ここのところずっとモヤモヤする。いや、イライラすると言った方が正しいかもしれない。
それもこれも、我らが船長が連れてきたコック、あいつが原因だ。
これまでは、好きな時に寝て好きな時に起き、腹が減ったら適当にメシを食い、風呂なんて滅多に入らない自由気ままな海賊生活だった。洗濯?そんな面倒臭いことするわけがない。
なのに、あのコックが仲間になった途端おれ達の自由気ままな海賊生活は唐突に終わりを告げた。
まず、メシの時間というものが決められた。一日三回、朝昼晩。メシの時間に食べに行かないと、わざわざ探しにやって来て「さっさと食いに来やがれ!」と蹴りを喰らわせやがる。他人の世話を焼くなんて暇な野郎だ。頼むから放っといてくれと思うのに、毎食毎食律儀に呼びにくるもんだから鬱陶しくて最近は呼ばれる前に食卓につくことも増えた。以前の自分で適当に食っていた時に比べて、コックの作るメシはうま——いやいや悪くない——が、断じてメシを楽しみに食事の時間を守ってるわけじゃねェ。あくまでも、コックの鬱陶しい絡みを回避するためだ。
それにおやつの時間なんてものまでできた。おやつだぞ?海賊なのに、おやつ! なんなんだよおやつって。バカじゃねェのか。
そう思うのに、鍛練後でエネルギーを欲してる時に、絶妙に甘さを控えたモンを出してくるから食っちまう。甘ったるいモンならいらないと突っぱねることができるのに、気に食わねェ。
そして風呂。コックはやれ臭いだの汗を流せだの不潔だのとギャーギャー喚いては風呂に入れと煩いことこの上ない。風呂に入らないからって死ぬわけじゃなし、海賊なんて小汚いのが普通だろ。自分が毎日風呂に入るからっておれにまで綺麗好きを押し付けるんじゃねェよ。風呂に入りたくなりゃ勝手に入るんだから放っとけってんだ。
綺麗好きといえば洗濯もだ。天気が良ければ洗濯、洗濯、洗濯!昔話に出てくるバアさんかよ。
洗い物を出せと蹴り付きでしつこく催促してくるだけじゃ飽き足らず、「おまえらも手伝え」なんて抜かしやがる。洗濯したいなら自分一人で勝手にすればいいじゃねェか。なんでおれがコックの言いなりになって手伝わないといけないんだ?そんな時間があるなら鍛錬するか寝るかしたいんだよ、おれは。
他にも挙げればキリがない。
酒は本数どころか飲んでいいやつまで制限されるし、酒だけ飲んでれば何か食いながら飲めと煩いし、整理整頓しろ、掃除しろってこれじゃあ規則正しい健全海賊生活だ。規則正しくて健全なんて、海賊から一番かけ離れた言葉だろ。
生活がガラリと変えられただけじゃなく、何かにつけてイチャモンつけてくるのも腹が立つ。そのくせ女には不必要に媚びへつらいやがるし。
ああ、そんなことを考えてたら余計に腹が立ってきた。
こういう時は酒だ、酒。
コックがキッチンに居ようが居まいが、飲みたいやつを勝手に取ってやる。
そんなことを考えながらキッチンのドアを開けたおれは、予想外の光景に動きが止まった。コックが居たのは、まあ、予想の範囲内だ。ただ、コックのやっていることが予想とは異なっていた。
コックは料理をするでも皿を洗うでもキッチンの掃除をするでもなく、ダイニングテーブルに布を広げて、その上を薬缶《やかん》みたいな形をした鉄の塊を滑らせていた。時々布に霧吹きで水を吹きかけたりもしている。
「何やってんだ?」
しまった。黙って酒を取って出ていくはずだったのに、うっかり声をかけてしまった。
「何って、アイロンかけてるんだよ」
おれが声をかけてしまったことを後悔している間に、コックは薬缶みたいな鉄の塊を脇に置くとこともなげに答えた。
「あいろん?」
初めて耳にする単語だ。分からないというのが顔に出ていたのだろう、コックはおれを見ると、少しバカにしたような(とおれは感じた)笑みを浮かべた。
「何おまえ、アイロンも知らねェの?」
「知らなくて悪かったな」
「いや、別に悪くはねェが……あのな、アイロンってのは中に入れた炭火の熱で服や布の皺を伸ばすのに使う道具だ」
それを聞いて、頭の中に故郷であるシモツキ村で見た光景が蘇る。
そういえば、女達が時々金属でできた柄杓みたいなやつに炭火を入れて服や布の皺を伸ばしていた。あれは確かアイロンではなく火熨斗という名前だったように思うが、おそらく似たようなものなのだろう。
改めてコックの手元を見てみると、アイロンをかけているのはあいつがよく着ている青い縦縞のシャツだった。
三度の食事におやつ、風呂、洗濯。そして今度はアイロン!
