト言われたら、期待しちゃうなあ」
わざと低めた吐息混じりの声が腰にくる。お腹の奥がキュウと疼いて、毛布の下で誤魔化すように足を擦り合わせた。
そんな俺の反応に気づいているんだろう。シノは毛布に指をかけ、ゆっくりと焦らすようにはだけさせていく。少しずつ露わになる肌を彩るのは、シノに愛された証。
朝の光のもとでは妙に生々しく見えるそれに、シノはそっと口づけた。
「やーらしいカラダ」
「……誰のせいだよ」
「さあ、誰だろうな?」
クスリと笑って、シノが耳たぶをカシリと噛んだ。それから、シノの分厚い舌が揃いの金のピアスの形を確かめるようになぞる感触。
「あんっ」
甘い痺れが背骨を走り抜け、たまらず声が漏れた。
「声もやーらし」
枯れてひび割れた声のどこがいやらしいのか。ただ聞き苦しいだけだろうに。そう言ってやりたいのに、首から鎖骨、鎖骨から肩へと紅い軌跡を辿るように口づけられ、やわく食まれてを繰り返されては口から漏れ出るのは意味をなさない嬌声だけだ。再び火をつけられてしまったカラダには、もどかしい刺激ですら毒に等しい。
「ほらヤマギ、誰のせいでこんなやらしいカラダになってんの?」
意地悪なシノ。俺にはシノだけって知ってるくせに。
「……いじわる」
「ヤマギの口から聞きてーの。だからさ」
お願い、と甘えるように耳元で囁かれれば、答えないわけにはいかなかった。シノの願いはなんでも叶えてあげたい、それが昔も今も俺のたった一つの願いだから。
「シノの、せいだよ。シノが俺をこんなにしたんだ」
「よくできました」
おでこに一つキスが降ってくる。物足りないと目で訴えてみれば、やわらかく目を細めたシノが今度は口にキスをしてくれた。
「ちゃんと答えられたご褒美に、もっとイイコトしちゃう?」
「イイコトって?」
「またまた〜、わかってんだろぉ」
「さあ、どうかな」
「じゃあさ、答え合わせしようぜ」
のし掛かってきたシノに身を任せる。
穏やかで平和な朝。真っ当な仕事について、シノと一つ屋根の下で暮らして。しかもただの同居人じゃない。いわゆる恋人同士というやつだ。キスだって、セックスだってする。シノが俺を愛してくれる。
戦いの中に身を置いていたあの頃は想像もつかなかった、決してあり得るはずのない未来。それが、今の俺の日常だ。