紫陽花

♢雨の公園

 その公園に立ち寄ったのは、ほんの偶然だった。
 横を通りかかった時に誰かに呼ばれたような気がして、気づけば公園の中へと足を踏み入れていた。

 昨日の夜から降り続いていた雨でぬかるんだ地面が、サンジーノの美しく磨かれた革靴を汚す。それに構うことなく公園の中ほどまで進むと、サンジーノはふと立ち止まった。
 奥の紫陽花の植え込みのそばにあるベンチに、誰かいる。
 傘を少し持ち上げて見ると、雨にけぶる景色の中、目に飛び込んできた若草のような鮮やかな緑。
 心を刺すその色に一瞬息が止まる。
 そんなはずはないと自分に言い聞かせ、深呼吸を一つしてからもう一度ベンチの方を見ると、雨に濡れるあどけない寝顔が目に入った。年は十八くらいだろうか。短く切り揃えられた緑髪に秀でた額、高い鼻梁、薄く形の良い唇。その一つ一つがサンジーノの冷えた胸をつく。
 六月とはいえ、太陽が顔を出さない日はまだ肌寒い。薄手の長袖でちょうどいい気温であるにも関わらず、その緑髪の少年はずぶ濡れになるのも厭わずに、白いTシャツに長ズボンという出立ちで雨ざらしのベンチに横たわっていた。
 その整った顔やTシャツの襟からのぞく肌には殴られたような痣があり、Tシャツには所々に血液が付着している。喧嘩をしたのか一方的にやられたのかは知らないが、どうやら手負いであるらしい。動かないところを見ると、もしかすると死んでいるのだろうか。
 厄介ごとに巻き込まれるのは御免だと思うのに、サンジーノは知らずその少年の方へと歩き出していた。
 ベンチのすぐそばに立ち、傘をさしたまま軽く覗き込むと僅かに胸が上下しているのが見えた。
 どうやら生きてはいるらしい。その事実に軽く息をついた時、上にある木から雫が落ちてきて、ボタタッと傘にぶつかり音を立てた。突然の大きな音に、眠っていた少年の目が瞬時に開かれる。
 その瞳と視線が合わさった瞬間、サンジーノは心臓が止まるかのような衝撃を受けた。軽い前傾姿勢のまま体が硬直する。
 少年は即座に起き上がりサンジーノと距離を取ろうとしたが、どこか痛むのかそれ以上動くことは敵わず、全身から殺気を立ちのぼらせ鋭く睨みつけてきた。まるで毛を逆立てた猫のようだ。剥き出しの敵意に当てられ我に返ったサンジーノは、危害を与えるつもりはないと軽く両手を上げて示した。
「こんな雨の中、ずぶ濡れで昼寝とは物好きだな」
「……あんた誰だ」
「おれ?ただの通りすがりだよ」
 その言葉を信じる様子はなく、より一層強く睨みつけてくる。
「あいつらの仲間なんじゃないのか」
「あいつらって、おまえにその痣つくった奴等か?悪いが心当たりはねェな」
 言葉の裏の真意を暴かんと瞳の奥を覗き込むような少年の視線に、サンジーノは目を逸らすことなくただ静かに見つめ返した。
 やがてサンジーノに危害を加える意思はないと判断したのか、少年は纏っていた殺気をふっと解いた。しかし信用したわけではないらしく、鋭い視線はこちらに向けたままだ。
「なにおまえ、そいつらの恨み買うようなことでもしたのか」
「あんたには関係ねェ」
 とりつく島もない様子に、お手上げだとばかりにサンジーノは肩をすくめてみせた。
「それもそうだ。ま、声かけられたくないんだったら、こんな所でびしょ濡れになって寝てないでさっさと病院行くなり家に帰るなりするんだな」
そう言い置いて踵を返そうとした所で、少年が俯いて何事か呟いた。
「……ェよ」
「なんか言ったか?」
 立ち止まり声をかける。
 すると、俯いたままの少年がボソリと吐き捨てた。
「病院行く金もなければ、帰る場所もねェよ」
 サアァァ、とやわらかな雨が二人の間に降り注ぐ。
(そういえば、初めてアイツに出会った時も雨だったな)
 優しく、どこか儚い雨の音がサンジーノの遠い記憶を呼び起こす。
 その記憶をなぞるかのように、気付けばサンジーノの口から言葉が零れ出していた。
「帰る場所がないなら、おれのとこ来るか」
 言った本人もだが、思ってもみない言葉をかけられた少年も相当驚いたようだ。目を見開き、ポカンと口を開けた顔からはさっきまでの鋭さがすっかり消え去っている。そんな顔は年相応だなと思いながらしばらく少年の顔を見つめていたが、一向に返事がないことに焦れてサンジーノは再び口を開いた。
「……で、返事は?」
 問いかけられて少年は再び警戒心を取り戻したが、その鋭い瞳には少しばかりの戸惑いが生まれていた。
「んなこと言われてほいほいついて行くか。怪しすぎんだろ」
「そうか?」
「ああそうだ、見ず知らずの行き場のないガキを保護するなんざ、何か裏があるに決まってる」
「裏、ねぇ。そんなもんはないさ」
 言いながら、サンジーノもなぜ自分がこの少年を連れて帰ろうなどと思ったのか、その理由を考えていた。
「じゃあ何でだ。まさか善意なんて言うなよ」
「善意……とはちょっと違うな。捨て猫を放っておけずに連れて帰る、そんな感じか?」
「誰が捨て猫だッ!!」
 カッと怒りに顔を染めて少年が食ってかかってきた時、グゥ〜という気の抜けた音が辺りに鳴り響いた。
 一瞬の静寂の後、ブハッとサンジーノが吹き出す。
「何だよ、おまえ腹減ってるのか」
 ハハハッと目尻に軽く涙まで浮かべて笑われ、少年は恥ずかしさと苛立ちが同居したようなぶすっとした顔をした。
「昨日から何も食ってないんだ、悪ィかよ」
「別に悪くないさ」
 腹の虫が鳴ったことを揶揄うことはせず、サンジーノは少年に無邪気な笑みを向けた。
「なあ、おれは腹を減らしてる奴は放っておけない性質《タチ》なんだ。食わしてやるからついて来い」
 そう言われてもなお、少年は信じていいものかどうか決めかねているようだった。ついて来ないなら置いて帰ればいい。そう思うもののなぜかそうする気にはなれず、サンジーノはさらに言葉を繋いだ。
「言っておくが、おれの作るメシは美味いぞ。それに、メシ食った後は居座るなり出ていくなり、好きにすればいい」
 それが駄目押しとなったようで、少年は漸くのろのろと立ち上がった。
 あちこち痛むのか、グッと顔を顰めている。
「おまえ、名前は?」
「……ゾロ」
 名前まで似てるんだな、と心の中で呟く。
「いい名前だ」
「あんたは?名前」
「おれはサンジーノだ。近くに車を呼ぶから、そこまで歩けるか」
「ああ、大丈夫だ」
 そうして、二人は雨の中をゆっくりと歩き出した。

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