こいつは一体どれだけきちんとしたら気が済むんだ。気に入らねェ。
だいたい、シャツにアイロンなんてかける必要ないだろう。チャラチャラして見た目にばかり気を使って、そのためにこんな無駄な時間を使うなんてバカじゃねェのか、そう思った。
だから、
「バカじゃねェの」
とそのまんま口にした。たっぷりと、嘲りを込めて。
「服なんざ皺伸ばさなくても着れるのに、わざわざ無駄に時間を使ってご苦労なこった。まあどうせテメェのことだ、女に良く見られたいとかカッコつけたいとか、そんなくだらない理由でやってんだろう」
持て余し気味の苛立ちを理不尽にぶつけた自覚はあった。それだけじゃない。あわよくば喧嘩に持ち込もうと、敢えてコックを挑発するような言葉を選んだ。
なぜか。
癪ではあるが、ここまで膨れ上がってしまった苛立ちはコックとの喧嘩でなければ解消できないことを知っていたからだ。
命のやり取りとはまた少し違う、けれど遠慮も手加減も一切なく力をぶつけ合うことで生まれるあのゾクゾクするような高揚感。今必要なのはアレだ。
気の短いコックは挑発に乗って蹴りの一つでも繰り出してくるだろう、そう踏んでわずかに腰を落として構えの姿勢を取る。
なのに、予想に反してコックは挑発に乗らず、アイロンとやらを台に置くと、蹴りではなく視線を寄越して来た。その目はひどく冷静で、おれはなんだか肩透かしを食らった気分になる。
「あのな、服にアイロンをかけるのは『身だしなみ』だ。カッコつけたいからじゃねェ」
コックはそう言うと、煙草を一本取り出して口に咥えた。マッチで火をつけると、煙と共にキッチンに煙草の匂いが漂う。そういえばこの匂いもコックがこの船に持ち込んだものの一つだった。それなのに、煙草の匂いが鼻先を掠めた瞬間に悪くないと思うばかりか、なんとなく落ち着くと思ってしまった自分に狼狽える。
そんな内心を知ってか知らずか、コックは淡々と続けた。
「おれは客商売が長かったから、そこんとこ身に染み付いてんだよ。もう習慣になっちまってる。それに、だ。アイロンをかけると洗濯して縮んだり型崩れしたのが元に戻って着やすくなるし、表面が滑らかになって袖が通りやすくなるんだ。そうやって手入れしておけば何かあった時に素早く着替えられるし、戦いの時に縮んだシャツのせいで思うように体が動かないなんてこともなくなる。要は、常に万全の態勢を整えておくために必要なことなんだ。おまえだって刀の手入れをするだろう?それと一緒だ」
コックの言うことはよく分かった。
いつ何時でも最善を尽くせるよう、日頃から準備を怠らない。それは常々心に置き、尚且つ実践していることだ。
しかし、まさかコックがそこまで考えてアイロンをかけていたとは。正直驚いたし、見直す気持ちもあったが、それを素直に認めるのも癪でおれは黙り込んだまま返事をしなかった。
「まあ、それだけじゃねェけどな」
フーッと煙草の煙を吹き上げてコックが続ける。
「おまえはさ、その三本の刀、大事なんだろう?」
「あ?ああ……」
話の流れがよく分からない方向に向かったが、意地を張るべきところでもなかったので正直に答えた。
腰に差す三本の刀は、自分という人間を成すものであり、幾つもの死線を共に越えてきた戦友であり、そのうち一本は親友の形見でもある。「大事」という言葉では足りないくらい、自分にとってはなくてはならないものだ。
「それなら、刀の手入れをする理由に『大事だから』っていうのも含まれてるんじゃねえの」
そうだ。大事だからこそ、心を込めて、丁寧に手入れをする。
当たり前すぎて今まで意識したこともなかったが、たしかにその通りだ。
「まあ、そうだな」
「だろう?」
そう言って、コックは笑った。初めて見る、穏やかで優しい笑みだった。
だいたいいつもチンピラみたいに睨みつけてくるか、笑ってもガキみたいな顔になるかだったから、こんな顔もできるのかと意外に思う。
その意外さに毒気を抜かれたのか、まるで潮が引くかのように苛立ちが消えていった。
発散ではなく、消散。
こんなのは初めてだ。
「なあゾロ、おまえ、おれがあれこれ言うの気に入らないんだろう?でもさ、おれは別に自分のやり方を押し付けたくて言ってるわけじゃねェ。…………信じてもらえないかもしれねェけど、おれもおまえと一緒だよ。おれを夢の場所へと運んでくれるこの船も、この船にあるものも全部、おれにとっては大事なものなんだ。……もちろん、仲間も。だから食を預かる以上メシや酒のことをつい口うるさく言っちまうのも、掃除だの洗濯だの言うのも、アイロンかけるのも——あ、これは自分の服じゃなくてナミさんのシーツとかテーブルクロスとかな——結局のところは大事だからっていうのが大きいんだよな」
いつもだったら、何言ってるんだこいつと鼻で笑っただろう。
だけど今は、不思議とコックの言葉がストンと胸に落ちた。
だから、
「そうか」
とだけ口にした。
コックはそれだけでおれの意図するところが分かったのか、
「そうだ、つまりはそういうことだ」
とまたさっきみたいに穏やかに笑った。
——つまりはそういうこと。
そうか、そんな単純なことだったのか。
単純すぎて見えていなかったせいで、おれはコックのことを少し誤解していたようだ。
そのことに気づいた今、コックという男のことも、規則正しい健全海賊生活も、アイロンとやらも、受け入れるかは別にしても案外悪くないかもしれない、そう思った。
つまりは、そういうこと
