ぶあつい鈍色の雲が低く垂れ込めた曇天。湿り気を帯びた風が、みずみずしい植物とアスファルトが混ざり合ったような匂いを運んでくる。
(雨の匂いだ)
人気のない路地に倒れ伏したロロノア・ゾロは、朦朧とする意識の片隅でそう思った。
もうじき雨が降る。そんな予想に違わず、たっぷりと水気を含んだ黒雲からポツリと雨粒がこぼれ出た。そのうちの一粒がゾロの右頬に当たって跳ねる。
それを合図に、堰を切ったかのようにザーザーと勢いよく雨が降り出した。雨の匂いが濃くなる。生の気配にあふれた匂い。そしてそれに混じる、冷たく無機質な匂い。
ゾロの体から流れ出る血が降りしきる雨に溶け、紅い水溜まりを作っていた。
(こん、な、ところで……くたばって、たま、る、か)
ゾロの右手が前に伸び、そしてパタリと落ちる。
平素であれば、これくらいの傷で死にかけることはなかったかもしれない。しかし、今のゾロはひどく空腹だった。金もなく、世話をしてくれる人の縁にも恵まれず、それならば自然の恵みを分け与えてもらおうと思ってもとんと獲物に出会えず、しばらくの間ろくに食べることができず弱った体には、全身に刻まれた傷に耐えるだけの力が残っていなかった。
雨に濡れた体から体温が奪われていく。閉じかける目を、こんなところで名を揚げぬままに死んでたまるかという気力だけで無理やりにこじ開けた。視界が霞むのは、けぶる雨のせいか、それとも——。
その時、カツンという硬い音とともにゾロの目の前に黒いものが現れた。雨の匂いに煙草の匂いが薄く混じる。眼球だけをなんとか動かして視線を上に向けると、灰色に沈む景色の中、鈍く光を放つ金があった。
「おい、生きてんのか」
その金のあたりから声が降ってくる。若い男の声だった。
「う……」
口から出たのは不明瞭な呻きだけ。それでも生きているというのは伝わったようで、金色の位置が下へと下がる。ふわりと、先ほどよりも強く煙草が香った。
「生きてはいるみたいだな……つっても、どうしたもんか」
しゃがみ込み、ゾロを覗き込む男もまたずぶ濡れだった。濡れてくすんだ金の髪から滴る水が、雨粒に混じってゾロのまぶたや鼻、頬を打つ。
「早く宿に戻らねェと、これダメにしちまうしなぁ」
そう言って男は腕に抱えた紙袋に目をやった。雨避けか、自身の上着をかけてはいるものの、すでにぐっしょりと濡れた上着から滲み出した水で紙袋も濡れつつある。
「まあ助ける義理もねェし——悪ィな」
申し訳なさをわずかに滲ませつつも男が立ち上がる。
踵を返し、歩き出したその後ろから、呼び止めるかのように地響きに似た音が響き渡った。さらに一歩を踏み出しかけていた男の足がぴたりと止まる。
「え? 今の……」
振り返った男の耳に、グゴゴ、ともう一度同じ音が飛び込んできた。
「もしかして、腹減ってんのか?」
「ぅ、あ」
絞り出すような母音の連なりに重なって、今度はグウと短い音が響く。
その音を聞くと、男は「クソッ」と小さく呟き右手でぐしゃぐしゃと髪をかき乱した。
「あーもう仕方ねェ——ちょっと待っとけ、すぐ戻ってくるから。それまでくたばんじゃねェぞ!」
言い置いてバタバタと走り去った男は、その言葉通り少しするとゾロの元へと戻ってきた。
「とりあえず応急処置だけするぞ」
男はうつ伏せに倒れていたゾロを仰向けにひっくり返すと、肩にかけた小ぶりの鞄の中からハサミを取り出し、血と雨で濡れて張り付いたシャツを切り裂いた。胸を赤く染める血を、大粒の雨が洗い流していく。おかげで傷の様子がよくわかった。
「案外軽い傷が多いみたいだが……ここは結構深いな」
