オンリー・ユー

 青く澄んだ空から、やわらかな日差しが降り注ぐ。
 卒業式にはうってつけの、ぽかぽかと暖かく芽吹きの気配に満ちた春の日に、おれの心は梅雨の雨空のように暗く沈んでいた。
 なぜかって?
 そんなの、サンジが卒業してしまうからに決まってる。
 家が近所で、小さい頃からまるで兄弟みたいにいつも隣にいるのが当たり前だった。なのに、今日を境に高校生ではなくなってしまうサンジは、おれの手が届かない遠い所へ行ってしまう。
 
 部活の先輩達に卒業祝いの花束を渡したあと、おれはこの一年ですっかり行き慣れた屋上へと一人で向かった。誰もいない屋上のフェンス越しに、卒業生やそれを見送る在校生で賑わう校庭を眺める。
 みんな泣いたり笑ったり、記念写真を撮りあったりする中で、一際目立つ金色の頭。あっちに呼ばれ、こっちに呼ばれと引っ張りだこでちっともじっとしていないその金色を目で追いかけながら、面白くない気持ちが湧き上がってくるのを自覚した。
 できるものならあの中から連れ出してどこかへ攫ってしまいたい。おれだけがサンジを独り占めしたい。誰彼かまわず向けている笑顔をおれだけに向けてほしい。
 でも、ただの幼馴染でしかない自分にそんな独占欲丸出しの感情をぶつける権利はない。だから、忠犬よろしくここで大人しく待つしかないのだ。
 おれがサンジと同い年だったら、せめてあの輪の中に入ることができたのに。
 隣にいることができたのに。
 どう頑張っても埋められない二歳の年の差が、どうしようもなくもどかしかった。

 
「おいおいどうした。そんな辛気臭いツラして」
 校庭の人影もまばらになった頃、ようやくおれの待ち人は屋上へとやって来た。
 丸めた卒業証書を肩に担ぐようにして、のんきに笑いかけてくる。
 人の気も知らないで、と恨めしげな視線を向けると、なぜだかよれよれになったブレザーが目に入った。身だしなみに気を使い、いつも綺麗に制服を着こなしているのになんでだろう。そう思ったところで、ブレザーのボタンがきれいに全部なくなっていることに気づく。
(嘘だろ……ボタン、おれが欲しかったのに)
 表情がさらに険しくなるのが自分でもわかった。
 どうせ、女どもに欲しいとねだられるままにあげてしまったのだろう。まるで自分の大切な宝物を横取りされた気分だ。実際はおれのものではないし、なんなら事前に欲しいと伝えておかなかった自分が悪いのだけれど。こんなことならブレザーごと寄越せと言っておけばよかった。
 悶々とするおれを、目の前で立ち止まったサンジが笑顔を浮かべたまま軽く見下ろしてきた。
 五センチ。
 それが今のおれとサンジの差。年の差と違ってきっとあと一、二年もすれば埋められる。でもそんなに待てない。年齢だって身長だって、サンジとの間にある差は今この瞬間に埋めてしまいたかった。
「せっかくの卒業式なんだからさ、笑って送り出してくれよ」
「……できねェ」
「そんなこと言うなって」
「いやだ!」
 感情のままに喚いて首を横に振る。これじゃあまるで駄々っ子だと思うけれど、止められなかった。
「サンジがこの学校からいなくなるってのに、笑えるわけないだろ!」
「こら、ガキみてェなこと言ってんじゃねェよ」
 困ったように眉を下げるくせに、甘やかすような声でそう言う。
 妙に大人ぶった態度が気に入らなかった。埋めたいのに埋められない年の差をわざと突きつけられてるみたいだ。
 寂しさと、焦りと、腹立ちと。いろんな感情が混じり合ってグチャグチャの心のままに、おれは優しく頭に触れてきたその手を乱暴に払いのけた。
「おれだってもう十六だ、ガキじゃねえ! たった二歳しか違わないくせに大人ぶんな!」
「そっかそっか、悪かった」
 払いのけられた手をサンジは大人しく引っ込めたけれど、謝りながらもガキを宥めるようなその物言いがさらにおれの感情を逆撫でした。でも、ここでさらに喚くのはあまりにガキすぎる。そう思うだけの理性は残っていたので、むっつりと黙り込むことでなんとか耐えた。
「でもまさか、ゾロがこんなに寂しがってくれるとはな」
 背中からフェンスにもたれ掛かったサンジが、ボタンのないブレザーのポケットから煙草を取り出して火をつけた。顎を上げて、実に美味そうに青い空へと煙を吐き出す。その、顎から首にかけてのラインにおれは見惚れた。
「まあ、ガキの頃からずっと一緒だったし、おまえが高校入ってからはここで一緒によくサボったしなぁ」
 
