時刻はとうに真夜中を過ぎていた。
見張りの者以外は寝静まっているであろうこの時間、敷地内の建物は濃紺の闇の底に静かに沈んでいた——ただ一つ、格納庫だけを除いて。
その格納庫から漏れていた明かりがようやく消えて、闇の深度が深くなる。闇が深いといっても、今夜はわりあい明るい方だった。久しぶりに砂嵐のない、晴れ渡った夜だからだ。
そんな夜だったから、明かりの消えた格納庫から歩み出た人影が屋上にいるシノにはよく見えた。青年というよりは、少年と呼ぶほうが相応しい体つき。丸い金色の頭は美しく澄んだ夜空に浮かぶ二つの月に照らされ、まるで地上に落ちた三つめの月のように淡く輝いている。
「ヤマギ」
シノは、大きく伸びをするその小さな人影に、いつもより幾分か声のボリュームを抑えて呼びかけた。
「シノ?」
くるりと振り向いたヤマギが探るように周囲を見回す。
「上だよ、屋上」
言葉通りに屋上を見上げたヤマギが、手を振るシノの姿を見つけて小さく手を振り返した。
「今夜は見張り?」
「おう。おめーはこんな時間まで仕事か?」
「うん。流星号でちょっと調整しておきたいところがあったから」
「そっか、遅くまでありがとな。——なあ、ちょっとこっち来いよ」
「え? なんで……」
「いーからいーから、ちょっとだけ。な」
「もう。しょうがないなぁ」
あまり気が進まないとばかりにため息をついておきながら、軽やかな足取りでヤマギは屋上へと小走りで階段を駆け上った。
「シノ」
「おー、来たか」
ほらこっち、とシノが少し右側にずれてできたスペースにヤマギが滑り込む。ただし、くっついてはこない。二人の間には拳一つぶんほどの空白。ヤマギがシノに対して絶妙に距離をとるのは、今に始まったことではない。
「それじゃ寒いだろ。もっとこっち来いって」
シノはヤマギの肩をぐいと掴んで引き寄せると、そのわずかな空白をあっという間に埋めてしまった。
「ちょ、シノ……っ!」
驚いたヤマギが一瞬体を強張らせ、それからシノの腕から逃れようとしてもがく。
「うりゃー!」
「うわっ、もう何なんだよほんと……——!」
そんなヤマギの抵抗をものともせず、シノはヤマギの肩を抱き寄せたまま大きな毛布で二人をすっぽりと包み込むと、仰向けに倒れ込んだ。視界が反転し、目の前に星空のパノラマが広がる。
なおもシノの腕から抜け出そうともがいていたヤマギが息を呑む気配がして、シノは隣の小さな相棒を窺い見た。いつもポーカーフェイスのヤマギにしては珍しく、口をぽかんと開けた幼い表情で一心に夜空を見上げている。その様子に満足そうな笑みを浮かべると、シノも再び夜空を見上げた。
しんと冷え切った夜気の向こう、漆黒のキャンバスにこぼれんばかりの星々が瞬いている。赤っぽいもの、白っぽいもの、青白いもの。星は色だけでなく大きさも様々で、まるで色とりどりのガラス片を撒いたかのようだ。
見張の最中にふと空を見上げた時、頭上に広がる、火星では滅多にお目にかかれない澄み切った星空にシノは胸を打たれた。すげえと思い、キレイだと思い、ふとヤマギの顔が浮かんで、あいつにも見せてやりてえなと思った。ヤマギの顔が浮かんだのはたぶん、地球から火星に戻って以降、どこか苦しそうな険しい表情をすることが増えているのが気になっていたから。そうしたらちょうど格納庫からヤマギが出てきたものだから、思わず声をかけたのだ。
「……ねえ、もしかして、これを見せるために呼んだの?」
視線は夜空に向けたまま、ヤマギがささやくような声で問う。
「そ。すっげえキレイだろ?」
「うん、すごくキレイだ」
ようやくシノの方を見たヤマギが、ふわりと、花が綻ぶように笑った。