無数にある切り傷を簡単に消毒し、特に深い左肩の傷にはガーゼを当て包帯を強く巻く。痛むのか、ゾロは小さく呻きながらも自分に手当てを施す男の顔の方を向き、力のない右手で男の手を掴んだ。
「すま、ね……」
「喋る元気があるなら上等だ。悪いようにはしねェから、今は休め」
男の言葉に従ったのか、ただ単に気を失ったのか。程なくしてゾロのまぶたが閉じ、その体からふっと力が抜ける。
「さて。コイツを宿まで運ばねェと」
手早く応急処置を終えると、男はゾロを抱え起こした。線の細い男であったが、その見た目に反して案外力があるのか、すっかり脱力したゾロを難なく背負って立ち上がる。しっかりとした足取りで歩き出したその背が、土砂降りの雨に霞んですぐに見えなくなった。
*
こじんまりとした部屋の中に湯気が立ち、食欲を刺激する匂いが満ちる。
その匂いに誘われるように、ゾロはゆっくりと目を開いた。緩慢な動作で何度か瞬きを繰り返し、まだ半ば夢の中にいるかのようなぼんやりとした表情のまま顔だけを右に向けた。視線の先には小さなキッチン。そこに立つ人影を認めた途端にゾロの目が軽く見開かれ、瞳に鋭い光が宿った。
「誰だ」
獣のような素早い身のこなしで起き上がり、何かを探すように周囲に視線を走らせる。ドアと窓の位置を確認し、ヘッドボードのすぐ脇、壁に立て掛けられた三本の刀を見つけると、ゾロは手を伸ばしてそれらを引き寄せた。
「目が覚めたか——って物騒な野郎だなオイ」
振り向いた男のある一点にゾロの視線が集中する。ぐるりと巻いた特徴的な眉。一度見たら二度と忘れないであろうその眉に、生憎見覚えはなかった。ただ、その声と、一際目立つ金色の髪にだけは覚えがあるような気がした。
「別に取って食いやしねェよ」
だからそれ仕舞え、と言う男を無視していつでも抜刀できるようゾロが握りしめた刀を構える。
「ったく、人間っつーより手負いのケモノだな」
呆れたように言った男が、コンロの火を消してからゾロに向かって一歩を踏み出した。
「それ以上近づくな」
チャキリと鯉口を切り鋭い殺気を放つゾロは、男の言う通りたしかに手負いの虎のような底の知れぬ恐ろしさがあった。今のゾロを目の前にすれば、たいていの者は怯えて即座に逃げ出すだろう。逃げ出さないのはおそらくほんの一握り——どうやら男は、その中に入るらしい。大人しく立ち止まりはしたものの、その顔に怯えは一切ない。
「別に刀抜こうが構わねェけど、せめてメシ食ってからにしろ」
張り詰めた空気はそのままに、ゾロが怪訝そうに目を細める。
「腹減ってんだろ、おまえ」
「必要ない」
その時、抗議するかのようにゾロの腹がグゥと鳴った。
「ほら、やっぱり腹減ってんじゃねェか」
言って、男はゾロに背を向けてキッチンに向き直る。鍋の中身を器によそうのを見ながら、ゾロは内心困惑していた。この男、突然食事を勧めてきたかと思えば、こちらが刀を構えているというのに無防備に背を向ける。単なるバカなお人好しなのか、こちらを油断させるためにあえて隙を見せているのか。そもそも、これはいったいどういう状況だ。
男の様子を注意深く観察しつつ、ゾロはいったん状況を整理することにした。
この街に来てすぐに都合よく賞金首を見つけ、捕まえようとして返り討ちにあった。実力差があったとは思えない。ただ、結局のところ自分はまだまだ未熟だった。それゆえに油断もあった。
傷を負い、地面に倒れ伏したところまでは覚えている。たしか、雨が降っていた。空腹と出血と冷えで意識が朦朧としていて——目が覚めたらここにいた。部屋の作りからして、おそらく宿の一室だろう。拘束はされていなかった。刀もすぐそばに置いてあった。さらには、絆創膏や包帯で傷の処置がされている。ということは、助けてくれたのだろうか。この男が?