 高校生になって、サンジが煙草を吸うようになったのは知っていた。だから、高校に入ってすぐ、隠れて煙草を吸うなら絶対ここだとアタリをつけて訪れた屋上で、予想通りサンジは一人で煙草を吸っていた。
 それからは頻繁に屋上に足を運び、そこにサンジがいれば一緒になって授業をサボった。
 他愛のない話に耽りながら、煙草を咥える薄い唇に。火をつけようと伏せた目元に。仰け反った顎から首のラインに。おれの目は釘付けになった。サンジの顔なんて小さい頃から見慣れている。それなのにどうしてこんなに目を引かれるのか、最初のうちはわからなかった。
 そのうち少しずつ、サンジを綺麗だとか色っぽいだとか思う自分に気づくようになり、さらには無防備に晒されたのどや唇に触れてみたい、喰らいつきたいという衝動が湧き上がって初めて、おれはサンジに惚れているのだとようやく自覚した。
 というか、性欲込みで好きなのだと気づいたのが今なだけで、たぶん昔からずっと好きだった。目を引かれるのも、感情を動かされるのも、一緒にいたいと願うのも、いつだってサンジだけだった。
 昔も今も、そしてきっとこれからも、おれのただ一人の「特別」。そんなサンジにとってのただ一人の「特別」になりたい。そう強く願った。
 サンジが男だということはちっとも気にならなかった。けど、たぶんサンジはそうじゃない。というか、度を越した女好きであるサンジにとってそもそも男は恋愛対象じゃないだろう。そんな相手にいきなり直球勝負を仕掛けるわけにはいかないし、かといって諦めるつもりも毛頭ない。
 さあどうしたものかとおれにしては珍しく頭を使って悩みに悩み、最終的にどれだけ時間をかけてでも落としてやると長期戦を覚悟したところで、卒業したら外国に行くとサンジから聞かされたのだった。
 
「ずっと一緒にいられると思ってたのに……なんで急にいなくなっちまうんだよ」
 八つ当たりだとわかっていてもどうしようもなく、拗ねたような責めるような声が出た。こんなところもガキすぎて、自分のことが嫌になる。
「なんで、か」
 そう呟いて、サンジは軽く俯くと煙草を吸った。
「おれも、おまえも、いつまでもガキじゃいられねェ。だんだん大人になるんだ。そうしておれはおれの道を、おまえはおまえの道を行く。だから、いつまでもずっと一緒にはいられねェよ」
 それに、とこっちを向いたサンジが悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「外国行くって言ったら、おまえ絶対めちゃくちゃ拗ねると思ったからさ。本当はもっと前に決まってたけど、ギリギリまで言わなかったんだ」
「ンだよそれ……!」
 プツンとおれの中で何かが切れた。
 頭で考えるより先に、体が動いていた。
 寄りかかっていたフェンスから体を起こすと身を翻し、サンジの肩を掴んでフェンスに押し付ける。
 視界の端でサンジの手から煙草が落ちるのが見えたが、そんなの知ったことじゃなかった。
 五センチ上の、驚いて見開かれた今日の空みたいに青い目を睨みつけながら、わずかに開いた薄い唇に喰らいつく。ずっと喰らいつきたいと願っていたそこは、あたたかくて、やわらかくて、直前まで煙草を吸っていたにもかかわらずとろけるように甘かった。


