「あー、腹へった」
今日は何かとバタバタしていたらすっかり遅くなってしまった。夕飯の時間はとっくに過ぎている。アトラももういないだろう。
「弁当あっかなぁ」
食いっぱぐれた奴のために、食事が余ればアトラが弁当にして保存用のコンテナに入れておいてくれるのだ。
弁当があればラッキー、なければエナジーバーで我慢するしかねえなと思いながら廊下の角を曲がると、食堂の入り口から明かりが漏れていた。
同じく食いっぱぐれた奴がいるんだろうか。それともまさかまだアトラが仕事してるとか?
すると、ボソボソとした声とよく通る声、二つの声が聞こえてきた。
「この声、シノと……ヤマギか?」
おおかた、時間を忘れて仕事に励むヤマギに食事を食わせるべく、シノが食堂に引っ張ってきたんだろう。
(しかしシノの野郎、ピンとこねえとか言いつつヤマギのことは特別気にかけてるよな)
シノと二人きりというシチュエーション、ヤマギは密かに喜んでいるに違いない。
そこではたと気がついた。
あれ? ちょっと待てよ。そうするともしかしておれってお邪魔虫ってヤツ? もし空気を読まずに「よお」なんて声をかけようものなら……。
自分に向けられるであろう絶対零度の視線を想像してぶるりと身震いする。
(あいつのゴミを見るような視線とか、ネチネチしつこい嫌味とか、怖ぇんだよな)
とりあえず様子を伺ってみようと足音を忍ばせ、入り口からそっと中を覗こうとした時だった。
「ヤーマギ。そんな目で見んなよぉ」
いつものデリカシーゼロの大声とは違う、とんでもなく甘ったるい声が聞こえてきた。
(はあぁ!? ちょ、あいつ、なんつー声出してやがる!)
例えればそう、名瀬さんがアミダさんにかける声のような。可愛いとか愛しいとか、そんな感情がこもったような声。
シノはいったいどんな顔をしてあんな声を出しているのか。というか、そんな目ってどんな目だ。
好奇心に逆らえずそろりと中を覗き込む。
食堂にはシノとヤマギの二人きりで、二人は机を挟んで向かい合わせに座っていた。そして、シノは手を伸ばし、ヤマギの重たく伸びた前髪を優しくかき上げていた。
それだけならまあ、あり得なくもない光景だ。シノはとにかくスキンシップの多い男だから、これもその一つかもしれない。
ただ——二人の視線と、その間に漂う空気が普通じゃなかった。
普段は隠れている右目を晒されたヤマギは、眉を潜めながらも頬をピンクに染め、好きですというビームでも出ているんじゃないかという熱い視線をシノに向けていた。ヤマギがシノの目の前でこんなにあからさまに感情を表に出すのは珍しい。というか今までなかったんじゃなかろうか。
そしてそんなヤマギを見つめるシノは、愛しげに目を細めてやわらかな微笑みを浮かべていた。これまた、滅多にお目にかからないような表情だ。
見つめ合う二人の周りに、歳星で食べたカンノーリよりもさらに甘いんじゃないかというような空気が漂っていた。うっかり胸やけを起こしそうだ。
(え? え? え?)