不意打ちの笑顔に、シノの胸がドキリと音を立てる。呆けたように見惚れていると、ヤマギが怪訝そうに軽く眉を寄せた。顰めた眉の下、地球で見た夜の海のような色をした瞳が、色とりどりの星空を映して煌めいている。どこか神秘的な、宇宙をまるごと閉じ込めたかのような底のない瞳に、シノは吸い込まれそうになった。
「シノ? どうしたの?」
「え? ああ、うん、いや」
ハッと我に返り、シノは知らぬうちに伸ばしかけていた手を慌てて引っ込めた。ついでに、よくわからない胸のざわめきに蓋をして、無理やりにヤマギから視線を引き剥がす。
「砂嵐がないとこんなにキレイに星が見えるんだなーって思ってよ」
「そうだね。——なんか、こうやって星空を眺めてると、地球の夜を思い出すな」
「地球? 星なんか見たっけか」
「うん。夜に、何度か空を見上げたんだ。あの時は、星空をキレイだと思う余裕なんてなかったけど」
「まあなあ。いろいろ……あったもんな」
いろいろ。それらが断片的に脳裏を去来して、シノはしんみりと黙り込んだ。同じ思いなのか、ヤマギも隣で同じように沈黙を守っている。
そのまま、二人しずかに星空を見上げていると、ふいにヤマギが口を開いた。
「俺たちってさ、すごくちっぽけな存在だよね」
「なんだぁ、ヤマギ。どうした突然」
「突然っていうか、前から思ってたんだけど。あまりに大きなものを見すぎたからかなぁ。宇宙とか、地球の海とか。今見てる火星の星空もそうだけど、世界はあまりに広くて、大きくて、改めて俺たちはなんてちっぽけなんだろうって」
「あー、それはちょっとわかるかも」
「ちっぽけすぎて簡単に消えちゃうし、消えたって誰も気にも留めない。夜空から小さな星が一つ消えたって誰も気づかないのと同じだ」
ヤマギはいったん言葉を切ると、金色に縁取られたまぶたをそっと伏せた。いつもに増して肌が色を失っているのは、果たして火星の夜の凍てつくような空気のせいだけなのか、シノにはわからなかった。
「だから……時々、俺たちが命をかけて必死にもがいて戦っても無駄なんじゃないかって……そう思うことがある」
ヤマギの口がきゅっと噛み締められる。
ああまた、とシノは思った。最近のヤマギはこんな顔をしてばかりだ。なぜヤマギがこんな顔をするのか、なんとなく思い当たる節はある。だからこそ、シノにはそんなヤマギの頭をポンと軽く叩いてやることしかできなかった。
ヤマギの言いたいことは、シノにとって全く理解できないわけではない。根底にあるのは、たぶん無力感だ。そして、それはきっと自分の中にもある。でも——。
触れ合った場所から伝わってくる、ヤマギのやや低めな体温を感じながらシノは思う。
人の体のぬくもり。シノの好きなもの。人が生きている証。死んだ人間は氷のように冷たい。心臓を直に鷲掴みにされるようなあの冷たさは、何度経験しても慣れることはない。とりわけ、大切な家族があんなふうに冷たくなることは、シノには耐えられないことだった。あんな思いは、もう二度としたくない。だからシノは戦うのだ。無力感に苛まれることがあろうとも、大切な家族のぬくもりを守るために。
「ヤマギがそう思う気持ちもなんとなくわかるけどよ。でも、必死にもがいて戦って、たとえちっぽけな命でも少しでも先に繋げられるなら、それは無駄じゃないと思うぜ」
自分たちのしていることは無駄じゃない。半ば盲目的にそう信じるばかりで、シノはいつの頃からか考えることをやめていた。無駄かどうか、意味があるのかどうか。そんなことを考えていたら動けない。動けなければ家族を守れない。だから、考えない方がいいのだ。考えるのは、オルガのような頭のいい奴に任せておけばいい。ヤマギも頭がいいから、自分の代わりに考えてくれたらいいと思う。ただ、それでヤマギが不安になるのであれば、年長者であり、相棒である自分ができるだけその不安を取り除くべき——それがシノの考えだった。