 ——もっと。もっと欲しい。


 衝動のままに薄い唇の隙間に舌をねじ込む。次の瞬間、肩のあたりに衝撃を感じて二、三歩後ろによろめいた。離れてしまった唇の間を繋いだ細く透明な糸が、プツリと切れて落ちる。
「と、突然どうしたんだよ、ゾロ……もしかしてあれか、すぐに教えてやらなかったから仕返しのつもりか? な、そうなんだろ?」
 目を泳がせ、うすら笑いを浮かべながら、あろうことかサンジはそう言った。これは冗談なんだろ、と。
 おれが冗談なんかでこんなことをする人間じゃないことは、サンジが一番よくわかっているはずなのに。それをあえて口にすることの意味がわからないほどバカじゃなかったが、それでももう止まることはできなかった。
「違う、そんなんじゃねェ」
「じゃあなんでこんなこと」
「サンジのことが好きだからに決まってんだろ!!」
 屋上に、おれの渾身の叫びが響き渡った。そして訪れる静寂。
「好きって、おまえ……おれは男だぞ?」
 たっぷり一分は固まったあと、ようやくサンジが口を開いた。
「そんなのわかってる」
「な……てことはあれだ、おまえたぶん勘違いしてんだよ。ほらおまえ、ガキの頃から同年代のやつらとはほとんどつるまないでずーっとおれと一緒にいただろ。あんまりおれと一緒にいたもんだからさ、いざ離れるってなったら寂しくなって、それを好きだって勘違いしちまったんじゃねえの?」
 今度はおれが呆然とする番だった。そんなおれには構わず、サンジはベラベラと話し続けている。
「おれ以外のヤツと過ごす時間が増えればそのうち好きな女の子の一人や二人もできて、おれを好きなんてのはやっぱ勘違いだったって気づくって。ちょうどいい機会じゃねェか、もういい加減おれから卒業してさ、おまえはもっと自分の世界を広げろよ」
 寂しいから好きだと勘違いした? サンジから卒業して世界を広げろ? 人が黙って聞いてれば見当はずれのことばかり好き勝手に言いやがって。
 ふつふつと腹の底から怒りが込み上げてくる。そして——爆発した。
「ふざけんな!!」
 一気に距離を詰めると、両手で胸ぐらを掴み五センチ下から睨み上げた。
「勘違いだと? ふざけんな、おれは本気でサンジのことが好きなんだよ! それにな、この先どんなにおれの世界が広がろうとも、おれがサンジ以外の奴を好きになることなんて絶対にない!」
 なぜか視線の先でサンジの顔が一瞬苦しげに歪んだ。でもそれはほんの一瞬で、すぐに妙に大人びた、全てをわかりきったような顔に変わる。
「あのな、ゾロ。『絶対』なんてのはないんだ」
「そんなのわかんないだろ」
「いや、人の気持ちは変わる。永遠に変わらないものなんてない」
「だとしても! おれの気持ちは絶対に変わらねェ!」
「あのなぁ……」
 呆れたような途方に暮れたような顔でサンジがため息をつく。
 どうせ聞き分けのないガキだとでも思っているんだろう。でもそれで構わなかった。ガキだと思われようがなんだろうが、後にも先にもおれの特別はサンジだけだ。本能でわかる。気持ちが変わるなんてありえない。
「証明してやる」
「え?」
「何年経とうが、おれの世界がどれだけ広がろうが、おれの気持ちは変わらないって証明してやる」
「何年って、おまえそれ」
「もちろん死ぬまでだ。おれの人生をかけて証明してやる」
「おいおい……」
 頭を抱えてしまったサンジが、そのままずるずると座り込む。
「ばかだろおまえ。おれなんかに人生かけてどうすんだよ」
「ばかじゃねェ。それに、おれ『なんか』ってやめろ」
「……もしおれに恋人ができたらどうすんだ」
「関係ない。そんなことでおれの気持ちは変わらねェ」
 お手上げだ、と盛大なため息をついたサンジが天を仰ぐ。おれが惹かれてやまない顎から首のラインを惜しげもなく晒しながら、空に向かってポツリと呟いた。
「じゃあさ、とりあえずハタチまでにしようぜ」
「……は?」
「そんなに言うなら、まずはハタチになるまで……あと四年か? おまえの気持ちが変わらないか証明してみせろよ」
「なんでハタチなんだ」
「別に。特に理由はねェよ。ただキリがいいかなってくらいで」
「それで? ハタチになってもおれの気持ちが変わらなければどうすんだ?」
「そうだな……そんときゃおまえが本気でおれのことを好きなんだって認めてやるよ」
「ホントだな?」
「ああ」
「約束だぞ」
「わかったって。——約束だ」
 
 それから数日後。おれには出発の日を知らせずに、サンジは一人外国へと旅立って行った。
 そして、サンジのいないおれの新たな日々が始まったのだった。
 


 
 *


 
 
