麦茶の氷が溶ける頃

 ピンポーン。
 やけに響くチャイムの音を背に、煌々と光る店内から夜の闇へと飛び出していく。夜道を急ぎながら手にしたレジ袋をガサガサと漁っておにぎりを取り出すと、ゾロは大きな口を開けてかぶりついた。
 大学二年生のゾロは、日中は大学の講義はそこそこに剣道部の練習に明け暮れ、夜は生活費や部活にかかる費用を捻出するためにひたすらバイトに励んでいる。このコンビニのバイトは一年生の時からしているが、苦学生であるゾロを見兼ねてか、ある時から店長が仕事上がりにこっそり廃棄商品をくれるようになった。食費がだいぶ浮くので、正直なところかなり助かっている。それに、表示シールに記された消費期限からそんなに時間の過ぎていないお弁当やおにぎりは、まだ期限の切れていないものと比べて別段味に変わりはない。今食べている海老マヨのおにぎりも、言われなければ消費期限が切れていることなんて分からないくらい普通に美味しかった。
 たった三口で海老マヨおにぎりを食べ切ると、信号待ちで牛カルビおにぎりと炒飯おむすびもあっという間に平らげ、ゴミを入れたレジ袋を丸めて斜め掛けしたボディバッグに突っ込むと、青になると同時にダッシュで駆け出した。
 今日はこれからラブホでのバイトだ。
 平日は基本コンビニバイトだけだが、次の日の午前に大学も部活もない時は掛け持ちでラブホの夜勤清掃をしている。
 ラブホでのバイトを決めたのに特に理由はない。時給がわりと良くて、人とあまり関わらなくてよくて、面接に受かったから。ただそれだけ。
 仕事内容も、慣れてしまえば平気だ。客が出るとすぐにリネン交換、掃除、アメニティやコンドームの補充をするというのをひたすら繰り返す。最初は他人の体液や排泄物の処理に精神を抉られることもあったが、お金のためだと割り切ってしまえば、慣れも相まって今じゃもう機械的に処理できるようになった。
 職場に着くと今日ペアを組むパートのおばさんが来ていたので挨拶をする。おばさんの名前は、深澤さん。基本は夜勤勤務なのか、この時間帯にしかシフトに入らないゾロとペアを組むことが多いのですっかり顔見知りだ。プライベートに踏み込んでくることもなければ仕事も早いので、気楽なのが良かった。今日も楽に仕事ができそうだと考えながら、ゾロは急いで制服に着替えた。
 空室表示に切り替わる度に部屋に出向いては掃除をする、というのを何回繰り返しただろう。ようやく一息つけた時にはもう夜が明けかけていた。
 深澤さんが今のうちに洗濯をすると言うので、ゾロはゴミ出しをすることにした。燃えるゴミを集めて回り、大きな袋五つ分になったそれをまとめて両手で持つと外に出しに行く。そこそこの重さになるのでこれもある意味筋トレだ。
 肘でドアノブを押し下げて外に通じる扉を開けようとすると、抵抗を感じた。誰かがドアの前に何か置いたのだろうか。片肘だけではびくともしないので、仕方なくゾロは両手に持っていたゴミを一旦置くと、両手で力一杯ドアを押した。
 ずずずずず、と何かを引きずるような音を立ててゆっくりとドアが開く。
 ドアが立てるギィという音に混じって、「う……」とかすかな呻き声が聞こえた。
(人か……?)
 こんな時間にこんな場所にいるのは酔っ払いくらいか。
 面倒だな、と思いながらも開いたドアの隙間からそっと外を覗いてみると、ドアにもたれ掛かるようにして金髪の男が座り込んでいた。
 地毛なのか、根本から綺麗な金色をした髪はグシャグシャに乱れている。
 寝ているのかもしれないが、このままここに座られていても邪魔だ。どいてくれと声をかけようと男の前に回ったところで、ゾロは軽く目を見張った。
 口端に殴られたような痣があり、乾いた血がこびりついている。肌がやたらと白いせいで痣の毒々しい紫が際立っていた。そのまま少し下に目をやると、肌蹴たシャツの隙間から覗く複数のミミズ腫れ。だらりと垂れ下がった両の手首には赤く擦れたような痕があり、一部血も滲んでいた。まるで暴行でも受けたかのような有様だ。
「おい、大丈夫か?」
 思わず声をかけると、またもや「う……」と呻き声をあげ、苦しげに眉間に皺が寄せられた後、ふるりと瞼が持ち上がった。
 その時、立ち並んだビルの隙間から朝日が差し込み金髪の男を正面から照らした。
 やや白みを帯びた透明感のある光を浴びて、水晶玉のように透き通った水色の瞳。
 吸い込まれるような美しさに目を奪われる。
 綺麗だ、そう思った。
「……何」
 放たれた掠れ声に我に返る。
「あ、いや……ここ出入り口なんで邪魔だから声かけようと……」
「ああ」
 今気付いたというように、男が後ろを振り返ってドアを見た。
「悪かったな」
 そう言って立ちあがろうとしたが、傷が痛むのか顔を顰めるとまた座り込んだ。
「動けそうにないからもう少し待ってくれ」
「それは全然いいんだが……大丈夫なのか?その傷」
「別に。いつものことだ」
 それっきり、もう関わるなとばかりにひらりと手を振って顔を伏せてしまう。
 このまま放っておくのも気が引けたが、言うべき事は言ったしこれ以上のんびりしてもいられないので、ゴミを外に出すとゾロは仕事へと戻った。
 