目の前の光景を受け入れられずにいる間にも二人の会話は進む。
「シノだって……そんな目で見られたら、俺…………」
「ヤマギ」
「シノ」
完全なる二人の世界。どうしたってカップルがイチャついてるようにしか見えない。
おかしい。
シノからヤマギに向かう矢印はなかったはずだが、もしかして俺の知らない間に何かあったのか、この二人。
まあそれはおいおい確かめることとして、とりあえず今は——。
(なんか、これ以上は見ちゃいけねえ気がする……っ)
覗き見をしているという後ろめたさはもちろんあるが、それよりも何よりも、こっ恥ずかしくて見てられなかった。あいつら、まあシノは別としても、ヤマギはこんなところ絶対見られたくないだろうし。偶然にしろ、もし覗き見していたなんてことがバレたら、何されるかわかったもんじゃねえ。
そーっと顔を引っ込めると、そのまま一歩、二歩とゆっくりと後ずさった。まるで泥棒のような足取りで曲がり角までたどり着く。次の瞬間、くるりと回れ右をした俺は脱兎のごとく駆け出して部屋へと逃げ戻った。
その日の遅い夕食がエナジーバーだけだったのは言うまでもない。
*
あの日の夜のことについて、シノを問いただしてみようと思いつつお互い忙しくてなかなか話す機会が取れず、すでに数日が経過していた。
ちなみにヤマギと話す機会はあったが、「おまえ、もしかしてシノと付き合ってたりすんのか?」なんてぶっ込む勇気はなく聞けていない。
(っていうか、なんで俺があいつらのことこんなに気にしなきゃなんねーんだ)
頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜてそんなセルフ突っ込みを入れつつ、俺はおやっさんに用があって格納庫を訪れていた。
昼飯時だからか、格納庫にはあまり人がいなかった。そこにおやっさんの姿は見当たらない。食堂に行ってしまったのだろうか。昨日、大々的な演習があったのでその後の整備で忙しいんじゃないかとこっちに来てみたが、当てが外れたようだ。
一応誰か捕まえて聞いてみるかと辺りを見回す。その時、視界の端にチラリと人影が見えた。目を向けると、格納庫の奥まったところからのぞいていた短く刈られた茶色い髪がちょうど引っ込むところだった。あそこは確か、流星号が置かれているはずだ。
(シノ、か?)
時間を見つけてはよく愛機の元を訪れているので、今日も整備の様子を見にきたのだろう。ということはつまり、流星号の専属整備士であるヤマギもいるという訳で。
おやっさんの居場所はヤマギに聞くのが一番いいだろうと、俺は格納庫の奥へと向かった。近づくにつれ、ざわめきや金属音に混じって湿ったような音が聞こえてくる。
(なんだ? この音)
訝しく思い、なんとなく声はかけずに物陰からそっと中を覗き込み——そして固まった。
流星号の足元によりかかるようにして立つ小さな影に、シノの大きな体が覆い被さっていた。そのジャケットの裾を、手袋をした小さな手が縋るように掴んでいる。
「シノ……んっ」
悩ましげな声の合間に聞こえてくるのは、先ほどの湿った音。
(え、これって……)
その時、シノが顔の角度を変えた。今まで隠れていた小さな影——やっぱりヤマギだ——の顔があらわになる。
ギュッと目を閉じて頬を上気させたヤマギの薄い唇と、シノの唇がピッタリとくっついていた。と思いきや、ふいに離れたシノの口から伸び出た肉厚な舌が薄く開いたヤマギの唇をくすぐるように舐め、誘われるようにおずおずと出てきたヤマギの舌を絡めとる。そしてまた、クチャリという湿った音がかすかに響いた。
(おいおいおいおい!)
こいつら仕事中に隠れて何やってんだよ……じゃなくて!
これはキスだ。紛うことなきキス。しかもあれだ、ディープなやつ。
え、こいつらなんでキスしてんの? やっぱ付き合ってんの? つーかなんかエロいんですけど!
昼の、こんな明るい時間に見るにはやや刺激の強すぎる光景に、鼻の奥に馴染みのあるツンとした感覚を覚えて慌てて鼻を押さえた。はずみで小さな物音を立ててしまう。
(やべっ、バレたか!?)
視線を戻すと、二人は特に気にした風もなくキスを続けていた。どうやら気づかれなかったらしい。
ホッとして胸をなでおろしたところで、薄く目を開いたシノと目が合った。意味ありげに口の端を吊り上げると、これ見よがしにさらにキスを深める。
「んぅ、アッ」
これまで耳にしたことのない、やけに色っぽいヤマギの声が耳に届いて居た堪れない。と、シノの右手が邪魔者を追い払うようにシッシッと小さく振られた。
シノの野郎、気づいてやがったくせにわざとやめなかったな。つーかこれ、覗き見してるおれが悪いことしてるみたいじゃねえ? いやいやおかしいだろ。おれは被害者だっつうの!