「ここが、サンジのいる国……」


 サンジと離れて迎える四回目の夏。約束の二十歳を目前にした十九歳の夏休みに、おれは一人、異国の地へと降り立った。
 バックパックを背負って到着ロビーへと出る。さすが外国、キンキラの頭をした人間はたくさんいたが、あたりを見回してもその中に目当ての人物は見当たらなかった。
 そもそも、サンジが空港まで迎えにきてくれるのかどうかも知らない。ちなみに、サンジの住んでいる場所も、なんなら連絡先すら知らない。そんな状況でなぜここにいるかというと、夏休みの少し前に、『いらなきゃ捨ててくれ』とだけ書かれた便箋と往復の航空券だけが入ったエアメールが突然サンジから届いたからだった。
 もしかして空港まで迎えに来てくれるんじゃないかと淡い期待を抱いていたが、どうやらアテが外れたらしい。少し考えて、来るかどうかもわからない迎えをただ待つよりは自分から会いに行こうと決めた。
 一秒でも早くサンジに会いたかったのもある。それに、行き先には一つだけ心当たりがあった。
 前にサンジが『ジジイの店なんだ』と教えてくれた店の名前。なんとなく覚えていたそれを検索すると思っていた以上に有名店のようで、店のホームページには長い髭を三つ編みにしたオーナーシェフの顔写真がバッチリ載っていた。サンジに似ているかと言われたらよくわからないというのが正直なところだが、ジジイということはたぶん祖父なんだろう。店は空港からほど近い大きな街にあり、鉄道を使えばそんなに時間がかからずに行けそうだ。サンジもそこで働いているのではないかと睨んでいるが、もし違ったとしてもジジイとやらに聞けば何かしら情報は手に入るだろう。
 帰りの航空券に記載された日付は一週間後。それだけ時間があればきっとサンジを見つけられる。いや、絶対に見つけてみせる。
 そう決意して、おれはもう一度あたりを見回した。自慢じゃないが日本語以外はサッパリなので、案内表示を見ても何が書いてあるのかちっともわからない。でも、その横に添えられたイラストを見ればだいたいのことはわかる。
「駅はたぶんあっちだな」
 まず向かうべきは駅だ。電車のイラストと思しき表示を見つけると、力強く一歩を踏み出した。

「ったく、どーこ行ってんだ。そっちは到着口に逆戻りだぞ」
 
「——!!」
 ふいに背中から聞こえた苦笑混じりの声。
 息を呑んで足を止め、ものすごい勢いで後ろを振り向く。そこには、この四年間会いたいと願い続けた男が立っていた。
「なんで……」
「こんな一瞬で迷子になるような奴を放っておくほどおれも薄情じゃねえよ」
 そう言って笑う顔を、呆けたまままじまじと見た。
 伸ばされた髭。おれも背が伸びたはずなのに、まだ微妙に高い位置にある目線。晴れた日の空みたいな青い目は変わらないけれど、なぜか違和感が拭えない。その正体を確かめようと穴が開くほどサンジを見つめ、そしてはたと気がついた。
「……まゆげ」
 前髪を流す向きが変わり、これまでずっと隠されていた左目が露わになっていた。その上に鎮座する眉毛は、眉尻でなく眉頭がぐるぐると巻いている。どうりでなにか違和感があると思った。
「あ? あー、もしかして髪の分け目が変わったって言いたいのか?」
 だいたい合っているのでこくりと頷くと、おれはもう一つ気になっていたことを口にした。
「身長。何センチになった」
「身長? 測ってないからわかんねェけど、たぶん百八十くらいじゃねェかな」
「クッソ、追いついたと思ったのに……!」
 身長の差なんて、とっくに埋められたと思っていた。なのに、まさかまだ二センチも足りないだなんて。
 悔しくて思わず頭を抱えて唸ると、キョトンと目を見開いたサンジが次の瞬間盛大に吹き出した。
「ハハハッ! 久しぶりに会ったと思ったらなんでか片言だし、身長負けて悔しがるとかガキみてえだし、ちったァ大人になったかと思ったけどあんま変わんねェな」
 安心したぜ、なんて涙を滲ませながら笑うサンジをおれは思いきり睨みつけた。
「う、うるせェな! そういうテメェはどうなんだよ!!」
「おれ? そりゃもうすっかり大人よ」
 スイ、と流し目を送られてドキリとした。
 なんだこの色気。前から色っぽいとは思っていたが、ここまでじゃなかった気がする。もしかして恋人でもできたのか? でもそれならわざわざ航空券なんて送ってこないだろうし。この四年でいったい何があったんだ。
「さ、ここで突っ立っててもしょうがねェ。とりあえずおれんち行くぞ」
 悶々としていると、サンジの声が耳に入ってきた。その中のある言葉に引っ掛かる。
「え? 『おれんち』……?」
「そ。おまえ、どうせ宿とかとってないんだろ」
「当たり前だ」
「ったく、堂々と言うことじゃないだろ。——ほら、こっち」
 くるりと向きを変えてサンジが歩き出す。その背中を、置いて行かれないように慌てて追いかけた。