盆に食事を乗せた男が近づいてきたので、ゾロは思考を中断した。
ベッドのすぐそばにある小さなテーブルに男が食器を置く、その動作に合わせて、ほのかに煙草の香りが漂ってくる。
(この匂い……)
ふいに記憶が蘇る。
そういえば、意識を失いかけていたあの時、声をかけてきた男がいたのだった。その男からは、これと同じ煙草の匂いがしていた。それから、金の髪。雨でくすんではいたが、あの男も金の髪をしていた。おそらく、あの時の男が今目の前にいる男なのだろう。先ほど、男の声と金の髪に覚えがあると思ったのはこのためだったのだ。
「その痩せ方、当分食ってないんだろう? なるべく胃に負担の少ないモンにはしたが、少しずつ、ゆっくり食え」
言いながら、男がスプーンを手に取って器から一口掬って食べる。
「ん、やっぱ美味いな。熱さもちょうどいい。——ああ、嫌だったらスプーンは洗うなり新しいのを使うなり好きにしてくれ」
「……毒味のつもりか」
「そうでもしないと食べないだろ、おまえ」
「なんでそこまでする」
男は面倒くさそうにため息をつくと、刀を構えるゾロに構わずどかりとベッドに腰掛けた。ポケットから煙草を取り出して火をつけ、下唇を軽く突き出してわざとらしく煙を吐き出す。その様はまるでタチの悪いチンピラだ。先ほどまでのどこか気取った印象からの変わりように、ゾロは内心呆気にとられた。——もちろん、そんなことはおくびにも出さないが。
「あのなぁ、おれだって野郎を助けるなんざゴメンなんだよ! ただ、おれはコックだ。腹を空かせてる奴は放っておけねェ。だから助けた、それだけだ」
「ハッ、とんだお人よしだな。おれが極悪人だったらどうすんだ」
「そんときゃ食い終わった後に蹴り飛ばすだけだ。言っとくが、おれは強いぞ」
「おれのが強い」
「あぁん!? ——って悪いが怪我人相手にやり合うつもりはねェ。ほら、さっさとメシ食え、冷めちまうだろ」
ここまでのやり取りで、ゾロは男の言う通りメシくらいは食ってやろうという気になっていた。完全に男を信頼したわけではないが、男のシンプルな思考は悪くない。それに、あの状況で生き延びたのだ。運は自分に向いている。流れに乗っておいてもおそらく問題はないはずだ。
そう判断し、ゾロはようやく構えを解くと、刀を脇に置いた。それから、姿勢を正して手を合わせる。
「いただきます」
「へェ、おまえ結構礼儀正しいのな」
機嫌良さそうに煙草をピコピコと上下させながら呟く男の前で、ゾロは先ほど男が使ったスプーンを躊躇いなく手に取ると、まずは一口、ゆっくりと口に運んだ。
「! ……美味い」
思わずゾロが漏らした一言に、男がパッと破顔した。
「だろ? ゆっくり味わって食えよ」
やけに幼さを増したその笑い顔に一瞬目を引かれたものの、ゾロの意識はすぐに目の前の食事へと戻り、ガツガツとまるで嵐のような勢いで食べ始めた。
「おかわり」
あっという間に空にした器を男に向かって突き出す。
「はいよ。まだあるから次はもう少し落ち着いて食え」
苦笑混じりの男からひったくるようにして器を奪い、またガツガツと一心不乱に食べる。結局、鍋が空になるまでにそう時間はかからなかった。
「ご馳走様でした」
パンッと勢いよく手を合わせると、ゾロはシンクにもたれて煙草を燻らせている男をまっすぐに見た。
「美味かった。こんなに美味いメシは初めて食った」
ぽかんと、男の口が開かれる。その拍子に口の端から煙草がポロリと落ち、男の手を掠めて床へと転がった。
「うあっち!!」
大袈裟に叫んだ男は慌てて床の煙草を踏み消し、ゾロに背を向けて火傷したらしい腕を流水で冷やし始めた。
ザーザーと煩い水音に紛れて、「そりゃどーも」と蚊の鳴くような声が聞こえてくる。おや、と思いゾロが目を凝らすと、金糸からちょこんと飛び出た耳と襟足から僅かに覗く首が赤く染まっていた。
「なんだ? 美味いって言われて照れてんのか?」