とはいえ、そんなことを声高に叫ぶわけにもいかず。
(チクショー! あの発情ゴリラめ、あとで覚えとけよ!)
心の中で捨て台詞を吐き、おれはまたしても二人の前から逃げ出すハメになったのだった。
*
その日の夜。自室(幹部なので個室を与えられている)に戻ると、ドッと疲れが押し寄せてきて思わずため息をついた。
なんだか今日は疲れた。すっごく疲れた。体がっていうよりは、精神的に。
それもこれも、全部あいつらのせいだ。
乱雑にジャケットを脱ぎ捨てると、重たい体をベッドに投げ出した。決して柔らかいとはいえないスプリングが、ギシリと軋んで疲れ切った俺を受け止めてくれる。
(あー、ねみー)
こんな日はさっさと寝てしまおう。。
すぐさま忍び寄ってきた睡魔に、俺はおとなしく意識を明け渡すことにした。
——ドンッ
突然何かがぶつかったような音がして、いざ眠りの国へと旅立たんとしていたところを一気に引き戻された。
「な、なんだ!? 敵襲か!?」
身に染みついた反射神経で瞬時に起き上がるとあたりの様子をうかがう。しかし、窓の外も廊下も静かなままだ。敵襲を知らせる緊急放送が鳴り響くこともない。
「気のせいか……?」
その後もしばらく耳を澄ませ、特に異変はなさそうなのを確認するとようやく肩の力を抜いた。
変なタイミングで起こされたせいで余計に疲れが増した気がする。もう一度寝直すかと再びベッドに横になったところで、ギシ、と軋むような音が聞こえた。
またベッドが軋んだんだな、と特別気に留めずに目を瞑る。するとまたギシ、という音が聞こえてきた。しかも今度は、ギシ、ギシ、ギシと断続的に聞こえてくる。
(いやこれ、俺のベッドの音じゃねえな)
じゃあいったいどこから? 音の近さ的に、たぶん隣の部屋からか。
誰かが筋トレしてんのかもな、と一人納得して寝ることにした。
——ギシギシギシギシ……
「だああっ、うっせーんだよ!」
鳴り止むどころか、速さと大きさを増して鳴り続ける音に俺はキレた。叫んで飛び起きる。
こっちは疲れてるっつーのに、人の安眠を邪魔しやがって。文句の一つでも言わないと気が済まねえ。第一このままじゃ眠れねえ。
ジャケットは床に放り捨てたまま、俺は肩を怒らせて部屋を出た。音の出所であろう、右隣の角部屋の前に仁王立ちで立つ。ドアを見ると、解錠されていることを示す緑色のランプがついていた。
「はっ、ちょうどいいぜ」
大きく息を吸い込み、ドアを開くと同時に部屋の中へと怒鳴り込む。そして、目に飛び込んできた光景に言葉を失った。
もし俺がこんなに疲れていなくて、寝入り端を叩き起こされたんじゃなければ、音がシノの部屋から聞こえてきていたことも、何かが軋む音に押し殺したような声が時々混ざっていることにも気がついただろう。
もし気づいていたら、怒鳴り込むなんていうアホな真似はしなかった。そう断言できる。
けれど俺はこの日ひどく疲れていて、さらには寝入り端を叩き起こされて頭がうまく働いていなかった。
だからそう、これは不可抗力だ。決して俺のせいではない。むしろ俺は被害者だ。
「おまえらさぁ……こないだから俺の行く先行く先でイチャコラしやがってよォ…………俺に恨みでもあんのか? あぁん!?」
視線の先、ベッドの上には素っ裸でもつれ合うシノとヤマギ。
「人の部屋の隣で勝手におっ始めるんじゃねえぇぇぇ!!」
夜の静寂に、俺の絶叫が響き渡った。