「着いたぞ」
 サンジが同僚に借りたという車の助手席に乗り込み、窓の外の見慣れない景色を眺めていたらいつの間にか寝ていたらしい。ここがおれの家だと起こされて、眠たい目をこすりながら車から降りた。
「え、ここって……」
 目に飛び込んできた光景に一気に覚醒する。
 魚をモチーフにしたらしい独特のセンスをした入り口に、看板には『バラティエ』の文字。そしてその前に腕を組んで仁王立ちで立つ、笑ってしまうくらいに長いコック帽を被り、長い髭を三つ編みにしたいかつい老人。どれもスマホの画面で見たものばかりだ。
「遅ェぞチビナス! もう仕込みは始まってんだ!」
「おいクソジジイ、幼馴染を空港まで迎えに行くっておれ言ったよな?」
「それがどうした。戻ってきたならさっさと仕事に戻りやがれ!」
「クッソ、わーったよ! ただその前にこいつを部屋に案内するのが先だ」
「フン」
 不機嫌そうに鼻を鳴らした老人こそが、いざという時に頼ろうと思っていた『ジジイ』その人だった。ということは、おそらくここがサンジ曰く『ジジイの店』であるレストランバラティエ。ここで働いているんじゃないかというおれの勘はどうやら当たったらしい。
 でもまさか、ここに住んでいるとは。
「グズグズしてねェで早く行きやがれ!」
「あーもう、うっせえな! ——ほら行くぞ、ゾロ」
 サンジが投げて寄越した荷物をキャッチすると、こちらに鋭い目を向ける老人に「お世話になります」と頭を下げてからその場を後にした。

 サンジに連れられるまま、レストランの裏手にある階段を上っていく。三階建ての建物は一階部分がレストラン、二階より上はアパートになっていて、どうやらここで働く従業員のほとんどがこのアパート部分に住んでいるらしかった。
「ここがおれの部屋だ」
 案内されたのは二階の角部屋だった。風呂とトイレのついたワンルームで、部屋にはソファとベッドと小さなテーブル、それからチェスト。青と白を基調としたシンプルで小綺麗な部屋だ。
「悪ィけど、おれはすぐに仕事に行かなきゃなんねェからここで適当にのんびりしといてくれ。今は客が入らない時間だから、レストランの中を見たきゃ降りてきてもいい。けどいいか、迷子になるから絶対に一人で外には出るな!」
「迷子になんかならねェよ」
「自覚がないのが厄介なんだよなぁ……とにかく! 外には出るな。わかったな!」
 しつこく念を押すと、慌ただしくサンジは仕事に戻って行った。
 静かになった部屋を、もう一度ぐるりと見まわす。サンジの匂いがする、あちこちにサンジの痕跡が残った部屋。
「……今日からおれもここで寝るんだよな」
 ガキの頃は互いの家に泊まりに行ったりもしていたが、今はその時とは事情が違う。一週間とはいえ、一つ屋根の下で惚れた男の風呂上がりやら寝起きやらの姿を目にして果たして耐えることができるのだろうか。
 少しだけ乱れの残るベッドを見ていたら不埒な妄想がムクムクと湧いてきて、慌てて視線を引き剥がした。危ない危ない。心頭滅却、煩悩退散。前に勢いでキスをしてしまったことはあるが、サンジがおれを好きになってくれない限りは手を出さないと決めている。この一週間、理性を総動員してなんとしてでも耐えるしかない。
「ここにいるとよくねェ……おれも行くか」
 荷物を部屋の隅に置くと、貴重品だけ身につけて部屋を出た。鍵はもらってないし、閉めろとも言われなかったから開けたままでいいだろう。
 行き先はもちろん、階下のレストランだ。サンジは外に出るなと言っていたが、言われなくても出るつもりなんてなかった。だっておれはサンジに会いにきたのだ。有名な観光名所や日本とは違う街並みなんかではなく、サンジの働く姿を見ていたかった。


 その日からおれは、どこにも出かけることなくひたすらにレストランに入り浸って過ごした。
 レストランで過ごす間、初日だけは邪魔にならないところに大人しく座ってサンジの仕事っぷりを眺めていたが、さすが人気店、目の回るような忙しさに自分だけのんびり座っているのも、と翌日からは店の手伝いをさせてもらうことにした。皿洗い、荷物運び、掃除などなど。料理や接客はさすがにするわけにはいかないので、おもに雑用が中心だ。
 バイトの真似事のようなことをしながら、横目でコックとしてのサンジの仕事ぶりをずっと眺めていた。
 最近は料理も任せてもらえるようになったんだと嬉しそうに話していた通り、サンジにはアントルメティエという役職がついていた。前菜やスープを担当するシェフのことらしい。