 
 
 仕事を終えて私服に着替えると、ゾロは裏口へと向かった。
 なんとなく、あの男がまだいるような気がしたのだ。
(やっぱりな)
 抵抗を感じるドアを力一杯押して外に出ると、さっきと同じ姿勢で座り込んだままの男がいた。
 生きてるよな?と男の正面に座り込んでじっと眺める。薄い肩がわずかに上下しているので、とりあえず死んではいないようだ。
 そのまま立ち去るか、声をかけるか、座り込んだまま逡巡していたゾロは、悩んだ末に声をかけてみることに決めた。
「なあ、医者行った方がいいんじゃねェか」
「……医者は、嫌だ」
 俯いたままの男がくぐもった声を出す。どうやら意識はあるらしい。
「でも動けないんだろ?」
「大丈夫だって」
「大丈夫じゃないからずっとそこにいるんじゃないのか」
「しつこいな。なんなんだよ、おまえ。いいからほっといてくれ」
「ここは邪魔になるって言っただろ……そうだ、休むならおれの家で休め」
 自分でも、なんでそんなことを言ったのか分からなかった。
 この男の言う通り、いかにも訳アリっぽい奴のことなんて放っておいた方が絶対にいい。なのに、声をかけるだけじゃ飽きたらず自分の家に来いだとか、どうかしている。狂気の沙汰だ。そう思うのは相手も同じだったらしい。
「はあ!?頭沸いてんのか、おまえ」
 ガバリと顔を上げると、まるで宇宙人を見るかのような目でゾロを見てきた。
「沸いてねェよ」
 自分でそう思っていても、人から言われると腹が立つ。ムスッとしてそう答えると、ゾロは男の左腕を自分の肩に回すと支えるようにして立ち上がった。
「いや、おれ行くとか一言も言ってないんだけど?」
「うるせェ。怪我人は黙ってついて来い」
「え、何?もしかしておれ殺されちゃったりすんの?」
 アンタ人相悪いし、と言う男を無視して歩き出す。幸い、ここから自宅までは徒歩十分くらいと近い。
 別にお人好しでもなければ、剣道一筋で他人への興味が薄い自分がなぜこんなことをしているのか。一つは、この男が悪人には見えなかったからだ。家に入れても害はないだろうと判断した。
 でも一番の理由は——多分、あのに魅せられたから。
 それに、「いつものことだ」と言った時のどこか翳りのある自嘲的な笑み。あれを見た時、このまま放っておいてはいけない気がした。
 こういう時の勘はだいたい当たる。そう自分に言い訳して、自力ではまだ動けないのか逃げ出そうとはしない男を半ば引き摺るようにしながらゾロは早朝の街を家へと歩いた。
 
 
 