「ちっげーよ!」
振り返って怒鳴る男の顔はやはり赤く染まっていた。照れたり怒ったり忙しい奴だと思いつつも、ゾロはそれ以上追求することはせずベッドから立ち上がった。傷はまだ痛むが、体中に力が漲っている。いつもに比べて回復が早い気がするのは、この男の作る食事のおかげなのだろうか。あながち、コックというのも嘘ではないのかもしれない。もしそうであるなら、きっと腕のいいコックなのだろう。
そんなことを考えながら、三本刀を腰に差す。その様子を見ていた男が、一転して落ち着いたトーンで声をかけてきた。
「なんだ、もう行くのか」
「ああ、世話になった」
「随分せっかちなんだな」
「野望を叶えるためには、一秒だって無駄にはできねェからな」
「野望?」
「おまえに教える必要はない」
「……ま、そうだな」
「助けてくれたことには感謝してる。——じゃあな」
「ああ、ちょっと待て」
ドアに向かって歩き出していたゾロが「なんだ」と訝しげに振り返る。
「左肩の傷。とりあえず縫ったけど、ちゃんと医者に診てもらえよ」
「縫った? おまえが?」
「裁縫も得意なんだよ。ただおれは医者じゃねェからな、単なる応急処置だ」
男に指差された左肩を、ゾロは軽く回してみた。少し引き攣るような感じはあるが、動きを妨げるほどではない。試しに刀を握ってみたが、握力も特に問題はなさそうだった。
「大丈夫だ、問題ねェ」
「あのなぁ」
「傷なんてのは適当に縫っときゃくっつく」
「とんだ野生児だな」
ため息をつく男に背を向け、今度こそ部屋から出て行こうとしたゾロを、再び男が「なあ」と呼び止めた。
「今度はなんだよ」
二度も引き止められ、苛立ちを隠さずに振り返ったゾロに男が小袋を投げて寄越した。袋の口を掴んで受け止めると、あまり重さのない袋が反動でぶらりと揺れる。
「これは?」
「メシ。サンドイッチと、保存食が入ってる。また空腹で死にかけられちゃたまんねーからな」
「そうか、助かる」
ゾロが受け取った小袋を腹巻にしまい込む。
「おいおい、そこに入れんのかよ……」
「別にいいだろ」
それじゃ、と片手をあげ、ゾロは部屋を出た。
やはり宿屋の一室だったようで、同じ扉が等間隔に並ぶ廊下を通り、階段を降りた先にはカウンターがあった。その中にいる、宿屋の主人らしい年老いた男が傷だらけの上半身を晒したゾロをじろりと一瞥する。その視線を涼しい顔でやり過ごし、ゾロは外へと出た、
雨はもう上がっていた。鈍色の雲は消え失せ、東の空の低いところで太陽が輝いている。ということは、今は朝なのだろう。朝日に照らされ、一晩中降ったらしい雨が作った無数の水溜まりと、建物の軒先から滴る水滴がキラキラと宝石のように輝いている。その眩しさに目を細めながら、ゾロは大きく一歩を踏み出した。
「おい! そこの緑頭!」
先ほど聞いたばかりの声が上から降ってきて、ゾロは声の方を振り仰いだ。
やはりというか、宿屋の二階の窓から身を乗り出しているのはあの男だった。男の金色の頭が朝日を受けてまばゆく光り、ゾロはさらに目を細める。
「もしまた会うことがあれば、そん時はどっちが強いか勝負しようぜ!」
逆光で男の顔はよく見えない。ただ、声の調子から笑っているのだろうことはわかった。つられるようにして、ゾロの口角も自然に上がる。
「いいぜ」
「まあおれが勝つけどな!」
「バカ言え、勝つのはおれだ」
男が何事かギャーギャーと喚くのを聞き流しながら、ゾロは再び歩き出した。
男の声が遠ざかる。
なんだかひどく気分がよかった。
自分を助けてくれたあの男。気取っているかと思えばチンピラのようで、ぞんざいな態度をとっていながらやたらとお節介で。それなりに実力はありそうだし、妙な奴だったが悪くはない。まあもう二度と会うことはないだろうが、もし巡り合わせというものがあるのなら、あるいは——。
数年後、再び巡り会う運命にあろうとは、この時の二人はまだ知る由もない。