 まるで戦場のような怒号飛び交う厨房で、負けじと声を張り上げて指示を出しながら真剣な目をして料理と向き合う。時にはジジイこと料理長であるゼフと料理について激しく言い合うこともあった。料理のプロばかりが集まる中において、サンジもまたプロとしての自信と矜持を持って周りと対等に渡り合う姿は文句なしにカッコよかった。

 それから、どうも慢性的に人手不足らしいこの店ではサンジがウェイターとして表に出ることもあった。流暢な外国語でスマートに会話を交わしながら優雅な手つきで酒を注ぎ、料理をサーブする。常に周りをよく見ていて気も利くので、サンジが表に出ていると客は誰もが皆とても満足そうな顔をしていた。
 そんな完璧な仕事ぶりに加え、女性客相手にはにこやかな笑顔を絶やさず、エスコートやさりげない褒め言葉も忘れない。さらには料理を褒められるとそれはもう無邪気な顔で嬉しそうに笑うものだから、元々の見た目も相まって女性人気は相当なものだった。本気で惚れていそうな女も一人や二人じゃない。しかも、男相手にはお世辞にも愛想がいいとはいえない接客なのに、男の中にもサンジに熱のこもった視線を送る奴が結構な数いた。モテるだろうとは思っていたが、これは想像以上だ。

 そりゃわからなくもない。おれだってこの数日、サンジの働きぶりを見ては何度も惚れ直している。でも、だからこそ面白くなかった。
 できるものなら、サンジに不埒な目を向ける奴等に見せつけるように肩なり腰なりを抱いて「これはおれのだ」と言ってやりたい。でも現実にはサンジはおれのものじゃないから、そんなことはできない。
 ならばせめてとそいつらをギロリと睨みつけていると、時々サンジにバレて「バカ、レディを怖がらせるんじゃねェよ」と怒られた。ちなみに、野郎相手の場合はスルーなので遠慮なく睨ませてもらった。

 おれの忍耐の賜物もあって過ちが起きることはなく、表面上はあくまでもただの幼馴染として、お互い四年前の約束には触れないまま気づけばあっという間に一週間が経っていた。今日の夜、おれは日本へと帰国する。
 さすがに最終日はサンジも休みをとってくれていたようで、朝メシのあとに誰もいない食堂で二人のんびりとコーヒーを飲みながら、いつもに比べてゆったりとした朝を過ごしていた。
「飛行機、夜の便だったよな。まだ時間あるし、せっかくだから少しくらい観光しようぜ」
「わかった」
 何気ない風を装いながら、これが最後のチャンスだと密かに腹を括る。
 サンジのことが今も変わらず好きだというその一言がどうしても言い出せず、ずるずると今日まできてしまった。残された時間はあとわずか。タイムリミットがくるまでにこの旅の本来の目的を達成しなければならない。

 いったいいつ切り出そうかとタイミングをうかがいながら、サンジの案内のもと二人でブラブラと街を歩き回った。サンジおすすめだというパン屋に寄って買い食いをしたり、マルシェで立ち並ぶ店を冷やかしてみたり。行く先々でサンジは街の人から親しげに声をかけられていて、それに対して流暢な外国語で応じていた。この土地にもうすっかり馴染んでいるらしい。おれの知らないサンジの日常。新たな一面を知ることができるのは嬉しいけれど、ほんのちょっと寂しかったりする。

 そのまま観光というよりは散歩に近い街歩きを続けた。常に誰かしらに声をかけられるものだから、話を切り出すチャンスのないままおれ達はとある公園へとやってきていた。公園といっても小さい頃に遊んだいくつかの遊具と少しの広場があるような公園ではなく、だだっ広い、庭園とでも呼ぶほうがしっくりくるような場所だ。
「ここさ、自然がいっぱいで落ち着くだろ? 仕事で疲れた時とかによく来るんだ」
「へえ」
「そういえば今の時期は移動遊園地が来てるはずだ。せっかくだし行ってみようぜ」
「移動遊園地?」
「そう。実はおれもまだ行ったことがなくてさ。一度行ってみたかったんだ」
 腕を掴まれ、歓声が聞こえる方へとグイグイ引っ張られる。ガキじゃないのになんでわざわざ遊園地なんか、そもそもまだ話もできていないのに遊んでいる場合じゃないと思ったが、妙に楽しそうなサンジを見たら水を差す気も失せて腕を引かれるに任せた。