 アパートに辿り着き、自宅のドアを開けるとゾロは男を玄関に座らせた。
 1Kの六畳一間のぼろアパート。ベッドとこたつテーブル、あとはテレビがあるだけの殺風景な部屋。
 男はぐるりと部屋に視線を巡らせてから再びゾロに目を向けた。
「なあ、おれ帰っていい?」
「まだ歩けねェくせに何言ってんだ」
「いや、さっき無理矢理歩かされたせいでだいぶ動けるようになったしよ」
 そう言ってやおら立ち上がろうとした男の肩を掴んで押しとどめる。
「ならせめて、傷の手当てしてからにしろ」
 目立つだろソレ、と顎で傷を示すと、男はしばらく考え込んだ末に「わーったよ」とため息混じりに答え、ようやく履いていた黒い革靴に手をかけた。
 靴を脱いだ男に手を貸して部屋に入ると、ベッドに背を凭せ掛けるようにして座らせる。それから閉め切っていたカーテンを開け、窓を全開にした。部屋に柔らかな陽光が差し、五月上旬のまだ温度の低い薫風がカーテンを優しく揺らして澱んでいた部屋の空気が浄化していく。
 眩しそうに目を細めて窓の外を見る男の金糸が、カーテンに合わせてふわりと揺れた。朝の光を弾いて輝く眩い金。
(……綺麗だ)
 またもや呆けたように見惚れていた自分に気付くと、ゾロは慌てて首を振った。見ず知らずの他人、それも男相手に二度も綺麗だと思うなどどうかしている。
 頭を冷やそうと冷蔵庫に顔を突っ込んで麦茶のペットボトルを取り出すと、グラスに注いで一気に飲み干した。喉から腹へと落ちて行く冷たさに幾分冷静さを取り戻す。ふーっと一つ大きな息を吐くと、水切りカゴに伏せたままのグラスに氷を入れて麦茶を注ぎ、男の元へと運んだ。途中で救急箱も手に取る。
「麦茶。もし喉乾いてんだったら」
「どうも」
「んじゃあ消毒するぞ」
 剣道で生傷が絶えないので、傷の手当ては慣れたものだ。コットンに消毒液を染み込ませると、口の端、それから両手首の傷をできるだけ優しく拭い、乾いた血も落としていく。傷にしみるのか、男の眉が軽く寄せられた。
 髪よりも少し濃い金。その眉尻はクルリと巻いている。……巻いている?
 目にばかり見惚れていて今まで気付かなかったが、よく見ればなんとも珍妙な眉毛だ。前髪で隠れて見えない反対側の眉毛も同じように眉尻が巻いているのだろうか。
「……顔になんかついてるか」
 物珍しさについつい凝視してしまっていたらしい。視線に気付いた男が問うてきた。
「いや……巻いてんだな。眉毛」
「生まれつきだ。文句あるか」
「珍しいなとは思ったが、悪くねェ、と思う」
「……あっそ」
 実際、この眉毛は絶妙なバランスで男の美しさを損ねずに愛嬌を増すことに成功していた。
 ただ流石に人の顔を不躾に見て失礼だったと思い至ったゾロは、「ジロジロ見て悪かった」と素直に謝ると傷の手当ての続きをしようと新しいコットンを手に取った。まるで鞭打ちにでもあったようなミミズ腫れを消毒しようと肌蹴たシャツをさらに広げようとしたところで、男の手に押し止められる。
「これ以上はいい」
 有無を言わさぬような目の強さ。きっと、何か触れられたくない理由があるのだろう。
 男の手をそっと押し返すと、ゾロはコットンの代わりに絆創膏を手に取って擦り傷のところに貼ってやった。
「よし、こんなもんだろ」
 仕上がりに満足して男の顔を見ると、訝しげな視線とぶつかった。
「アンタさ、普段からこんなボランティア精神旺盛なわけ?」
「別にそういう訳じゃねェ」
「じゃあなんで……」
 自分だってなんでなのか教えて欲しいくらいだ。
 強いていえばその瞳《め》に魅せられたから。だがそんなこと言える訳もない。
「特に深い意味はねェよ」
 そのままにしておいたら死んじまいそうだったから放っておけなかっただけだ、と答えると男はまだ納得がいかないという顔をしたが、それ以上は尋ねてこなかった。
「んじゃおれシャワー浴びるから。その間に帰るなり休むなり好きにしてくれ」
 そう言ってさっさと浴室へ向かう。
 男を部屋に一人にすることへの抵抗は全くなかった。多分あの男は盗みとかそういうことはしない。万が一があったとしても、別に盗られて困るようなものもない。
 なんとなくそんな気はしていたが、烏の行水にちょっと毛が生えたくらいの短い時間でシャワーを終えて出ると、案の定そこにはもうあの男の姿はなかった。
 こたつテーブルの上には、手付かずの麦茶のグラス。ほとんど溶けずに残った氷が、カランと空虚な音を立てる。その音を聞きながら、名前くらい聞いときゃよかったな、とゾロはぼんやり思った。

タイトルとURLをコピーしました