「仮に、誰にも気に留められず俺たちのちっぽけな命が消えたとしてだ。俺たち家族は、そんなちっぽけな命があったことを絶対に忘れない。死ぬまで覚えてる。そうだろ?」
「うん、そうだね」
「他の奴らはどうでもいいけどさ。鉄華団の——家族のみんなが忘れずにいてくれるんなら、俺はそれで十分だ」
「俺も……そう思う」
「だろ? それによ、ヤマギ知ってっか?」
「何を?」
「ちっぽけだって、眩しいくらいに輝く星だってあるんだぜ。流れ星だってそうだろ?」
「流れ星は少し違うんじゃないの」
「そうなのか? まあでもよ」
言って、シノはひときわ煌々と輝く星を指差した。
「あの星くらい眩しく光ってたら、ちっぽけだって無視できないだろ。夜空から消えれば、誰かがきっと気づく。だからさ、ちっぽけだろうがギラギラ輝けばいいんだよ」
「輝く……か」
「おう! だから俺はやるぜ——ノルバ・シノ、命の限り、精一杯輝いてみせる!」
声高に宣言するシノを、ヤマギはまっすぐに見た。表情のない顔で、静かな瞳だけが何かを雄弁に語りかけてくる。それが何かを見極めようと、シノはもう一つの瞳を隠す重たい前髪に手を伸ばした。けれど、その手を避けるようにしてヤマギはふいと俯いてしまった。
「……輝くのは勝手だけどさ」
「え?」
隠れた口元から、地を這うような声が響いてくる。
「一瞬しか輝かなかったら意味ないから。長く輝くからこそ、そこに星があるって気づいてもらえるんだろ」
「た、たしかに」
「……で、シノの輝くって、家族を守って戦うってことだよね」
「まあ、そうだな」
「じゃあさ、おれはシノが輝けるようにいつだって全力で流星号を整備するよ。だからシノも、少しでも長く輝けるように全力で頑張って。——じゃないと、許さないから」
最後は顔を上げ、ヤマギがおそろしい顔で睨みつけてくる。その迫力に気圧されてシノは思わず固まり、次の瞬間、耐えきれずに吹き出した。
「ハハッ! おっかねえなあ、ヤマギは!」
「おっかなくて悪かったね」
「いや、ぜーんぜん悪くねえよ。むしろ頼もしくて最高だぜ」
「あっそう」
「そうそう。頼りにしてるぜ、相棒」
「……もう」
わしゃわしゃと乱雑に頭を撫でてやると、ヤマギは口を尖らせて乱れた髪を撫でつけた。照れ隠しで拗ねてみせる様がかわいくて、シノは上目遣いでそろりと見上げてくる小さくも頼もしい相棒を目を細めて見つめた。
「ヤマギは明日も仕事だろ? そろそろ部屋戻って寝ろよ、じゃないと倒れちまうぞ」
「俺そんなヤワじゃない。……でもまあ、そろそろ寝るよ」
「おう、そうしろ。呼び止めて悪かったな」
「ううん。シノは見張り頑張って」
「ありがとな。おやすみ」
「おやすみ、シノ」
立ち上がり、ヤマギはすいと星空を見上げ、それからシノに向かってかすかに笑いかけ、ゆっくりと階段を降りていった。シノも体を起こし、その華奢な後ろ姿が見えなくなるまで見送る。
ヤマギの足音が聞こえなくなると、あたりには再び静寂が訪れた。もう一度夜空を見上げれば、色とりどりに輝く満天の星。なんとはなしに眺めていると、ふいに夜空を滑るように光が流れ落ちてきた。あ、と思う間もなく、それは忽然と姿を消してしまう。
「……流れ星、か」
一秒にも満たない、ほんの一瞬の間に生まれて消えていった光。そんな刹那的な輝きに、シノは自らを重ねた。
同時に、許さないと睨みつけるあおい瞳を思い出し、ちくりと胸が痛んだ。