 移動遊園地という名前からはちょっとしたアトラクションがいくつかあるだけだろうと思っていたが、アトラクションの数がびっくりするくらい多く、しかも案外本格的なものもあって驚いた。まさかの観覧車まである。乗り物だけじゃなく、子供が好きそうなお菓子の屋台や大人向けのバーのような店もあり、大人から子供までたくさんの人で賑わっていた。
「うわ、すごいな」
「だろ!? なあなあ、まずはあれから乗ろうぜ」
 ジェットコースターを皮切りに、空中回転ブランコ、お化け屋敷、ウォータースライダー、花火みたいに空高く打ち上げられる絶叫マシン。絶対に嫌だって言ったのに、引きずられるようにしてメリーゴーランドにも乗せられた。虚無顔でファンシーな木馬に跨っているおれを、サンジの野郎ゲラゲラと笑いやがった。笑い返してやろうと思ったのに、木馬に跨るサンジは童話の中から抜け出した王子様のようで全然違和感がないのがムカつく。
「うるせェ、アホ王国のプリンスめ」
「ばーか、素直に似合うって言えよ」
 最初は渋々だったはずが、二人でギャーギャー言いながら子ども達に混ざって色々なアトラクションに乗っているうちに、気づけば全力で楽しんでいる自分がいた。
 まるで子どもの頃に戻ったみたいだ。年の差なんて気にならなくて、ただ純粋に二人でいることを楽しんでいたあの頃に。
 叶うものならばこの時間がずっとずっと続けばいいなんて、柄にもなくそんなことを思う。
 でも、楽しい時間にはいつか終わりがやってくる。


「最後にあれ乗ろうぜ」


 最後。そう言ってサンジが指差したのは観覧車だった。
 チケットを買い、係員の誘導に従って二人でゴンドラに乗り込んだ。向かい合って座ると同時に扉が閉まり、ふっと喧騒が遠ざかる。
 二人きりになれて、静かで、話をするにはもってこいのシチュエーション。もしかするとサンジから話を切り出すつもりなのかもしれない。そう思ったら、なんだか急に緊張してきた。
 ギイ、ギイと軋みながら、ゆっくりとしたスピードでゴンドラが上昇していく。
「観覧車とか懐かしいな」
 そう言ったきり、サンジは窓の外に目を向けたまま黙り込んでしまった。なんとなく気まずい沈黙の中、ゴンドラはどんどん高さを上げ、それに比例するようにおれの緊張も高まっていく。
 ちょうど頂上近くまで来た頃だった。なんの前触れもなく、突然観覧車の回転スピードが上がった。
 グルグルと日本ではあり得ないスピードで高速回転する観覧車。頂上にいたはずがあっという間に地面に一番近いところまで降りてきて、なのにゴンドラの扉が開くことはなく、問答無用で二周目に突入する。


「……ふ、あははっ」


 二周目の回転に入って少しした頃、おれはついに耐えきれずに吹き出した。
「なんだこれ、速すぎだろ」
 すると、つられたように口元を綻ばせたサンジがようやくこっちを向いた。
「だよな。しかもこれ、三周くらいしないと降りられないんだぜ」
「てことはまだあと二周もすんのか!」
「そーゆーこと」
 気づけば、張り詰めていたゴンドラ内の空気はすっかり緩んでいた。
 緊張で強張っていた身体からもふっと力が抜けて、この一週間ずっと言い出せずにいたのが嘘のように自然と言葉が口をついて出た。
「……おれさ。この四年間、高校でも大学でもいろんな人と出会って、つるんで遊ぶようなダチもできた。剣道も続けて、バイトもいくつかして。誘われたから合コンにも行ってみた」
「そっか。彼女はできたか?」
「いや」
「なんで。おまえ昔からモテるじゃん」
「モテるのはそっちの方だろ」
 名も知らぬライバル達のことが頭をよぎり、つい余計なことを言ってしまった。
「は? なんでおれ?」
 なんのことだか、とでもいうようにサンジがきょとんと目を見開く。あれだけ熱烈な視線を向けられておきながら、どうやらそれに気づいていなかったらしい。鈍いというかなんというか。まあ、おれにとっちゃ都合がいいから別にそれで構わないのだけれど。
「気づいてないならいい。——とにかく、昔に比べるとこの四年でおれの世界はかなり広がったと思う。でも……それでもおれ、一度もサンジ以外のヤツを好きになんてならなかった。昔も今も、おれが好きなのはサンジだけだ」
「……」
「だからさ、勘違いじゃねェって、おれが本気だって認めてくれよ」
 苦しげに眉を寄せて目を逸らしたサンジに、ダメ押しのようにそう問いかけた。
 窓の外の景色が刻一刻と移り変わっていく。けれどサンジは口を開かない。

 いつの間にかゴンドラはまた一番下へと戻ってきていた。次が最後の一周だというのに、サンジは黙ったままだ。さすがに痺れを切らしそうになった時、短く息をついたサンジがこちらに視線を向けた。
「四年経ってもまだおれのこと好きとかさぁ……ばかだよな、おまえ」
「は?」
「ほんっと、ばか…………おれのことなんかさっさと忘れちまえばよかったのに」
 ふざけんな、と続けようとした口がそのままの形で固まる。人のことをバカ呼ばわりしながら、なぜだかサンジは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「なんでサンジがそんな顔してんだよ」
「おまえが普通に幸せになれるようにって人が諦めようとしてんのに、おまえがそんなばかなこと言うからだろ」
「おいちょっと待て」
 さっきから人のことを何度もバカ呼ばわりしやがって。いやそんなことよりも——。
「諦めるってなんだ」
 自分の失言に気づいたらしいサンジが息を呑む。
「いや、今のは言葉のあやというか」
「誤魔化すな」

 これを逃してはいけない気がした。多分すごく大事なことだ。それこそ、おれとサンジの関係が変わるような。

 サンジはうろうろと忙しなく目を泳がせていたが、やがて言い逃れはできないと思ったのか、観念したかのように天を仰いでからまっすぐにおれを見た。
「……おまえのことをだよ」
「それってどういう、」
「好きなんだ、おまえのこと。四年前……いや、それより前から、ずっと」
 鈍器で頭を殴られたかのような衝撃だった。サンジがおれを好き? しかもずっと前から? 情報を脳が処理しきれない。

「何だよそれ、じゃあなんで——」
「好きだからこそ、おまえの気持ちに応えるわけにはいかなかったんだ。そんなことをしたらおまえから普通の幸せを奪っちまう。なのにおまえが人生かけるとか言うから……あの時おれがどんな気持ちだったかわかるか?」
 そんなの知らねェよ、と思う。思うだけで、言葉にはならなかった。
「おれは留学することが決まってたし、離れてみておれを好きだなんて勘違いだっておまえが気づけばいいと思った。仮に勘違いじゃないとしても、時間と距離さえおけばきっと気持ちも冷める。とりあえずおまえのことを納得させなきゃなんねェから適当に四年なんて期限決めて、そのままもう二度と会わないつもりだった」
 顔を歪めてサンジが小さく笑う。
「なのに、未練がましく手紙なんて送っちまって、言うつもりのなかったことまで結局こうして言っちまって…………みっともねえな、おれ」
「バカ野郎ッ!!」
 たまらず、目の前の体を思いきり抱きしめていた。急に立ち上がったせいでゴンドラがぐらりと大きく揺れる。
「ばか、急に動いたらあぶな——」
「おれのことバカバカって言うけど、サンジのがもっとバカだ! おれのこと諦めきれねェくせに無理すんじゃねェよ!」

 初めて聞いたサンジの本音。それはあまりにも独りよがりで、なんだサンジにもガキっぽいところがあるんじゃねェかと思った。あんなに果てしなく感じていた二歳の年の差も、案外大したことはないのかもしれない。
「だいたい、おれの幸せをサンジが勝手に決めるな! なんだよ普通の幸せって。サンジといるのがおれの幸せなんだって、いい加減わかれよバカ!!」
 感情のままに声を張り上げ、ふるふると首を横に振るサンジをさらにきつく抱きしめた。

「なあ、もう腹括れよ。そんで、おれのこと幸せにしてくれよ」
「…………」
「後悔させねェから。おれは絶対幸せになるし、サンジのことも絶対幸せにするから。だから……頼む」

 最後は情けなく声が掠れた。縋るように柔らかな金糸に頬を擦り付けると、強張っていたサンジの体から力が抜けていく。
「おまえは、後悔しねェ?」
 深く長い息をつき、ポツリとサンジが呟く。
「するわけないだろ」
「そっか」
 胸を軽く押される感触がして、サンジが腕の中から抜け出した。そして、どこか吹っ切れたようなスッキリとした顔でおれを見る。青く澄んだ瞳に、もう迷いはなかった。
「しょうがねェから、おれがおまえを幸せにしてやるよ」
「——ッ!!」
 ゴンドラが揺れるのも構わずに、もう一度勢いよくサンジを抱きしめる。
「苦しいって……ほら離せ」
「……なあ、キスしたい。——してもいいか?」
「ばーか。そういうのはいちいち聞かずにやるもんなんだよ」
 くすくすと笑う口をキスでそっと塞ぐ。


 スピードを落としたゴンドラが、もうすぐ三周目を終えようとしていた。

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